ポケット旅行

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ポケット旅行

 突然の出来事でした。真っ黒なスーツを着た、太った人が僕のことをじっと見ていました。とってもニコニコしていて、大きなサングラスが怖くて、少しの間、動けずにいました。 「気に入った。いただきたい」  その人は、大きくて分厚い声で言いました。すると、いつもの飼育員さんが僕のことを小屋から出していくのです。ローラや、サンゴの寂しそうな目がどんどん遠くに離れていきます。飼育員さんに抱えられながら、ジェルミ、クルト、ポリエスの前も通り過ぎていきます。あっという間に僕は、小さなカゴの中に入れられました。そこからは、揺れて揺れて、すぐに眠ってしまいました。  目が覚めると、太った男の人が目の前にいました。まわりをみると、知らない場所です。見たことのない、白くて綺麗な部屋でした。 「今日からワシのペットじゃあ」  僕はどうやら、ここで暮らしていくことになったようでした。そんなこと納得できません。僕は慌てました。でもカゴからは出れません。みんなに会いたい。動物園に戻りたい。そんな思いだけが頭の中をぐるぐる回って、どうしようもありませんでした。  朝日を浴びて、目が覚めました。つまり、いつの間にか眠っていたみたいです。まわりを見回すと、太った男の人はいません。チャンスだ、そう思いました。ローラに教わって鍛えていた、脱出の方法。懸命に僕はチャレンジしました。どれくらい経ったのかは分かりません。でもついに、僕はカゴから出ることができました。太った人も、少し舐めていたのでしょう。戸締りが甘かったように思います。僕はすぐに、部屋中を走り回りました。爽快感、解放感が体を流れます。最初の方はそれで満足でしたが、だんだんと、この部屋から出られない事に気づきました。窓も扉も、重くて開きません。それでもあちこち走り回るしかありません。床には、服が落ちていました。大きくて、真ん中にポケットがあります。飼育員さんがたまに着ていたものと似ています。どことなく懐かしくて、気休めにそのポケットに潜り込みました。  すると突然、僕は何かに包まれました。視界のあちこちが渦巻いて、気持ち悪いです。抵抗はできません。そのまま僕は、身を任せて、流されていきました。二分くらいでしょうか。ぐるぐると回っていると、パッと視界が広がりました。驚くような景色が、飛び込んできます。  そこは、どこか知らない洋服屋さんでした。あっちにもこっちにも、洋服が置いてあります。いつの間に、移動したのでしょうか。上を見ると、髭だらけの人が、僕を見下ろしています。目が丸くて、びっくりしているようです。 「ブ…ブタ?」  びっくりしているのは僕もです。さっきまで服のポケットの中でぐるぐるしていたのに、ここはどこなんでしょう。とにかく、動いてみることにしました。洋服屋さんを歩いていると、偶然、扉が開いていました。一目散に走ります。 「うわあ。わあ。わあ」  街です。人がたくさん、建物がたくさん。なんということでしょう。僕はどうやらワープをしたみたいです。どういう仕組みなのかはともかく、ラッキーです。太った人の家からは脱出しました。こうなったら、動物園に帰るしかない。そう思って歩き出します。でもすぐに気付きました。ここは一体、どこなんでしょう。動物園の行き方なんて、全く見当もつきません。しょうがないので、とにかく動いてみることにしました。  歩いては、誰かに抱えられ、歩いては、抱えられ。そんな繰り返しを経て、ようやく街から出ました。広い道です。余計に絶望感が増しました。全部が遠すぎます。諦めて、一旦、どこか扉の空いている場所に入りました。そこは、食べ物の匂いがします。どうやらご飯屋さんみたいです。たくさんの椅子があって、座っている人たちのズボンが見えます。 「もしかしたら…」  僕はあることを思いつきました。こんな状況になっては、奇跡に賭けるしかありません。僕は勢いよく、座っている人のズボンのポケット目掛けて飛び込みました。 「うわっ!はあ?ブタ?」  慌てている人の声が聞こえます。  すると、体がまた渦巻きました。僕は賭けに勝ちました。また気持ち悪くなるくらい揺れて、パッと、どこかに放り出されました。  そこは、電車でした。人がぎゅうぎゅうに詰まっています。人だらけで、なんだか臭いです。見上げると、紺色のスーツのズボンが見えました。