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染物屋の跡地を買い取り改修した薫布は、店面の割には蔵と住み込み棟が広い。住み込み棟の一階は食堂に湯場に男女の厠、功清の部屋と通いの安慈の私室と空き部屋が二つ。
二階には暁嬢様の「ワタシのお部屋」と空き部屋二つ。
して、なんと。改修時より職の決まっていた我らがために、三室をまとめて一戸分に仕立てられている。広さのみならず寝具や窓布の質の良さときたら、住み込みにはあるまじき厚遇だ。
以前に勤めた布屋で出会った我らが恋仲となり、その事実が知れた折。
店主こそ何も言わぬが……不思議なほどに言わぬが、周囲の冷淡を見れば職の継続は難いと明白だった。
二十過ぎの男が二人。
辞したところで働き口はいかにも出来よう、と私は呑気に思ったのだが、緑如は青くなっていた。相当に青く……心無き同僚の暴言など一顧だにせぬくせに、別の何かに、怯えるごとく。
私は人の気に敏いほうではないが、緑如についてはそこそこ分かる。
この店を続けることに怯えるか、辞すことに怯えるのか。その判別こそつかぬが、何も問うてくれるなという気は侵しがたきものだった。
まあ、由などよい。
無論分かれば役に立とうが、問い詰めてまで得る要はない。
緑如が不調の折には、まずは見守る。じっくりと見守り出来得る限りの支えを成す。
それが私のすべきこと、至上の大事だ。
当時私はその店の住み込み棟に居り、緑如は外に部屋を借りていた。店内では人目があるゆえ下宿まで送る、ついでに誘ってみる。
「ま、なるようになるさ。明日は休み前だ、まずは我ら自身の気を上げるべく夜は肉鍋でも食べに行こう』
日頃と同じ調子を心がけて言う。
がしかし緑如は、びくりと肩を震わせた。
『明日? ごめん、俺はちょっと……用があって』
『ん、そうか。いいさ、じゃ私だけで多少つまみに出てみるか』
緑如は時折、用がある。
用とは何かと、私は問わぬ。よって常にはこれで会話は終わるのだが。
『ふ、福来。出来れば近々はその……遠出は避けてくれないか』
『遠出?』
『……店のやつらが嫌がらせするかもしれないし。なるべく人目の多いところで、近場で過ごしてほしい』
『そうだな、じゃあ大人しくしていよう』
住み込みであるからには近場こそ同僚だらけなのだが、今は反駁すまい。
こうして二人で歩きながらも、緑如の目はちらりちらりと路地を見遣る。繊細に、敏感に、警戒を施すように。
日頃の職では極めて整然と有能に振る舞い、年齢以上に落ち着いている。
その緑如が私にだけ見せる怯えを、私は拒まない。
『ふ、福来っ。今日は……泊りに来ないか。俺の宿に』
『え。いいのか?』
初めて、緑如の部屋に呼ばれた。これまでは来客法度の宿とのことで、同衾には専ら茶屋を使っていたのだ。
『来客法度は本当だよ。……でも、もう、いいんだ』
なぜ、もう、いいか。
さような疑念は道端に捨て、緑如の好きな陳皮入りの香茶を買って下宿へと向かった。
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