漂流島の真姫

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漂流島の真姫

海は赤く燃える船を映している。 女は砂浜で服を脱ぐと白い肌を晒して冷たい海の中へ、躊躇う事無く頭まで没すると、水面に白波が立ち大きな白蛇が姿を見せた。  冷たい視線に射ぬかれて目が覚めた、外は既に明るくなっている。  全身に激しい痛みが戻ってくる、痛い、痛いんだ、僕の身体は腐っている。  霞む視界に男が居た、刀傷でボロボロの制服には嫌というほど見覚えがある、昨日の海戦相手の将校だ。  至近距離で大砲を打ち合い、移乗攻撃による白兵戦、船内の火薬に引火、爆発。  二隻仲良く爆沈したはずだ。  「生きて……いる?」  声が掠れて皺がれる。  「そのようだ」  「あなたが……僕を助けてしまったの?」  昨日の怒号と恐怖に満ちた怒り、痛みから解放されなかった言葉に怨みが重なる。  ジャラッと手に嵌められた手枷と鎖を持ち上げた。  「お前と同じだよ、彼女が助けてくれたようだ」  扉の前に人間の女?がいた、美しい黒髪に白い肌は海には珍しい。 まだ幼さを残した顔が微妙な笑顔を向けて小さく手を振っている。  「君は……」  「私……マヒメ」  たどたどしい言葉、共通語は得意じゃないのか。  「ルイス・イカール伍長か」  「あなたはダーウェン・W・バーダイン士爵様、貴族なんだね」  壁に表札のように名前を書いた木版がかけてある、兵員認識票を見たようだ。  話すのが苦手なのに文字が書けるとは妙だ。  「フッ、士爵は貴族階級の一番下、平民と変わらない」  「それでも士官だもの、いいよね、後ろの方で突撃言っているだけ、痛い思いをするのはいつだって平民だ」  初見の敵船の士官、精一杯の強がり。  「お前、魔血病だな、安い嫉妬だ」  「そうさ、近くいると移るよ、すごく痛いんだ、早く死んで解放されたかったのに……」  歯茎の色、痩せた身体、体中の内出血、医者でなくても判別はつく。  「魔血病の前に、その女々しさが移りそうだぜ」  ダンッ、マヒメが足を強く踏み鳴らした。  「喧嘩、ダメ!」  両手を交差させて⦅やめて⦆といっている。  鎖で繋がれていて良かった、戦わなくてすむ。  「!」  ダーウェンの空気が緊張したのが分かった、マヒメを警戒して黙る。  「何で急に大人しくなるの、鎖に繋がれているから?貴族様は臆病だね」  「お前、見てないのだな」  「彼女が俺たちを生かしておくとは限らんぞ……」  マヒメが後ろを向くと着ていた服を突然脱ぎ始める、真珠のように白い肌が眩しい。  「なにをっ!?」  横顔の視線と目が合った、真珠が溶けるように揺らめくと、次の瞬間マヒメは姿を替えていた。  そこに現れたのは海神レヴィアタン、部屋いっぱいに蜷局を巻いた蛇は白蝶貝に碧が差す鱗を纏い、頭には冠のような角を伸ばしている。  「うわあっ!!」  海神と呼ばれる蛇は、時に荒ぶり船を沈め、伝説では人の魂を喰う水妖として海を知る者には恐れられている存在だ。  ⦅やはり僕は魔に憑かれていたのか⦆  スウッと首が伸びてルイスの顔に冷たい体温を感じるほど近づいてくる。  「くっ、食われる!?」  ぺろりと赤い舌が伸びる。  「ひいいっ」  死にたかったはずなのに本能が拒む。  黒く深い色の双眸が真っすぐと見据えてくる、恐怖が寒気となって身体を震わせる。  「私……人、食べない、喧嘩はだめ、病気は痛い」  「!?」  レヴィアタンは首を戻すと、再び揺らめき人間に戻る、その姿に妖魔の雰囲気は微塵もない。  「怪我治る、病気治る、飲め」  服を羽織ったマヒメが二人の前に小さなガラス瓶を一本ずつ置いていく。  澄んだ黄金色の液体が満たされている。  「これはっ!?まさかエリクサーか!」  「エリクサー!?」  万病を直す神薬、エリクサーの花から採れる蜂蜜を魔力で精製した秘薬、市場にでれば金貨百枚では足らない価値を持つ、もちろんルイスは見たことなどない。  ダーウェンは上官が神官から買ったと自慢しているのを見たことがあった。  「エリクサー、飲んで、出ていく」  レヴィアタンのマヒメが言うのだ、本物だろう。  マヒメはエリクサーをもう一本取り出しすと栓を抜き一気に揉みほした、口元をハンカチで拭うと直ぐに肌に桃色が差した、毒見のつもりか。  「飲め」  思わずダーウェンとルイスは顔を見合わせるが、拒否する選択はない。  覚悟を決めて口に入れる、甘い前味に酸味と苦みが追いかけてくる、後味はすっきりと切れて美味い、上等なリキュールのようだ。  