福来:薫布

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 翌日の昼。  ……昨夜の緑如は、激しかった。  常ならず、己が部屋のためだろうか?   張り詰めたその肌は敏を極めて応じ、身体ごと燃えるがごとく激しく、かつ丹念に。だが私としては部屋に招かれことさら密なる一夜を得たというのに、なぜか喜びより不安をこそ感じている。  あれは、あれではまるで…………今生の別れのごとき……いやいやいやっ。  胸に浮かぶ不穏な語を即座に消す。浮かぶ前に消す。いつ浮かぶかその予感すらも怖がり、帳票を無駄に読み込んだ。  いかに居心地の悪くなった場とはいえ、職に私事は持ち込まぬ。そして笑みを大事にすべし。が、信条なのだが……ああ……生まれてこのかた、かような不安は初めてだ……。 『おい』  店主の声で我に返った。 『指名の客だ。上客らしいぞ、福来と緑如で来いとさ』  私と緑如。今でこそ職場では余計な言を交わさぬが、新参の緑如に客あしらいを教えたのは私だから不自然ではない組だ。  しかしすかさず横から声が飛んだ。 『逢引きしたくて誰かに頼んだんじゃねえ?』 『はぁ~考えたな。これまでもあったろう、な?』 『いやいや真面目で気が合うお二人だ、上客様からいい件貰えるに違いない。期待してるぜえ?』 『……承知しました。案件をいただけますよう、鋭意努めて参ります』  無法な悪意には傷を受ける価値もなし、ただにこやかに店を出る。  ……即刻、参れ。駄賃は到着次第に払うゆえ馬車を使って構わない、というその行先は昼というのに花街であった。  馴染の妓女に強請(ねだ)られたか、と思えばそれまでだが、今の時宜に私と緑如の指名であることがやはり気にはなる。  二人して同じ感を持ちつつも声にはせず、馬車に揺られた。  到着したは妓館の別棟だ。  太き柱に密なる石壁、屈強な守衛たち。およそ妓館らしからぬ静けさは、貴族の中でも秘すべき接待に使われる上位の区画に違いない。 『この先でお待ちです』  かなりの距離の回廊を経て、絢爛なる引き戸を前にした案内の女中が言う。  我らには全く馴染まぬ場ではあるが、懸念や警戒の種が多いはずの緑如にも心当たりなき成り行きらしい。  そのことが二人を少し落ち着かせた。   『かような場に平民が平服で入り込むとは、商人ゆえの特権だな。素晴らしきご縁だ』  微笑む私に、緑如はぱちぱちと瞬きを数度したのちに笑みを返した。
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