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First snow
雪を待ち焦がれていた時期があった。
風景をすべて白く埋めつくしてしまう鈍い白銀の景色。
それが待ち遠しかった。
だから、毎朝、目が覚めると飛び起きて真っ先にカーテンを開けてみる。
初雪が降る、ずいぶん前から、毎朝その調子だった。
霜だけが降りていて、雪が積もっていないとがっかりした。
不思議な話だが、おまえが生まれた北方の大地には雪が降り始めるまえに、雪虫というものが飛ぶ。
雪のように真っ白な綿を尻につけた羽虫が飛び回るのだ。
その不思議な生物が現れると、まもなく初雪が降る。雪虫は一年に一度、雪が降る直前にしか現れない。
なぜ、雪が降る直前に雪のような羽虫が現れるのかは解らないが、たぶん、擬態なのだろう。とにかく、不思議な自然の摂理に従い、雪のような綿毛を尾尻につけた虫たちが愛らしいダンスを踊る。
だから、雪虫が飛び始めた頃から、おまえはとびきりの早起きをして窓辺に駆けつけるようになった。
そして、ある朝、いつもとまったく違う感覚で目覚める。
目覚めた瞬間に、冷たい朝の大気の中に独特の匂いを感じた。
何と言えばいいのだろう……。
その大気の匂いは、生命の根源を揺さぶるような匂いだった。
人間の遺伝子の中に、古代から生き延びてきた歴史の記憶というものが存在しているとしたら、その匂いは氷河の季節を超えられた人類の生命力を刺激する匂いと表現できるかもしれない。
あるいは、遺伝子記憶のなかに存在する郷愁、ノスタルジア。
そんな感じだった。
限りなく無臭に近いのに、なぜか瑞々しいと感じられる透明な匂いが溢れ、大気の透度が一夜にして劇的にかわった世界のことを告げていた。
水とも違う香気。
それを嗅いだ瞬間に、雪の匂いだと思った。
おまえは暖かい布団から飛びだして力一杯カーテンを開く。霜の張った窓越しに真っ白な景色がぼやけて見える。
窓を全開にすると、そこは一面が雪に覆われた世界。
そして、新鮮な雪の匂いに満ちていた。
とても美しい朝だった。
そうとしか言い様がなかった。
静寂と光輝。
人の営みによってくすんだ街と、その汚穢をすべて覆い尽くす純白の仮装は、どこまでも優しく、見る者から感情すら奪っていった。
昇り始めた太陽の光が、雪上の乱反射をともなって瞳を膠着させる。
自分が何に抗って生きているのかということを忘れさせてくれる世界の姿がそこにあった。
しかし、その超常的な雪景色も、たった数時間で猥雑な人々の営みによって汚れた街の風景に変わっていく。
それでも、おまえは人々が目覚める前の、この一瞬のために雪を待ち焦がれていたのだと知る。
深い祈りと雌伏の季節が、確かに訪れたのだ、と。
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