「おおっ!」  「ええっ!!すごい、痛みが!痛みが引いていく!」  直ぐに気力、体力が漲るのが分かる、全身の痛みが嘘のように遠ざかる。  死んでまで開放されたかった痛みが消える、涙が伝った。  「寝る、治る」  マヒメは微笑むと瓶を回収し、エリクサーの香りを残して小屋を出ていった。  二人残された小屋に、涙を見られた気まずさの沈黙が流れた。  ザアアッ……サワサワッ……ザアアッ  開け放たれた扉から春の柔らかな風が、さざ波の音と共に入ってくる。  「僕達だけかな、生き残ったのは?」  ルイスが沈黙に耐えかねて尋ねた。  「たぶんな、俺は爆沈した船から放り出されて、海中で藻掻いていたところを彼女に咥えられたんだ、てっきり食われたと思ったらここにいた」  「僕も海の中で、雨が降る様に沈んで行く船と仲間たちを見たよ、記憶はそこまでだけど」  「信用は出来ないが、食われることはないかも知れない」  「出て行けと言っていたよね」  「一人……いや一匹だと思うか」  「分からないよ、でも人間の時はあの身体だよ、僕達を担いで運ぶのは無理じゃないかな」  「仲間がいるかも知れない」  ダーウェンはポケットから釘を取り出すと、手枷の鍵穴に突っ込み、カチャカチャと捩じる、ガチャリと鍵が外れる音がする。  「!!」  まずいと怯えるルイスに向かってダーウェンは笑った。  「安心しろ、俺はお前とやり合うつもりはない、戦争なんてクソ喰らえだ、ちょっと外の様子を見てくる、あと小便だ」  そう言うとダーウェンは、慎重に左右を窺い出て行ってしまった、足音を立てない足捌きは騎士というより泥棒か暗殺者だ。  小屋は島の中腹にあった、下には砂浜があり、蛇行した跡が小屋の入り口まで残っている。  だとすれば島にはマヒメ一人しかいない可能性が高い。  なにかを焚いているのか島の中央の高台から煙が伸びていた。  「あれが本宅か」  島の周囲に生い茂っているのは、エリクサーの木だろう、黄金に輝く美しい花。  木々を巡る螺旋の道が迷路のように見える、置いてある木箱は蜜蜂に違いない。  「マヒメが一人でエリクサーを精製しているのか」  「これは運が向いてきたかもしれん」  ダーウェンはニヤリと口元を釣り上げた。  一人小屋に残されたルイスは現実を受け止められずにいた、実は死んでいるのに海の魔物に騙されているようだった、温かい風が吹き込む部屋が歪んでみえる。  魔血病とはビタミン不足で起こる壊血病のことを指していたがルイスや平民は知らない。  魔物に憑かれた呪いで起こる病だと都市伝説を信じ込まされているに過ぎない、貴族や商人にとって下級船員は使い捨てだ、航海中貴重な果物を与えないための方便なのだ。  耐性のないものから発病して身体と精神を病み、やがて死に至る。  自分の余命が寄港するまで持たないことは分かっていた。  死ぬなら海がいい、船で死ねば海葬されて暗く深い海で永遠に眠れる、そう思っていた。  「皮肉だよね、死に方ばかり考えていた僕だけ助かるなんて」  嘘のように身体に痛みはない、でも鉛を飲んだように倦怠感が重く乗っている。  黒かった皮膚は人の色を取り戻したが、細かった身体はより痩せている。  水妖に囚われ、敵兵と部屋を共にする異常事態より、痛みから解かれた身体は春の微睡に誘われ深い眠りに落ちていた。  鼻を擽る匂いで目が覚めた、こんなに深い眠りは記憶にない、視界が広く明瞭になったようだ、エリクサーの効果だろう。  「良く寝たようだな、顔色がいい」  ダーウェンは何食わぬ顔で手枷を戻していた。  「寝る、元気なる」  再びマヒメもいる、目の前に温められたスープと果物があった、匂いの元。 ダーウェンの皿は既に空だ。  「食え」  無意識にゴクリッと唾を飲むと暫く感じた事の無かった空腹感、猛烈に腹が減った。  「むっ……くっ」  ルイスは魔血病を疑った、呪われるのはかまわないが痛みの再発は嫌だ。  躊躇していると、既に完食しているダーウェンが見かねて声をかけた。  「大丈夫だ、魔血病なんて貴族たちの作り話さ、本当の原因は別にある、そのスープは平気だ、なかなか美味かったぜ」  皿の底を見せて笑う。  「食え」  マヒメが無邪気な笑顔で汁を掬ったスプーンを口元に差し出す。  一口啜ると、塩気とトロミのあるスープに刻んだ野菜が脳天を直撃した。 マヒメの腕から奪い取る様にしてがっつく。  「うっ、美味い、美味過ぎる!!」  