どうやらあそこのポケットから落ちたみたいです。僕は改めて確信しました。ポケットに入れば、ワープできる。そして作戦を思いつきました。ポケット作戦です。何回もポケットに入っていれば、いつか、動物園に戻れる。そういう魂胆です。僕はまた、適当なスーツのポケット目掛けて飛び込みます。ぐるぐる。ぽんっ。また放り出されます、  今度は、砂漠でした。一面、砂だらけ。あまりの広さに気を失いそうになります。砂混じりの風が吹きつけて、体が痛いです。そばでは、変な服を着た外国人が横たわっていました。寝ているみたいです。僕はそっと、その変な服のポケットに潜り込みました。砂漠は御免です。また、ぐるぐるぐる。 ---バァン!  放り出されるなり、大きな音が響きました。目の前で、血だらけの人が倒れています。カランと音がして、目の前に拳銃が落ちてきました。危険だ。何が何だかわからないけど、それだけは肌で感じ取れました。急いで、目の前で倒れている人のポケットへ入り込みます。血が臭いけど、我慢します。  広がる海、広がる砂浜、潮風。次は、南国のビーチです。水着の人たちがうろうろしています。水は苦手です。またポケットに入ろうとしたら、目の前の人は海に飛び込んでしまいました。まずいです。急いで、ポケットを探します。砂浜は新鮮な感触です。楽しく走り回っていると、だんだんまわりが騒がしくなってきます。 「ブタがいるぞ。ブタだ」  こうなってしまうと、身動きが取れません。僕は本気で走り出します。人の隙間を抜けて、遠くに来ました。目の前には、小さな仕切りがいくつもありました。奥ではシャワーの音が聞こえます。なんだろうと思って見ていると、ぼちょん、と仕切りの向こうにズボンが落ちてきました。体でも洗っているんでしょうか。とにかく、チャンスでした。びちょびちょの水着のポケットに無我夢中に飛び込みます。またぐるぐるしていると、誰かの「キャー!裸よー!」という叫び声が聞こえてきました。もちろん、知らんぷりして、流れに身を任せます。  そこから、僕はいくつの場所にワープしたのでしょう。虫だらけの山奥。鏡みたいな湖。凍るような寒さの北極。お坊さんのお膝元。偉そうな人だらけの大きい部屋。途中でまた太った人の部屋に戻った時は焦りました。終わってたまるもんかと、すぐさまポケットに入りました。カレーの匂いのするお店。斜めになっている塔。暗くて大きい音がズンズン響いているどこか。本だらけのお店。  あちこちまわって、さすがの僕も疲れ果てました。次で一旦休憩にしよう。そう思って、どこかのおじさんのポケットに飛び込みました。ぐるぐるにも、体が慣れてきたようでした。  ぶわっと放り出されて、僕は地面に上手く着地します。我ながら見事な動きです。すると、聞き覚えのある声が僕のことを呼びました。  すぐに顔を上げます。僕は驚きました。 「ポ…ポリエスかい!?」  なんとそこには、カンガルーのポリエスがいたのです。どうやら僕は、ついに動物園に戻ってきたようでした。当然、目の前のポリエスは混乱しています。僕は嬉しくてたまらなかったけど、少し不思議でした。まわりには飼育員さんもいません。一体、僕はどのポケットから出てきたのでしょうか。 「突然、キミが現れた。これは何事だ」  戸惑うポリエスに今までのポケット旅行について、説明しました。信じられないようで、目をギョロリとひんむいています。 「ポケットでワープ…不思議だ」 「それで質問なんだけど、僕はどこから飛び出してきたの?飼育員さんの服のポケットかと思っていたんだけど、見当たらないし…」  僕が悩んでいると、カンガルーのポリエスが、堂々と指をさしました。ゆっくりと、その指の先へ視線を移します。 「カンガルーにはポケットがあるのさ」  ポリエスの指は、カンガルー特有の、お腹の袋に向けられていました。これは盲点でした。 「ポリエス…カンガルーに生まれてきてくれてありがとう」 「やめてくれよ。小っ恥ずかしい」  照れているポリエスの元を離れ、僕は元のブタ小屋に戻りました。ローラとサンゴが、驚きの目で僕を見つめています。そんな二人に、僕は、堂々と言ってやりました。 「不思議なポケット旅行に行ってきたよ」  大変なことばかりで疲れたけど、いい思い出だった。今ではもう、そう思えていたのでした。
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