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5/9 同意なき×××は許されない
「というわけだ、プロメテウス殿。娘であり妹であるエピメテウス殿によく言い聞かせて、嫌がるパンドラを襲わないようにさせてほしい。状況が改善するまで、パンドラは帰らない」
海辺の工房つきの自宅で、ヘファイストスは腕を組む。それから、ふかふかの敷物に胡座をかき、となりで膝をかかえる『絶世の美男』パンドラの背中を慰めるように優しくたたいた。
「パンドラ、もう心配ない。好きなだけ我が家でゆっくりすると良い」
すると顔をあげたパンドラは、泣きはらした緑の目でヘファイストスを見やる。
「父さん、女は怖いよ。朝昼晩せまられて体力が限界なんだよ。最初は好きだったけどもううんざりなんだよ。子どもだってもう何十人もいるのに、なんで飽きないんだよ。僕はもう帰りたくない。僕は父さんと生きる。父さんのように清廉潔白に生きて、天才エンジニアを目指すよ」
「パンドラ……そこまで思い詰めてしまったか」
ヘファイストスが遠い目をする。
「子どもだってもう何十人」というパンドラの言葉は、嘘ではない。結婚してまだ1年しか経っていないが、エピメテウスはどういうわけか毎月ウミガメのように大量の卵を産み、大量の子どもが孵るのである。有性生殖というものが確立されていないためか、哺乳類・人類の生殖とはかけ離れた世界になってしまっているのだ。
「……すまないね。うちのエピメテウスが……」
プロメテウスは大きな溜息を吐いた。
「あたしもよく言い聞かせるんだけどね、聞かないんだよ。子どもが多くなるにつれ、ますます強気になっちまってさ……。正直なところ、あたしも、どうにかできるとは思えないんだ」
「そうか……、」
「父さん、僕、もう離婚しかないと思うんだよ。子どもは可愛いけど、エピを妻として愛することに限界を感じるんだ。父さん、あれあるよね? 結婚するときの誓約書。無効にしたいんだけど」
嗚咽しながら迫ってくるパンドラから目を背けつつ、ヘファイストスはプロメテウスへ向かう。パンドラの言った「結婚するときの誓約書」はヘファイストスの作品で、内容を違えると雷に打たれて電気ショックを受け、周囲には誓約違反を知られるという二重の罰則つきのものだ。
「離婚となると、エピメテウスの同意も必要になる。プロメテウス、彼女にその気はあるのか」
「残念ながら、嫌がるだろうね。ムキになって乗り込んでくるかもしれない」
「まずいな。面倒はなるべく避けたいところだが……」
「とにかく、パンドラは父さんといらっしゃいよ。エピのことは、あたしが何とかするからさ」
プロメテウスが言うと、パンドラはこくりと頷いた。
「ありがとう、母さん……、」
「いいんだよ。むしろ、もっと早く気づけなくってすまなかったよ。あんたがそこまで思い詰めてるとは知らなくってさ」
そのような訳で、ゼウスの命で人間界へおくられた「絶世の美男」パンドラは1年かそこらで早々に里帰りしたのであった。
日本で言う「実家へ帰らせていただきます」というやつだ。
「じゃあね、兄貴。何かあったらまた来るよ」
「ああ、姉上。くれぐれもよろしく頼む」
プロメテウスとヘファイストスは、お互いを姉兄と呼ぶ仲になっていた。どちらが上か下か分からないので、対等ということだろう。
小舟をみずからで漕いで去っていくプロメテウスを浜辺で見送る。相も変わらずサファイアのように輝く昼のエーゲ海を見つめ、ヘファイストスは独り、大きな溜め息をついた。
さて、パンドラをどうしたものか。
悩めたのは一瞬だった。
「っ?!」
突然、背中に何かが突撃してきた。細い2本の腕が腹にまわり、きつく抱きしめられる。
どうにも、泣き虫パンドラのものではない。振り向くと、1年前にはほとんど毎日聞いていた懐かしい声が追ってきた。
「カリストー! なぜワシから逃げるのだ。神々の頂に立つイケイケなワシの愛を、どうして受け止めようとせぬのだ」