「美味いか、汁、おかわりあるぞ」  あっという間に食べ終えて二杯目をもらう、今度は具材が大きい。  「ゆっくり食え」  ルイスが食べるのを見て鼻の下を指で擦りながらニカッと心底嬉しそうに笑う、ドヤ顔というやつだ。  「マヒメ、お前は喰わないのか?」  ダーウェンが聞いた。  「私、三日に一度、お腹空かない」  「そうなのか、俺達ばかり悪いな」  「人間、沢山食べる、楽しい」  人間に害を成す魔物には到底見えない、街にいればナンパされない日はないだろう。  「ひっ、ひっ……美味い、美味いよぉ」  ルイスは数か月ぶりの美味い食事に感動して泣いた。  「なんで泣く?どこか痛いか」  「マヒメ、違うぞ、そいつはお前の作った汁が美味過ぎて泣いているのさ」  「ふーん、美味いのに泣く、変だ」  これほど生きていることに感謝したことはなかった。  食べ終えた皿を置き、汁と涙で濡れた手を拭きもせずにマヒメの手を取ると頭を下げた。  「ありがとう、ありがとう、あんたは女神様だ」  現金なものだ、魔血病の水妖から女神に昇格だ。  「ふぇ、女神?」  満更でもないのか照れているように頭を搔いている。  「助けてくれて……ありがとう」  「寝る、元気出る」  肩をぽんぽんと叩くと上機嫌で立ち上がり、表情を変えた。  「今夜、危ない、出るな」  「危ない?何のことだ」  「海の魔物、危ない」  全ての窓と扉に鍵をかけ閉じると、ダーウェンを指さして、  「出るな!」  「!」  食器を重ねて小屋を出ていった。  「バレていたか、以外に隙がない女神様だぜ」  ルイスの顔からは死相と剣が落ちて、本来の温和な男に戻っていた。  「どれ」  ダーウェンは再び手枷を外すとルイスの手枷も外してしまう。  「ルイスと呼ばせてもらうぜ、お前も白兵戦の続きをするつもりはないだろ」  「ルイでいいよ、やっても勝てなさそうだもの」  「俺はダーでいいぜ、それでルイはこれからどうするつもりだ?」  「どうするって……正直分からない、帰りたい家があるわけでもないし」  「そうなのか、家族が心配しているだろ」  「家族はいない、孤児なんだ、天涯孤独さ」  「そうか、奇遇だな、俺も同じだ」  「えっ、士爵もちの貴族じゃ……」  「名前は本物だけど階級章は俺のじゃない、本業は冒険者さ、密航して大陸で稼ぐはずが、見つかって船倉に閉じ込められていたのさ」  「役に立つかと思って死体から剝取ったけど無意味だったな」  道理で貴族らしくない訳だ、冒険者というのも怪しい。  「エリクサーはすごかったな」  「……僕は余命一月と言われていたのに、痛いのも苦しいのもすっかりなくなったよ」  「そうだろう、俺の生傷もすっかり塞がっている、神水エリクサーを実際に飲んだ奴なんて、貴族でも公爵クラスだけだろうな」  「出ていけと言っていたよな、このまま逃がしてくれるのかな」  「魔物が見返りなしに人間を助けると思うか」  「そうだけど……とても悪い事を考えているようには思えない」  「なんだルイ、お前もう惚れちまったのか」  「やめてよ、マヒメは白蛇の女神様だよ」  「マヒメは俺が枷を外して出歩いているのを知っていながら目を瞑った」  「僕もそう思ったよ、許してくれた」  「見込みはあるかな……」  「何の見込み?」  ザザザザッザアアアッ  小屋の脇を大きな何かが滑り降りていく気配が会話を断ち切った。  「なんだ?」  出るなとマヒメに釘を刺されているが、確認しない訳にはいかない。  音が下った方向には白蛇の姿があった、レヴィアタン、マヒメだ。  猛スピードで砂浜を滑ると海に潜っていく、激しい水飛沫が上がる。  「おいっ、あれはなんだ?」  星の無い暗闇の海中に、炎の灯かりが揺らめいている、だんだんに深度を上げてきている。  浮かんでくる巨大な影、2人には見慣れた形、突き出た三本マストが水面から顔を出す。  「ガレオン船だ!」  「なんてこった、幽霊船、アンデッド・ガレオンだ」  永遠の命のため、魂を縛られ腐肉を纏う契約を魔王と交わし、使徒に堕ちた船。  海中でも消えない魂の鬼火を焚き照らしながら、その身に飲んだ海水を吐き出して浮上してくる、甲板に蠢く船員の影は一糸纏わぬ白骨たち、双眸の奥に青い炎が揺れる。    オォゥオォゥオォゥオォォォォォォ  汽笛のように、白骨たちの声なき声が低空飛行して響く、不気味さに足が竦む。  「あんなものが存在するのか、なんて悍ましさだ」  「まさかマヒメの仲間か」  「いや、様子がおかしいぞ」  アンデッド・ガレオンの甲板から白骨たちが次々と海面に身を投げる、その手には剣が握られている。  