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 俺が働く家具用品店にアオが中途で入社してきたのは、もう三年以上前のことだ。俺が二十七、アオが二十五だったと思う。当時アオには付き合っている彼氏がいたし、俺は俺で社内恋愛なんかゴメンだった。ボーイッシュ系の可愛らしい雰囲気の子だな、とは思って、ただそれだけ。今、『アオと付き合って三ヶ月が経った』という事実を当時の俺が知ったら、さぞかし驚くことだろう。  半年前、系列の新規店舗が増えたことで主任になった俺は、慣れない発注業務やクレーム処理、報告書作成……毎日の業務に忙殺されていた。ちょうど三連続クレーム対応をした後、事務所のパソコンで一人報告書を作っていたあの日。  眼鏡を外し、目薬をさしていたタイミングで「お疲れさまです」という言葉とともに、俺のパソコンのすぐ脇に缶コーヒーが置かれた。 「クレーム任せちゃってすみません。あのお客さん、大丈夫でした?」  アオだった。自分が電話で受けたクレームを俺に回したことを心配してくれたらしい。コタツテーブルの木目が説明された色合いと違うと物凄い剣幕で怒鳴られ、家まで交換しに行って怒鳴られ、本社からは凡ミスで損害を出すなと怒鳴られ。本当は全然大丈夫じゃないけれど、そんなもん言えるわけがない。 「平気平気。主任なんだし怒鳴られてなんぼだよ。これ、ありがと」  俺はかすむ目の目頭をもみ、缶のプルタブを上げて一口あおった。 「んッ⁉」  舌に想定外の甘ったるさを感じて吹き出しそうになり、慌てて眼鏡をかけ直す。この味。俺が缶コーヒーだと思っていたものは、よく見ると缶コーヒーではなかった。 「おしるこじゃねぇか……!」  振り返ると、事務所のドアを開けて売り場に戻ろうとする、アオの満面の笑みがあった。 「知らないんですか? 疲れたときには甘い物ですよ」  俺は閉まるドアに向かって「限度ってもんがあるだろ……」独り言ちる。長らく同じ職場で働いていて、特別気にしたことなんてなかった。ごく普通の、どこにでもいる、歳が近い同僚。ブラックだった会社を辞めてここに入社して、販売実績はよくも悪くもなくて、昼はいつも自前の小さな弁当を食べていて、それで。  なんで知らないんだろう。知らずにいられたんだろう。  初めて飲んだ缶のおしるこは甘くて、でも甘いだけじゃなくて、温かくて……どこか、ほっとする味がした。蛍光灯の下でしげしげと缶を眺めながら、俺はこれが好きだな、と思った。  翌日も飲みたくなって店内の自販機の前に行ったものの、おしるこが見当たらない。通りがかった清掃パートのおばちゃんに聞いたら、店を出た向かいの通りの自販機だったらあるだろうと言う。昨日は雨が降っていた。  あの雨の中、自分の休憩時間を削ってわざわざあんなところまで買いに行ったのかよ。  そう思うころにはもう、好きだな、と思っていたのかもしれない。  広い店内を忙しく駆け回って接客している隙間に、アオの姿を見掛けると嬉しくなる。以前よりは話すようになって、なんでもない話が楽しくて。  ひかれていくのはわかっても、仕事は仕事。主任という立場もある。俺は以前にも増して仕事に励み、務めて平等であるよう振舞った。別に社内恋愛禁止なわけじゃないし、店の中にも何組かカップルはいる。それでも社内恋愛となると、苦々しいことを思い出して、どうも気が重くなるのだった。
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