夜に溶ける

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 高揚と憂鬱と、期待と疎外感。あとは色々掻い摘んで。  同窓会ってこんな感じなんだなあ、と。わかっていた癖にがっかりする自分が虚しくて、寂しくなった。  楽しそうに話すかつての同級生、少し離れた席で盛り上がる元野球部、出来上がって真っ赤な元担任、来なかった友人。変わったようで変わっていなくて、実のところはやっぱり変わっている。決して顕著ではない、じわりと滲むような変化が大人になるということなのだろうか。  グラスの中でさざめくレモンサワーが、からんと氷を鳴らす。酸っぱくて苦くて、なのに不思議とおいしくて。大人になって蘇らせる学生時代と同じだと思った。  窓の外では、ネオンライトが夜に溶けている。焦りなんて微塵も感じなかった。夜に怯えて逃げることもなくなった。叱ってくれる人も、心配してくれる人も、一人分の家にはいないから。縛られると反骨精神が芽生えて自由になりたがるのに、解放されると途端に不安で自由が怖くなる。しっかりと自分の足で立てていないということだ。  そうして、生活には矛盾がつきものだった。  誰かといたいけど独りでいたい。  あれがやりたいけどやりたくない。  言いたいけど言いたくない。  好きだけど嫌い。  会いたいけど、会いたくない。  「あの時、ああすればよかった」なんて後悔が積み重なって大人になっていく。選択して後悔した先に今の自分がいるのだ。これから更に積もり積もって後悔の塊になる自分を、ちょっぴり不憫に思う。  思えば、最大の後悔は学生の頃。大人への記念すべき第一歩を踏み出したのは、高校三年生の最後の日だ。 仲の良かった友人同士で卒業証書を片手に写真を撮って、ペしょペしょと泣き出した情けない私を、友人が慰めてくれていた時だった。 ふと、その友人の向こう側にある人影を目で追った。今日くらいは、仕方ない。そんな表情で、普段よりほんの少し柔らかい目元の彼を見て、小さく笑みを溢す。 一度も同じクラスにはならなかった。会話も殆どしたことがない。彼が私の存在を知っているか、それすらもわからない。  それでも、好きだった。  彼に恋をしていた。一方的で、一度も交わらなかった想いだったけれど、私の三年間の青春は彼に捧げた。間違いなく、恋だったのだ。  勇気を出して話しかけることもできなかった意気地なしで終わったけれど、それでよかった。  綺麗なまま、秘めたまま、青いまま、記憶に閉じ込めて、少しずつ恋心を思い出にしていこう。そう、思っていたのに。  私が焦がれてやまない翠に、捕らえられる。身動きが取れなくなって、呼吸すら曖昧で、喧騒が遠い。  この瞬間、彼の世界には私がいた。交わらなかった想いが、微かに触れた。いるかどうかもわからない神様の最後の情けかもしれない。悪戯だろうか。罰だろうか。なんだってかまわない。  この一瞬が、私を底に落下させると知ってか知らずか。私の中で燻っていたものが疼いたのは確かである。彼はじっと私を見つめていた。半端にあいた唇が震える。 頬に灯った熱が消えてくれない。瞳から溢れ出た涙でさえも、火照った頰を冷やしてくれない。そうして、何分にも、何時間にも、何年にも感じられた数秒は、私から終わらせた。  最大の、後悔だ。  あの時、彼の元へ踏み出していたら。  あの時、目を逸らさなければ。  あの時、彼に好きだと伝えていれば。  私の恋は、後悔に満ちている。  思い出になんて、できなかった。忘れられるはずがないのだ。彼に恋をしていた時間の中であの瞬間が一番、甘くて熱くて、恋だった。そんなの、忘れられない。 取り戻すなんてことはできない。過去には戻れないし、同じ青春は巡ってこないし、時間は無情にも進んでいく。きっと私も変わったようで、変わっていなくて、実のところは変わっていたりするのだと思う。けれど、彼を好きな気持ちも、彼に恋する自分も、あの頃のまま、何ら変わりなくここにいた。それだけは揺るぎない絶対的なものであると断言できた。  今日、私は、同級生の顔を拝みに来たわけでも、元担任に近況報告をしに来たわけでも、ましてや酒を飲みに来たわけでもない。  青臭い恋心と、自惚れと期待と下心を、おろしたてのドレスに携えて、彼に会いに来たのだ。戻れないから、勇気を出して進んでみることにした。  ……とはいえ、だ。 