白骨たちは海面に足まで浮上して歩いて近づいてくる、凪いだ黒い海は呪いの沼のように粘つき白骨の海渡りを助けている、この島に敵意があるのはどす黒い殺気から明白だ。  マヒメが海中を飛ぶ猛禽となって水中から高く飛び出すと白骨に襲いかかる、頭と鰭の剣が白骨を砕く、ガシャガシャと骨片が海に飛び散る。  海面のサーフェスすれすれを白い影が踊り水飛沫が上がる度に白骨兵士は数を減らしていく、マヒメの無双に思えた次の瞬間、ズガァァァンッ轟音とともに海面がはじけ飛んだ。  「大砲が生きている!!」  荒ぶる波の下に白い影か疾走している。  「大丈夫、無事だ!」  アンデッド・ガレオンの横腹に二十の大砲が突き出る、一斉射撃が来る。  「まずいぞ、マヒメ、潜れ、潜るんだ!!」  マヒメは気が付いていないのか島に近づく白骨兵士を水面で迎撃している。  ズドオッズドドドオオォォオオッ 至近距離で発射された弾が幾つもの水柱を上げる。  着弾の直前でマヒメはUターンしていた、魚雷となってガレオン船の腐った横腹に突っ込むと バキャッ 突き破り内部で暴れまくる、大砲口から白骨兵士の部品と木片が飛び散る。  「すげえな、レヴィアタンは水妖じゃなくて聖獣だったのか」  幽霊船が向きを変え、反対側の大砲を島に向けた。  「まさか、こっちを狙っている!?」  ズドオッズドオッオォォッ 大砲が火を吹く、今度は水柱ではなく島の斜面に土煙が上がった、エリクサーの花が無残に飛び散る。  「あいつら、エリクサーを!!」  ズドズドオッズドッオォォ 再びの連射。  「!!」  ルイの目が小屋に迫る弾を捉えた。  「伏せろ!!」  ダーウェンに飛び付くとそのまま倒れこんだ瞬間、直撃を受けた小屋の屋根が吹き飛び、ガラガラと柱が崩れ落ち、木っ端が降ってくる。  「ダー!無事ですか!?」  「ああ、良く分かったな、助かったぜ」  「繋がれたままなら死んでいました、ダーのお蔭です」  「じゃあ、おあいこってことでいいな!」  崩れた柱を避けて外に出ると、幽霊船の甲板の上にマヒメの姿があった、白蝶貝の鱗に赤い筋が見える、怪我をしている。  「!!……やはりそうか」  ダーウェンが眉をしかめて唸った。  「どうかしたの」  「この島だ、おかしいと思っていたんだ、海図にも載っていなかったし話にも聞いたことがない島」  「確かに、僕も知らない」  「幽霊船を見ろ、航跡が立っている、奔っている証拠だ、それなのに島との距離が変わらない」  「本当だ……だとしたら、この島自体も動いていることに!?」    「そうだ、この島は漂流島だ!」    甲板の上でレヴィアタンのマヒメと対峙しているのは雑兵の白骨ではなく、青黒い肉を纏い士官の服を着ている人間に近い魔人。  双眸に白目はなく、ただ黒く染まっている、開いた口の中はただの骨、白骨に海で死んだ人間の肉を剥いで纏わせただけの化け物だ。  生前の欲望だけを残して魔に堕ちた亡霊は、自我も愛も正義も失い、ただ永遠の時を欲望に縋り、死ぬことの出来ない牢獄の中を彷徨っている。  シャアアアアッ マヒメが威嚇の咆哮を浴びせる、鰭の剣が伸び、鱗が逆立つ。  出来損ないの機械のように魔人が傾きながら片手を上げた先には片手式フリントロック銃(火打石)が握られていた、ババンッ 放たれた銃弾が逆立つ鱗を飛ばした。  「ギャアアアアッ」  悲鳴と共に、マヒメの尾が鞭のように飛び、魔人を粉砕した、幽霊船の鬼火が消え白骨兵士たちもガラガラと崩れ落ちる。  幽霊船はゆっくりと航跡を小さくしながら沈み始め、やがて海中に没していった。  「やったのか」  「マヒメ様が勝ったんだ」  進み続ける島から直ぐに幽霊船は見えなくなった、マヒメが泳ぎ帰ってくるのが見える。  「危ないから出るな……か、マヒメは俺達のために言ってくれたのか」  マヒメが砂浜に泳ぎ着いた時、暗い空には星が戻り、月が星空を細く割いていた。  ザアアッ 砂浜で蜷局をまいた白蛇は人間に姿を変える、トボトボと足取りが重い、頭が重く垂れている。  数歩進んだところでバタリと倒れこんで動かなくなった。  「!ルイ、マヒメが倒れた」  「助けに行こう、ダー」  二人は急いで小屋から砂浜に走り降りていく、月明かりの少ない夜、足元が見えないにも関わらずルイスの足は速い、夜目が相当に効くようだ、ダーウェンは付いていけない。  