1.相模夕人 -2-

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1.相模夕人 -2-

  「ーーーと、夕人!」 母に呼ばれて一瞬身体を震わせ、我に返った。 「あ、ごめん……。 そういえば、隣ってどんな人が住んでんの?」 夕人の問いかけに、母ははっとして車から降ろして玄関先に置いた荷物の中から綺麗な紙袋を取り出して中身をチェックした。 「そうそう、まだ言ってなかったんだけど。 お隣さんね、夕人と同い年の男の子が住んでらっしゃるのよ。中学校も、転校先の同じ学校だって。 ……仲良くしてもらえるといいわね」 転居先を探して、父と母がこの売物件に何度も下見に来ていたことを夕人は知っていた。 そしてそれを自分にあえて黙っていた事も、その理由も、わかっていた。 「後でお父さんが着いたら、これ持ってご挨拶に行きましょう。 名前が確か、“玖賀(くが)さん”って言ったかしら。ちょっと珍しいわよね」 母の手の紙袋には、慣習通りの引越し蕎麦…ではなく、食器洗剤のセットが入っていた。 「ご挨拶」と書いた可愛らしいのしが貼られている。 「蕎麦はね?好みもあるし、今の時代食べられない人も多いから。自分がもらって困らないものをお渡しするのが1番よ」 ーー確かに、食器洗剤もらって困る人は多分いないよな。 そんなことを考えながら、夕人は隣家に目をやった。 ーー同級生、か…… 初めての転校で、不安がないといったら嘘になる。 もしも仲の良い友人ができて、今までずっと制限されてきた生活を取り戻すように楽しく過ごせるならそれが一番だと思う。 だけど、それに向かって努力しようとは思えなかった。 今はとにかく、何もなく、過ごしていけるならそれで十分だった。 それ以上は何も望まない。 「ーーそうだわ、夕人。 じゃあ……これだけでいいから中に持って入っておいてくれる?」 母の言葉に目をやると、 “夕人 画材”とマーカーで書かれたダンボールと、その横には、アルミニウムで出来た三脚イーゼル、そこに立て掛けられたカンバスが置かれていた。 「大事なものだから、大型のものとは別で先に持ってきてもらったの。 あっ、画集はそっちの箱の中ね」 ーー持ってきてくれてたんだ。 「うん、ありがとう……」 夕人はイーゼルとカンバスを手に持ち、ゆっくりと玄関の中に移動させた。 真っ白な画布と呼ばれる、油絵用のカンバス。 中学入学のお祝いで、父が買ってくれたものだった。 最近はあまり触れることができていなかったが、本当に、自分の宝物と呼ぶに等しいこの道具たち。 夕人の一番の趣味で、唯一得意としていることーーー、それは絵描きだった。 幼少期に父に連れられて鑑賞したフィンセント・ファン・ゴッホ展で、初めて見る絵画たちに、幼い夕人は感銘を受けた。 ーーなんて素敵な世界だろう。 絵画、芸術、アート。 いつの時代も人々を魅了し、時代を超えても遺り続ける美しい作品たちは、何よりもそこに自分が存在したという証明。 それから父にねだり、画集をたくさん買ってもらった。 クロード・モネ、ルノワール、アンリ・ルソー、ポール・ゴーギャン…… 喘息の発作で入院するたび、病室のベッドの上で画集を眺めては、スケッチブックに模写をして過ごしていた。 病室から眺める景色をスケッチして、区の開催する風景画コンクールに応募し賞を取った時は、本当に嬉しかった。 夢、だなんて大層なことは願えない。 それでも、もしも叶うなら、将来は“絵描き”になれたなら…きっと幸せだろうと幼い頃は思い描いた。 ーーじゃあ、今はーーー? 今、果たして、それだけの思いがあるのか。 何かへ向かって強く、願い、希望を持ち進む力。 わからない。 自分はこれから、どうしたいか……どう生きていくべきなのか。 考える力や、何かを背負う余裕は無かった。 一体、何が夕人をそこまでさせたのかーー。 「ーーあのさ、俺、散歩してきてもいい? この辺全然知らないし……早く道とか周りの景色、覚えたいから」  今はここにいても大して荷解きの手伝いもできず、下手に母に気を遣わせるだけかと夕人は提案した。 「えっ…でも、夕人、あまり………」 母の顔色が陰る。 「大丈夫だよ。 ……ここには、は居ないから。」 夕人のその言葉とどこか安堵と諦めの混じった表情を見て、母は胸を撫で下ろした。 「…そうね、大丈夫ね。いってらっしゃい。 あまり遠くには行かないでね、迷子になるわよ?」 なるかよ、子供じゃあるまいし。という言葉を目で伝えてから、夕人はゆっくり歩き始めた。 身体が成長するにつれ、徐々に体力もついてきて発作を起こす頻度も少しずつ減っていく。 何よりも、運動面や季節性の花粉への対策など、自分自身で体調を注意し気をつけることが出来るようになったことも症状軽快に繋がっていた。 中学に上がってからは欠席することもだいぶ減り、周りと変わらないほどに学校にも通えるようになってきた。 やっと、“可哀想な自分”というコンプレックスから解放されたようにも思えた。 学力補填のための塾にも通った。  部活や、野外活動、体育祭、修学旅行。 いろんなことを、きっとこれから沢山経験することができるのだと。 少しずつ希望が持てた。ーーはずだった。 あの事件が、起こるまでは。
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