人生、そう上手くいくものではないと、社会に揉まれてこれでもかと突きつけられて知っている。私は隅っこで一人肩を落とした。気合を入れて来たはいいものの、彼には一歩も近づけず、アシストしてくれるような友人もおらず、絶望の淵で体育座りをし、少々やけになりながら酒をちまちま飲んでいるのが現状。心は折れかけていた。  慣れないハイヒールが踵に食い込んで痛い。背伸びして買った綺麗なドレスも、寂しそうにしなっとなっている気がする。結局のところ、恋愛の面では何一つ変わっていないということなのだろう。  今日が終われば、きっと彼とは二度と会えない。連絡先も知らない。共通の友人もいない。会う口実もない。「会いたい」に理由なんていらないけれど、冷静に考えてみれば会う理由が必要なのだ。  窓の向こう側を歩く恋人らしき二人は、夜のネオンライトに照らされていた。まるでスポットライトを一身に浴びているようで、酷く眩しい。  その姿に憧れを焦がしていれば、こつん、とヒールの先にやさしい足音がひとつ送られる。視線を正面に移すと、私にとってはネオンよりも眩い翠が私を照らした。  息を呑む。同時に、頭が真っ白になった。なんだっけ。なんて言うんだったっけ。いやその前に自己紹介か。というか何でここに座ってるの。わざわざ向こうから移動してきたの。なんで。ここが静かだから避難してきたのか。それとも。いやいや調子に乗るな私。    止まることのない思考と疑問と推測とエトセトラ。突然の襲撃に脳は耐えきれずパニックを起こす。  再び、こつりと音が鳴る。彼の靴だった。「酔ってんのか」と、傍で聞こえる低い声に顔がぶわっと熱くなる。彼の声だ。なんとか意識は戻ってきたが、それでも脳は正常に機能してくれないし、なんなら心臓も誤作動を起こしている。更には、既視感のある半開きの口がバグを起こした。  「すき」  数日前、数週間前からイメージトレーニングしてきたもの全てが、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた瞬間だ。顔立ちや雰囲気は前よりずっと大人びているけれど、大好きな翠だけは変わらない。あの日と同じ色をした瞳が見開かれる。まって、違うの。これは今言うべきじゃないでしょ、私。汗か涙かもわからない雫が肌を伝う。彼は、ゆっくりと目を細めた。それから、くつくつと喉を鳴らすようにして笑う。  その色香に酔いが回るような錯覚がした。  「奇遇だな、俺も好きだ」  呆然と、言葉を咀嚼する。  「奇遇」「好き」  じっくりゆっくり噛み締めている間に、目の前の男は「これも喰らえ」と言わんばかりに私の名前を呼んだ。追いつけていない私を見つめながら、楽しそうな表情で「驚いた鳩みたいな顔してんなぁ」と、机に頬杖をつく。どうして、こんなこと。揶揄われてる?  「あ、の……」  自分でも聞いたことがないくらいか細い声が出た。「ん?」と、少しだけ首を傾けて口の端を吊り上げる彼に心臓がドッと弾ける。やめて、話せなくなるから。かっこいいから。  「なんで、私のこと、」  知ってるの。好きって言うの。どっちを先に聞こうか迷って、途中で止める。彼はそのどちらも察したのだろう。酷く簡潔で合理的な言葉で返した。  「ずっと好きだった。高校の時から」 うそだ。反射的に出てしまったそれは、即座に「嘘じゃねーよ」と否定される。だって、そんなの、嘘みたいだ。  まだ信じていないことが顔に出ていたのだろう。彼はふいっとそっぽを向いて、ちょっとだけ拗ねたような、照れ隠しのような声音で言う。あ、耳が赤い。  「好きな奴に声すらかけられねー意気地なしなんだよ、俺は」  「じゃあ、私と一緒だ」  浮かんだ笑みは、緊張でぎこちなかったかもしれない。そんな私を一瞥してから、彼はこちらに向き直った。真剣な顔で、私に手を差し伸べる。男の人の、大きくて骨ばった手だ。心臓を高鳴らせてそっと、けれど迷いなくその手を取る。続きは、言葉がなくても理解できた。  からん、とグラスの中の氷が音を立てる。飲みかけのグラスが二つ寄り添って、外側から垂れる雫がテーブルに染みを作り──────  私たちは、ネオンライトを搔い潜って進む。  手を繋いで、引いてくれる彼の背中はすぐ傍にあった。冷たい空気が肌に触れて、私の熱に浮かされる。  ふわり、ひらり、と。ドレスの裾が揺れた。
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