「マヒメ様、マヒメ様しっかりして、大丈夫ですか」  肩を揺すっても反応はない、真珠の肌のいたるところ痣と生傷がある。  ようやく追いついたダーウェンもマヒメの怪我に眉をひそめた。  「だいぶやられたな」  上着を脱ぐと全裸のマヒメに掛ける。  「どうしよう、ダーウェン、マヒメ様が死んでしまうよ」  「とりあえず、本宅に運ぼう、手当はそれからだ」  大柄なダーウェンがマヒメを担ぎ、夜目の効くルイスが斜面を先導する。  エリクサーの迷宮で幾度も道を間違えたが、その度にルイスが確認に走る、本宅へ着くまでに小一時間を要した。  鍵のない本宅は、破壊された小屋よりは大きい、一部屋だけの石造りの壁に木の柱、ギターが飾られ、屋根は黒く光る鼈甲のような素材で出来ている。  「ベッドがある、そこに寝かせよう」  ルイスが毛布を退かし白布を敷いた、抱えていたマヒメをそっとダーウェンが降ろした。  生傷は開いたままだ、出血が止まっていない。  「エリクサーだ、まだあるはずだろ、探すんだ」  「そうか、エリクサーだ」  ダーウェンは部屋中の扉を開けていくが見つからない。  ルイスは部屋の真ん中に立って鼻をクンクンさせていた、匂いを辿っているのか、やがて方向を定めると、床下の扉を見つけた。  「ここだよ、ダー、この中にある」  「目だけじゃなくて鼻も利くんだな」  床下収納の取手を引くとケースに収められたエリクサーが積まれていた。  「あった!」  一本取り出し、急いでマヒメの口に流し込む、咽ずに飲んでくれた。  「よし、いいぞ」  「開いた傷口を閉じてみてくれ、塞がるんじゃないか」  指で挟んでおくとエリクサーの効果もあり、傷口が塞がり出血も止まっていく。  痛いのか少し身をよじって抗う様子を見せた。  「我慢して、出血を止めないと」  今までは放置したままだったのだろう、真珠の肌には幾筋もの裂けた跡がある。  傷口を塞ぎ、乾いたタオルで濡れた体を拭き清める、マヒメの身体は体温を持たないのか冷たい海の温度のままだ、海水で濡れた髪をタオルで挟み乾かす。  ルイスは顔を赤らめて躊躇しながら手当しているが、ダーウェンは慣れているようだ。  一通りのことをやり終えてシーツを掛けた、心なしか穏やかな表情で眠っている。  「大丈夫だと思うが、ルイ、傍で見ていてやってくれ」  「うん、ダーはどうするの」  「俺は海の様子を見てくる、さっきの白骨共が心配だ」  言うが早く、盗賊の足捌きで部屋を出ていった。  マヒメの呼吸はすごく小さく、ゆっくりとしている、人の半分以下だろう。  「……ベリ……アル」「!」  うわ言をマヒメが呟いた、誰の事だろう。  一人になると漂流している島の事も気になった、土と岩で出来た大地がどうやって海の上に浮いているのだろうか、聖獣レヴィアタンが住まうには相応しい幻の島。  魔法なのかとも考えたが、島を半永久的に浮かせておくなど魔王でも不可能だろう。  興奮が冷めると急激に睡魔がやってくる、抗い切れずマヒメのシーツに顔を埋めた。    「!?」  マヒメは目覚めると、ベッドに寝ている自分と、シーツに涎の染みを作っているルイスの寝顔を見て全てを理解した。  いつもなら砂浜でカモメに突かれて目覚めるところが今日は身体のどこにも痛みがない。  二人の優しさを感じて自然に笑みが零れた、こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。  「思い、出す……ベリアル」  ルイスの髪にそっと触れると静かにベッドを抜け出した。  「起きろルイ、マヒメがいない」  「ん……ああ?」  ここのところ目覚めるとダーがいる、なんのルーティーンだ。  「あれっ、気が付かなかった!」  「あの怪我で動き回るのは早すぎる」  知らぬ間に再び襲撃があったのかと二人は青くなった。  本宅から飛び出して周りを見渡す、動いている者はいないように見えた。  「おい、あれは!?」  ダーが指さした先は海だ、白い筋が航跡を牽いて波打ち際まで来ていた。  「マヒメだ」  「やっぱり襲撃があったのか」  二人はエリクサーを掴んで走り出した。  砂浜に着いた時、マヒメは人間の姿で何かを選り分けていた、走ってくる二人を見つけて大きく手を振る。  「おは、よう」  「マヒメ、また襲撃があったのか」  「身体は大丈夫なの、酷い怪我していたのに」  少しきょとんとした後、ニカッと歯を見せた。  「大丈夫、二人、あり、がとっ、私、元気」  どうやら無事のようだ、砂浜に選り分けられていたのはガラクタの山?  