だいじょうぶ

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 電話のむこうで彼女は泣いていた。 「ごめんね、もう少しだけ待って。私大丈夫だから、ちゃんと大丈夫になるから」  そう言っていた。  何一つ謝るようなことはない。君がうまくやれるように祈っている。  俺は何かそんな内容の事を言った。  なんだ、この状況は、と思う。  フラれたのは、俺のほうなのだ。  別に、きちんと付き合っていたカップルというわけでさえない。周囲からはカップルのように見られていたが、恋人同士でなければしないようなことは、まだ何もしていなかった。  そうなる前に、俺が怪我で入院したのだ。  一か月後。  退院直前、それまで病院に顔を見せていなかった彼女が現れ、他の男と付き合うことになったと言った。  自分がそのときどういう対応をしたか、俺は憶えていない。  たぶん、何も言えなかったのだと思う。  裏切られたのではない。自分がやりそこなったのだ。  そういう結論に達したのは、一人で退院を済ませて自分のアパートに帰って、久しぶりの酒を飲んで寝る頃になってからだ。  相手の男を、俺はよく知っていた。  俺より年上で、背が高くて、金も持っていた。何より、俺のように夢みたいなものを追いかけるような、ふわふわした生き方をしていなかった。  そりゃあ、あっちを選ぶ。フリーなんだから。  彼女は何も悪いことはしていないし、何も間違っていない。  そういうことにして、そう自分に言い聞かせて、忘れる努力をしよう、そう思えるようになったときに、彼女から電話がきたのだ。  自分の選択に迷いがあるのだろう。後悔もしているかもしれない。  そう思ったが、俺はあたりさわりのないことを言って電話を切った。  ざまあ、と思っていたわけではない。  彼女の泣く声なんか聞きたくなかった。まだ好きだったからだ。  でも、今ここにつけこめば、とりもどせるのではないか。  そんなことも考えなかった。  考えなかったというか、ただ、その時は思いつかなかったのだ。    そのあと、何度か彼女は似たような電話をかけてくるのだが、俺はずっときれいごとしか言わなかった。俺は平気だと言い、彼女を励まし続けた。  優しさではない。  これはまだチャンスがあるのではないか。  そうは思っても、その先に見えている泥沼に、踏み込む覚悟ができなかった。相手の男が少しでも嫌な奴だったら、そちらに進んでいたかもしれない。だが、俺はそいつのことも好きだったのだ。そして、とても勝てない、そう思ってしまっていたのだ。  お似合いの恋人どうしになる。そう思ったし、じっさい数年後に二人は結婚した。    迷ったし、後悔もしたし、ひどく苦しい日々だった。  突き放してしまえば良かった、そんなことを思いつくのは何年も先のことだ。  俺は結局自分のやり方を変えなかった。なにか確信があったわけではない。ただ、その状況に耐え抜くことで、何かはっきりとした決着にたどりつけるのではないか、漠然とそう思っていた。  退院してから、六週間は経った頃だろうか。  ああ、こういうことか。  俺は気づいた。 「今でも君のことが好きだ」   彼女と会う機会を作って、俺はそう言った。 「あなたにはとても感謝してる。でも、今はそんなこと考えられない」  時間をかけて言葉を選んで、でも明確に彼女は言った。  わかっていたことだった。  むしろ、その言葉を引き出すために、俺は六週間待ったのだ。    俺は頷き、あっさりと席を立った。  彼女はちょっと驚いていたと思う。俺は余計なことは言わなかった。    やっと君は大丈夫になったな。  そう思っていたけれど、何も言わなかった。  これが決着だ。  これが俺の望んでいた景色だ。  いくらか負け惜しみも入っていたけれど、俺はすっきりとした気持ちでそう思った。    振り返ってみれば、いつも俺はそんなふうだ。  負けてばかりいるから、負けてるときが一番落ち着く。  そういうことなんだろうけれど、自分を負け犬だとも思わない。俺だって、何もかもで負け続けているわけではない。  なんであれ、そこにあったのは求めていた景色だった。  山の頂のように寒くて空虚で、誰もいなかった。   自由とはそういうものだ。 
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