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父の真の職を知りてのちに一度、妹のためにと近所の店より麦餅を掠めたことがある。稚拙な技ゆえすぐに露見し大層激しく折檻されたが、叩く父こそが酷く泣いていた。
……お前が悪を成すならば、俺が悪事に染まる意味がない。
いいか福来、俺は悪事を重ね逃げてはまた重ね、なんとか家族の糧を得ている。掴まれば処される身だ、罪は多くこの地生まれのこの身分ゆえ命はない。いいか福来、お前たちを清らかに置くために俺は芯より悪事に染まり、このせんなき命を賭けるのだ……。
と、言った二年後には本当に捕まり、処されてしまった。私が九つの折だった。
悪を成すな、が父の遺言。一方で、とはいえ己が身体は悪事の益にて育ったという事実のやましさよ。
自らの汚れを知りつつ自らは手を汚さず、私がかの地で生き長らえる武器は、……なべて見ぬふり知らぬふり。したたかさと愛嬌しかなかった。
十を過ぎると母の元に妹を残して遠縁の工場に住み込みで働き始め。道化のごとき馬鹿正直を売りに縁に縁を細々とつなぎ働き口を変えながら、やがて大都に辿り着いて悟った。この大都こそが、私が住むべき街なのだ、と。
南中都のこと私の周囲では、正直とは美徳以上につけこまれるべき弱さであった。しかし帝のひざ元にして法が効き洗練された大都、特に都市部においては、人の好さ礼儀正しさは好評を得る。道化は不要に、ほどよき正直が強みとなる。
己が特性を評価され、居場所を得て落ち着くうちには肉付き良き丸顔となり、より面相を褒められてお客様も増えて行った。
命を賭けて私を悪の道から弾き出した父と、徳を教えた母。その両親より授かった名と面相。まさにこれらの恩恵ゆえに今の私の暮らしはある。
永住の地と決めた大都にて更に、……この。緑如との縁までも得た。人の好さと正直の陰に押し込めてきた私の情欲、常ならぬ性の相方にして運命の伴侶。
生まれの全てに、この世の全てに感謝をせずにいられるものか。
『ご実家はまだ南中都なの?』
『はい。妹は嫁に出ましたし、母も別地に住処を変えて息災にございます』
『仕送りしてるなら、前より増やせるわよ』
『便りは時折致しますが、仕送りは人づてに年に一度のみ。あちらには無頼の賊が多く、屈強な友に託さねば無事には届かないのです』
『あらまっ。……劉国って存外、危険な国ね。こっわ~い』
うら若き女人の腕を斬り捨てたばかりの手を口元に当て、しなを作る。
『で、緑如ちゃん、福来ちゃん。どうする? わたしのところに来る?』
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