「何だそれは」  「拾って、来た」  「何か探しているの」  「二人、お礼、する」  どうやら海底まで潜って探してきたようだ、襲撃ではない。  「そんな、お礼だなんて、無理しちゃだめだよ」  「それで、何か見つけたのか」  「ぬふふふふっ」  差し出したのは瓶、栓の開いていないワインボトルだ。  「おうっ、これは酒じゃないか、それも相当な年代物だ」  「人間、お酒、好き」  とりあえず昨夜のダメージは無いようだ、信頼されたのかもしれない。  「お酒、楽し」  クルクル回るとそのまま高台の本宅に駆け上がっていく。  「待って、マヒメ、手伝うよ!」  「これは気に入られたかな」  マヒメが海中から拾ってきた物の中から金貨を拾い上げてポケットにしまう。    エリクサーの迷路を抜けると小さな畑があった、芋や葉野菜が植えられている、トマトもあった。  「マヒメ様も野菜を食べるのですね」  ルイスは収穫用の籠を持たされていた、新鮮なビタミンが満載だ。  「私、食べない、これ、思い出」  「思い出?何のことですか」  「寝てる、愛しい、人」  マヒメが指さした場所には小さな墓標があった。  「ベリアル、野菜、好き」  うわ言の名前、マヒメの思い人。  この畑の作物は既に亡くなっている彼への供物。  「その方は人間だったのですか」  「ベリアル、人間、沢山食べる、楽し、愛し」  「マヒメ様はいつからここに?」  「いつから?……忘れ、た、ずっと、昔」  「言葉はベリアルさんから教えてもらったのですね」  「そう、ベリアル、教えた、お喋り、楽し」  ベリアルの墓標の表面は風化している、その石の横は彼女の席だ、一人掛けの小さな椅子が置いてある、返事を返さない相手に一人語りを何年続けてきたのだろう、切なさがルイスの胸を締め付けた。  人と久しぶりに話をして、ベリアルを思い出したからなのか彼女は嬉しそうだ。  ルイスは前を歩いていくマヒメの後ろ姿を見ながら眩しそうに眼を細めた、こんな気持ちで女性を見たのはいつぶりだろう、視界の焦点が彼女にしか合わない。  春愁の迷路が永遠に続けばいい。  本宅の煙突から煙が伸びていた、いい匂いが漂ってくる。  「よお、帰ったかお二人さん、待っていたぜ」  ダーウェンが包丁を握り調理をしていた、既に食卓には皿が並び、火にかけられた鍋から至福の湯気が昇っている。  「ダー、君は料理が得意なのかい?」  「ああ、一流料理店で皿洗いのバイトを暫くやっていたんだ」  「皿洗い?シェフじゃないの」  「盗むのは得意なんだ」  ダーウェンはお玉を片手にウィンクして見せた。  「プーッ、あははははははっ」  マヒナがお腹を抱えて大笑いし始めた。  「ありゃ、そんなにウけるとは思わなかったが、まあいいや」    三人で夕方までかかって料理を準備した、テーブルに乗りきらないほどの皿が並び、グラスには海底で眠りを貪っていたビンテージワインを叩き起こし満たした。  「カンパーイ!」  マヒメはワインが好きなようだ、口の中で噛み、鼻から空気を抜いて味と香りを楽しむ。  「ほう、マヒメはワインの楽しみ方を知っているようだ」  「それもベリアルさんから教わったの」  「そう、彼、教えた、いろんな事」  「ベリアル?マヒメの彼氏のことか」  「たぶん、畑の横にお墓があったよ」  「ルイ、ダー、ベリアル、同じ匂い、ナイスガイ」  「ナイスガイ?はっは、嬉しいじゃないか、初めて言われたぜ」    あまり食べ物を口にしないマヒメがこの日はよく食べて飲んだ。  ダーウェンの料理の腕は確かだった、魚と野菜を煮込んだスープ、ジャガイモを潰して捏ねたニョッキにトマトのソース、焼きガニ、どれも美味かった。  三人で五本目のヴィテージを抜いたころには嘘がつけないほどに酔っていた。  「ふーッ、何か気持ち良くなってきた」  「ルイ、お前見かけによらず酒強いなー」  「うーっ、嬉し、楽し」  「もうずっとここで暮らしたいよ、帰るところもないし、マヒメ様ぁ、僕をここに置いてくれませんかぁ」  「だめっ、海の魔物、危ない、二人、死ぬ、だめ」  「ヒッ、そんなぁ、僕割と強いんですよー、役に立ちますからぁ、村にいた時だって魔物退治して報酬貰っていたんですからー」  「じゃあ、英雄じゃないか、なんで使い捨ての船員やっていたんだよ」  「ダー、よく聞いてくれました、酷い話だよ、助けてあげたのに……村の奴らは僕を撃ったんだ、僕が……」  「僕が?」  