変な悪寒がして、ヘファイストスは身構える。腹に抱きついている何かはそのままに向き直り、今のところ「神々の頂に立つ」ゼウスにしかめ面をしてみせる。
ゼウスが手当たり次第に女性たちを襲っているのは、今に始まったことではない。本神は罪の意識が全くなく、「ワシの高貴な胤をまかれるのは全ての女性にとってこの上ない幸福」と信じて疑わないのだから非常に厄介だ。
また1人犠牲者が出ようとしているのかもしれず、居合わせてしまったからには見捨てておけない。今のところ「神々の頂に立つ」ゼウスが盛大に嫌な顔をしようと、生まれ変わったヘファイストスに逃げ道はなかった。
「なんだ、我が息子よ。最近顔を見せなくなったと思っていたら、こんなところにいたのか」
「ゼウスよ、私はもう貴殿を父とは呼ばない」
「……よく聞こえなかった。ヘファイストス、我が息子よ。今は『天才エンジニア』に構っている場合ではないのだ。お前のうしろで隠れんぼしているカリストーをこちらへ渡せ。ワシの愛を受け入れない女がいるはずはない。イヤイヤをしようと最後は喜びにむせび泣くのだ」
「ゼウスよ、彼女たちは喜びに泣いていたわけではない。生理的にムリすぎて悔し泣きしていたのだ。反吐がでるほど、血の涙を流すほど許せなかったのだ。この理性のない獣が。誰が彼女を渡すものか」
ヘファイストスの脳内では、頭蓋骨がほとんど見えた怨念が発狂せんばかりに怒っている。
♣姉『前々から許せなかったが……この男は……まさに女の敵、』
♢兄『母上、どうされた』
♣姉『坊や、息子よ。よくお聞きなさい。今、あなたの後ろで震えている女子は母です。力では勝てない不埒な男に追い回され、苦しめられているあたくしです』
♢兄『なんと……‼』
♣姉『そしてよくお考えなさい。あなたの息子であるパンドラ。おびえて泣いています。震えているのは、あなたの子なのです。あなたの娘。あなたは、娘が苦しんでいるのを放っておけますか。父として、守ってやりたいと思いませんか』
♢兄『その通りだ、母上。ワシは、彼女を守らねばならない……!』
というわけで、ヘファイストスは巌のごとく佇んでいた。そして堪りかねたゼウスが体当たりをかましてきたので、見えない網で捕獲してしまった。
「なにをっ……、ここから出すのだ! ヘファイストス、父へのこの侮辱、ただでは済まさぬぞ‼ お前などワシの落とす雷で丸焦げにして、」
「残念だったな、ゼウス。忘れたとはいわせない、貴殿の雷をつくりだすシステムを組み上げたのはこのヘファイストス。すでにプログラムを変更して貴殿の感情には連動しないようになっている。今の貴殿に対抗策はない。大人しく反省文を書き、この誓約書にサインをすることだ。ちなみに、この誓約書に違反するとプログラムが作動して雷が落ちる」
「なっ……なんだと?! お前、ワシの預かり知らぬところで仕事しおって、ワーカーホリックにもほどかあるぞ……!! 自分のしていることが分かっているのか?! ワシは神々の頂、最高権力者なのであるぞ? こんなことをすればワシの息子や娘たちが黙ってはおらぬわ! 兄弟姉妹もものすごい神なのだからな? お前など一瞬で地獄いきだ‼」
見えない網の中で叫ぶゼウスを引きずりつつ、すがりついてくる女性を片腕で抱えつつ、ヘファイストスは考える。
確かに、ゼウスは腐っても今のところ神々の頂、最高権力者なのだ。呼べばアレスやアポロンやアテナやアルテミスの軍隊が群れをなしてかかってくるだろう。
何か対策を練らねば。
呻っている内に、そう、こういう時にかぎって仕返しにやってくる輩がいる。
ヘファイストスが上の空で歩いていたその時、空から降り立った小さな天使が――手にした弓でハート型の矢を放った。
「っ、」
狙われたのは勿論ヘファイストス。背中に直撃した矢は心臓につきささり、目をみはった彼は――腕に抱いた女性を視界にとらえてしまった。
あろうことか放たれたそれは、恋の矢。
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