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あのひとに出会ったのは、とある夏の昼下がりだった。食事をするために出かけたはずが、うっかり川へ落ちたのだ。
夏とはいえ、川の水はやはり冷たい。徐々に体温が奪われていく。必死に身体をばたつかせ、川から出ようと試みるものの、なかなか思うようにはいかない。コンクリートで覆われた川べりは想像よりもはるかに高く、もがけばもがくほど体力を奪われていく。もはやこれまでか。
やっと独り立ちしたところだったのに。恋も知らず、子どもも産めないままで死ななければならないのか。自分のうかつさを悔しく思っていると、不意に身体が楽になった。なんと、私の身体を浮かせるように長い棒が差し込まれているではないか。
「大丈夫?」
私を助けてくれたあのひとは、怯えさせまいと思ったのか柔らかく優しい顔でこちらを見ていた。ありがとうと答えたつもりだったけれど、喉から出たのは可愛らしさとは程遠いだみ声だったように思う。それでも彼女は、ほっとしたようによかったと呟いていた。
「とりあえず、日向で身体を乾かそうか」
初対面のはずなのに、彼女はごく自然に話しかけてくる。そのまま公園のベンチまで連れて行ってくれた彼女は、私の身体が乾くまでそばにいてくれた。何時間もかかるというのに、ただじっと隣に座っていてくれたのだ。
こんなに優しいひとを、私は彼女以外知らない。初めて彼女に抱いた感情をなんと表現すればいいのか。
それから私は、外に出るたびに彼女を探した。そもそも彼女はあまり外へ出ることがない。外に出ても行くのは固定された数か所のみ。どうやら彼女の配偶者とやらは、彼女が自分の知らない場所に出かけることをよく思っていないらしい。
まったく嫌な男だと思う。自分は彼女以外の女を連れ歩いているくせに、番であるはずの彼女のことは隠し、閉じ込めてしまう。
私が男のようにたくましければ、彼女を守ってみせるのに。けれど、私は彼女から見れば小さく弱い存在で、守るどころか守られてしまう。その事実が情けなくて、私はひとり歯噛みした。
時間はあっという間に経っていく。
ずっと彼女の側にいたいのに、寒さが堪える。このまま春を待つことは難しいだろう。
そろそろ移動しなければならないことはわかっていた。それでもこの街を離れられなかったのは、日ごとに彼女の表情が暗くなっていっていたからだ。原因は言わずもがな、彼女の夫だ。彼女が耐えれば耐えるほど、女遊びは酷くなるばかり。
そして、忘れもしない運命の日。あたり一面真っ白となったあの日、彼女は遠い場所へと旅立ってしまったのだ。あんな男なんて放っておけばよかったのに。あの鮮やかな赤を私は決して忘れない。
階段から落ちていく彼女を見てしまった私は、目の前の事実を受け入れられずただ叫び続けた。そして混乱したまま窓ガラスにぶつかって、あえなく短い一生を終えたのである。そして、何の因果か私は彼女とともに生まれ変わった。今度は、鳥ではなく彼女と同じ人間として。
失ったはずの光にもう一度出会えたことを、感謝している。運命の赤い糸は、今回も私と彼女を結んではくれなかったけれど、彼女の幸せを一番近くで見守る立ち位置を手に入れた。
恋人や夫にはなれなくても、堂々と彼女のそばにいられることが何より嬉しい。この新しい世界で、私は彼女の幸せのために進んでいく。
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