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11:28:33_____
私はこの時間を忘れもしない。
「奥さん!今っ、今深呼吸!ほらっ!吸って!」
その言葉に従って、しかめ面の彼女は無理やり息を大きく吸う。私の手を握りしめる力がさらに強くなっていく。その手を私はさすりながら、一緒に大きく息を吸っていた。
「旦那さんは今吸わなくていいの!」
ベテランの看護婦は汗ばんだ額を無造作に拭って、背中をバシンと叩いた。
「ごほっごほっえほっ、んんっちょっと痛いじゃないですか」
「今奥さんはもっと痛いんだよ?」
「あっ佳代さんごめん」
叩かれた背中にやった手をすぐさま彼女の手の上に戻す。
「ふふ」
痛そうな顔のまま微笑んでいた。
「智さんが一番テンパってる」
「そ、そうだな、まず私が落ち着かないと。えっと、」
「ふふっうっあぁぁっ!」
「佳代さん!もう一踏ん張りだよ、せーのっ」」
「ううっ」
迸る汗は彼女の体を伝い、ベッドに染みる。それ以上に私は涙と鼻水と汗でびしょびしょになっていた。手をさすりながら苦しむ妻に胸がいっぱいになっている。
「旦那さんっそれ私が言うから、ほらせーのっ」
言葉の奪い合いに、もはや笑える余裕はなかった。そのまま。そのまま。
「ううっ!はぁぁぁはぁはぁはぁ」
「ゔぅんぎゃぁぁぁぁっ」
「奥さん、おめでとうございます!元気な女の子ですよ!頑張りましたねっ」
「はぁはぁはぁ、か、かわいい。」
か細い声を絞り出す。
「智さん、い、いたい。」
「ふぅふぅ、え?」
彼女の手をぎゅっと握りしめていた。
「ああっごめんっ。佳代さん、ありがとう。」
「うんうん。」
時計は11時28分33秒を指していた。汗だくの腕の中で、君は大声をあげていた。
シーンが切り替わる。
打って変わって機械音だけが鳴り響く静まり返った病室。差し込む日の光で暖かい。それを私は恨めしく思っていた。
またしても彼女の手を握っている。
「ねぇ、あの子が生まれたのもこの病院だったよね。今日は学校に行ってるよ。あ、そうそう、すごいんだよ、前バレー部に入ったって言ったよね?早速レギュラーに選ばれたんだって。今度試合あるらしいし、応援に行きたいよな。」
目を瞑った彼女は笑いかけてさえくれない。手に視線をやる。
「佳代さん。私にはまだ、私にはずっとあなたが必要なんだよ。なぁ、目を開いてくれよ。あの子の幸せを見届けようよ。なぁ」
「ふふ」
そう言った気がした。思わず顔を見た。そっと微笑んでいた。
「佳代さんっ!」
その呼びかけに応えるかのように、ピーと長い電子音が鳴った。
駆けつけた医者が彼女の手を取った。
「11時28分33秒、ご臨終です。お疲れ様でした。」
「佳代さん」
今日だけは彼女の微笑みが痛かった。
目を開けると、壇上で娘が華やかに包まれて今までの日々を思い返し手紙を読んでいた。私の視界はいつのまにかぼやけていた。だが、彼女の顔姿表情ははっきりとわかった。
時計は11時28分33秒。
一呼吸をおいた娘が手紙を置き、私の目を見つめる。
「お父さん、今までありがとう。」
私は溢れ出す思い出と涙をぎゅっと抱きしめた。
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