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「先生、ここで騒ぎを起こしたら、この六年近い歳月の努力がすべて無になってしまうやも知れません。権力には逆らえないのですから」
「その通りだ。だが、私も本当は権力は大嫌いなのだ。あの儀典長ピアージオに一泡吹かせてやる」
師はそう言うと画面右下にある「地獄の渡し船」の絵の一部修正を始めた。師の意図がわからぬダニエルはけげんな表情で見守っていたが、やがて笑いが込み上げるのをこらえられなかった。儀典長ピアージオがこれを見る日が楽しみだと思った。
それから一週間後、また教皇パウルス三世と儀典長が進捗状況を見に、礼拝堂を訪れた。
「教皇様、何度見ても同じではありませんか。裸、裸、裸の連続です。こんな壁画を許可したとあっては後々まで教皇様の評判が落ちてしまいます。一刻も早く中止させねばなりません」
いつもの悪口雑言を聞き流していた教皇の口元がほころんだ。
「ほほう、これは面白い。儀典長、あれを見よ」
教皇が指さした先には、「地獄の渡し船」が描かれていた。画面の左には、船尾で手にした櫂で死者たちを追いやるカロンがいる。死者たちはそれに追われて、慌てふためき、画面の右へ右へと逃げて行く。船首から落とされると、待ち受けているのは冥府の審問官であるミノス。耳はロバの耳、体には大蛇が二重に巻き付いている。その上、その鎌首が股間のペニスに噛みついている。見るだに恐ろしい場面である。
顔をしかめながらそのミノスの顔を見た儀典長は、驚きのあまり、大声を出した。
「教皇さま、あの顔は私そっくりではないですか!」
教皇はニヤリと笑った。
「なるほど、深い皺、鼻は鷲鼻、分厚い下唇。お前もそう思うか。実は、私もそう思っておったところだ」
「許せません。ミケランジェロめ。私をこけにしおって。すぐにでも罰してください」
教皇は右手を差し出して制した。
「儀典長、私は教皇だ」
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