「なんでもない……」  「なんだよ、はぐらかすなよ、気になるじゃないか」  「なんでもない、ちょっと酔った」  「まあいいさ、言いたくないことだってある、でもマヒメ、ルイの言った事にも一理あるぜ、昨日みたいな事があるなら、俺たち役にたつぜ」  「だめ、昨日、新月、魔物、弱い」  「満月、魔物、強い」  「次の満月まで三週間だぞ、奴らがまた来るのか」  「魔の海、漂流、もう少し」  マヒメが薄く笑いながらグラスの端をなぞりながら呟く。  「なあ、マヒメ、どうせなら魔の海を抜けるまで別の島にでも避難しとけばいいんじゃないか」  「ダメ、私、離れない、守る」  「守る?エリクサーをか、でもマヒメはそんなに必要ないだろ」  「ダー、聞き過ぎたよ、だいたい君はどうなのさ、ほんとは冒険者でもないんだろ」  「藪蛇になったか、お察しの通りだ、俺は確かに元子爵で海軍の士官だったが、気に入らない上官をブッ殺してムショ行きの囚人が本当のところだ」  「殺したの?」  「男が戦う理由はいつだって⦅コレ⦆のために決まっている」  ダーウェンは小指を立てて、またウィンクした。  「もう、どこまでが本当なのか分かんないよ」  「ルイ、教えてやるよ、謎めいた男の方が女にはもてるんだぞ」  「二人、ナイスガイ、いい男、好き」  「ようし褒められついでに、一曲やるか」  「一曲?ダーは何か音楽出来るの」  「マヒメ、サバス バイラール セビィージャ?⦅セビジャーナス踊れるかい?⦆」  「!!クラーロ⦅もちろん⦆」  マヒメが立ち上がり目を輝かせた。  「やっぱりな、そのギターを見た時からベリアルの出自が想像出来たぜ」  「じゅあ、僕がカンテ⦅歌⦆とパルマ⦅拍手⦆打つよ」  「おっと、ルイもバイラオール⦅男性の踊り手⦆だったか」  「当然さ、僕の出身地の踊りだよ」  「ようし、タブラオ・デリーバ(漂流)開店だ」  「エストィ ムィ コンテンットォ!!⦅すっごい嬉しい⦆」  その夜、三人は歌い、踊り、ワインを朝まで楽しんだ、かき鳴らすギターと床を打つ靴音、響く歌声、パルマがコンパス(リズムのパターン)に溶け、永遠の宴が漂流島の灯台のように灯り続けた。    二日酔いのためにエリクサーを飲む訳にはいかないが、藁の助けも欲しいほどの頭痛でお昼を迎えた。  マヒメは既に出かけたようでいない。  「ぎぼち悪い……」  「ああ、飲み過ぎた……」  部屋の中は既に片付けられている、マヒメは二日酔いにならないらしい。  「マヒメ、可愛いよな……」  「純真で素朴で……天使だよ」  「女神か天使か、どっちだ」   「彼女の笑顔が続くなら、僕は死んでもいい」  「ルイ、死急ぎはマヒメに嫌われるぜ」  「それでもいい、無意味な僕の人生に意味が産まれる」  「哲学的だなルイ、お前どっか良い家柄の生まれだろ?平民の考え方じゃない」  「昔の話は忘れたよ、ダーだって本当のことは言ってないよね」  「自慢出来る事なら話しているさ、惨めな負け犬の話なんて聞きたくないだろ」  「ふふっ、そうだね、女神様の耳が汚れる」  「うるせっ!言ってろ」  「はははっ、おかしいよね、この間まで敵同士の船で殺し合っていたなんて」  「人間は愚かだ、もっとも俺は船倉に繋がれていたけどよ」  「僕も人は殺した事無いよ、端っこで震えていただけさ」  「我らが天使を探しにいくか」  「うん」  砂浜にマヒメの服があった、また潜っているようだ。  またワインを見つけに行ったのだろうか、さすがに二夜連続はきついと思っているところに、海面を破りマストの先が伸びてくる。  「!幽霊船?」  身構えた二人の前に姿を現したのは沈没船だが一本マストのヨットだ、白骨兵士は見えない。  牽いてきたのは、やはりレヴィアタン、マヒメだ。  「マヒメ様!」  二人も水に入り、ロープを掴むとヨットを係留するために引く、白蛇がマヒメに戻る。  「マヒメ、これは」  「二人、乗る、帰れ」  「……」  「魔物、強い、死ぬ、嫌」  「俺達なら大丈夫だ、死ぬことは怖くない、マヒメ、お前と一緒に戦わせてくれ」  「だめ、人間、死ぬ、私、死ねない、辛い」  「人間は遅かれ早かれ死ぬ、それは仕方ないことだ」  「私、悲しい」  ヨットは、まだ沈没してから時間が立っていないようだが、帆も失くし航行のためには修理が必要だった。  ダーウェンとルイスは暫く説得を試みたがマヒメは首を縦には振らない、渋々従いつつ時間をおいて説得を続けることにする。  次の日から、ヨットの修理が三人の日々の仕事の中心になった。  