のびる神様について

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 第2章 のびる神の変遷 前述した通り平安時代には人々の間で広く親しまれていたのびる神であるが、なぜ現代ではその名を知るものが激減したのであろうか。その原因は意外な人物にあった。 平安時代に人々に親しまれその後も人々に根付いていたのびる神であるがのびる神の認識を大きく変えた出来事が1587年に起きる。 それは伴天連追放令という名目で出された政策でありこの政策を出したのは豊臣秀吉である。 伴天連追放令はキリスト教の普及により自身の政治の基盤が崩れることを危惧した秀吉によるキリスト教の排斥運動であることは広く知られているが、この政策によりのびる神信仰が割を食ったことをほとんどの人は知らないだろう。 というのもこの秀吉によるのびる神信仰の弾圧は不明な点が多く資料も現存するものが少なく学者の間でも意見が割れているため授業で取り扱うにはいささか不明瞭なのである。今回は数多くある学説の中から有力とされる二つの学説を紹介させてもらう。 まず一つ目の説が※4伸延宗のキリスト教混同説である。 この説は伸延宗がキリスト教の一種として弾圧されたとするものである。伸延宗は鎌倉時代に大成したのびる神様を教祖とし、四肢と頭を上下左右に伸ばすことで極楽浄土に行くことが出来るという信仰の下人々に親しまれた宗派でありその体を上下左右に伸ばしている姿がキリストの姿にそっくりだということで秀吉がキリシタンの一種だと勘違いをし結果的に多くの伸びる神信仰を行う者が弾圧を受け再興することが出来ずの現在の状況に至ったという説である。 二つ目の説が長尾延楽不敬説である。 この説は当時五大老として政権の運営に影響を与えていた前田利家の側近※5長尾延楽が国政に難航していた秀吉に「伸び伸びいこうや、民は逃げん」と発言した延楽に激怒し、延楽を政権から追放した後に延楽が信仰していたのびる神を全面的に信仰禁止にする処分を下し秀吉が政権を退いた後ものびる神信仰者は度々※6縮み神信仰者と争いを起こしていたこともありのびる神信仰が解禁になることはなく結果人々から忘れられていったという説である。 ※4しんえんしゅう 鎌倉時代に伸宗から派生し誕生した宗派。 ※5 ながおのぶらく ながおのぶつねの末裔であり伸延宗の信者であったとされている。秀吉によって延島に流されそこで生涯を終える。延島とは現在でいうところのニューカレドニアだとされている。 ※6ちぢみがみしんこう 伸宗から派生した宗派の一つで伸びるのではなく人は年を取るにつれ縮むものなのだから縮めることで極楽浄土に行くことが出来ると考える宗教。創設者の閉宋は生涯を終えるときにはボーリング玉程度のサイズまで縮んでいたという逸話を持つ。
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