船底の修理のため大潮に木組の枠に船を乗せるのが大仕事だった、レヴィアタンの力を借りてなんとか乗せることが出来た。  ダーウェンは船大工仕事が得意だ、経験があるらしい、子爵の話は益々怪しくなった。  船底の泥を掬い腐った木を張り替える、木材は幽霊船に吹き飛ばされた小屋の木を使った。  目的はどうあれ、三人でする作業は楽しい日々に違いはない、日の出と共に蜂の世話に出かけて蜂蜜を採取して漉しておく、ルイスは刺されなかったがダーウェンは虫が苦手だ。  「なんで俺ばっかり刺されるんだよ」  「怖いと思う気持ちが伝わって、蜂が怖がるから刺されるのさ」  「蜂、小さい、ダー、弱虫、シシシ」  「何だよ、二人とも酷いな、心配してくれよ」  「身体はデカいのに、虫が怖いなんて変なやつだ」  「そうだ、変、ダー、弱虫」  「怖いものは怖いんだから仕方ないだろ!もう」  背負子に蜂蜜を満載にしてエリクサーの花が咲く迷路の道を三人の笑い声が往復する。  互いに思い合う気持ちが幸せを作る、消えない思い出が漂流していく。  ヨットの修理は順調に進んだが、帆の布は手に入らない、海底の沈没船の物はどれも腐っていて使い物にはならなかった。  「マヒメ、気持ちは嬉しいが布ばかりは諦めるしかない」  「だめ、私、探す、何度、潜る」  マヒメの帆の探索は日を増して遠くまで時間がかかる様になっていた、元々海の聖獣なので長時間海中にいても疲れた様子はないが、二人は心配だ。  マヒメの労力を思うと帆の布を早く調達しなければならない、自分たちに出来ることを考え島にある漂流物を探しに出ることにした。    その朝もマヒメを見送ると島の海岸線を辿って漂流物を探す、多くは流木や魚や鳥の死骸、役に立ちそうなものは少ない。  「だめだ、布なんて全然落ちていない」  「布は沈んでしまう、最初から望みは薄いさ」  「でも、やらないよりやった方がいい」  「見つかりゃ御の字だ、これ以上マヒメに負担を掛けたくない」  「でも、ヨットの修理が完成したら……」  「……」  二人に、その後の答えは見いだせない。    「おい、ルイあれを見ろ」  「!」  もうじき島の尻部分に達しようという時、島の亀裂に挟まっている難破船を見つけた。  慎重に崖を降りていくと、船底を見せて横たわるのは小型のガレー船だ。  海賊船だろうか、砲撃による穴だらけだ、中を覗くと積み重なったガラクタの中に帆を見つけた、予備の物だろう。  「やった、帆があるよ、使えるんじゃないの」  「宝くじが当たったな」  二人で引っ張り出すのは苦労したが、破らず外に出すことができた。  聖獣マヒメの島で乗っていた兵士たちが亡者として復活しないよう海葬しておきたいが躯は見当たらない。  「ダー、これを見て!」  「ハルバート(鉾)だな、海兵じゃなく揚陸部隊を運んでいたのか、白骨相手には都合がいい、獲物無しじゃ戦いようがないからな」  「僕はこれがいい」  ルイスが拾い上げたのはアイアンクロー、手甲に装着する長く伸びた爪。  「なんだそりゃ、戦奴隷用の際物武器だな、使えるのか」  「僕専用みたいなもんさ」  「自信ありげだな」  ニヤリと笑ったルイスには、いつもと違って戦士の凄みがあった。  「この荷物を陸送するのは時間がかかりそうだ、早く行こう」  二人は逃げるための帆ではなく、戦うための帆と武器を得て砂浜に戻っていった。  満月まで残り一週間、船旅のための乾物や、水を準備することに時間を費やした。  拾ってきた帆は継接ぎながらも使えそうだった。  ハルバートとアイアンクローはマヒメに見つからないように吹き飛ばされた小屋に隠しておいた、魔物たちに揚陸されればこれで島を守るつもりだし、ヨットから幽霊船への移乗攻撃も可能だ。  海に出る事が少なくなったマヒメは、変わってエリクサーの精製に力を入れている、蜜蜂たちが集めてきた蜂蜜に聖獣のレヴァイアタンの霊力を込めてエリクサーに仕上げる。  代用品の魔獣や低級の聖獣の霊力では作れない本物のエリクサー。  海の亡霊が欲して止まない復活の神薬。  二人は不思議に思っていた、聖獣であるマヒメはエリクサーを飲まなくても外傷や病気の直りは人間とは比較にならないほど早い、死なない訳ではないが不死に近いとマヒメは言った。  それなら数百本にも及ぶエリクサーは必要なくなる、もとより金など必要としないから売る目的でもない。  亡霊をおびき寄せる餌かだろうか、復讐するべき相手がいるのかもしれない。  ダブラオ・デリーバは二日に一回は開店している、三人ともすっかり上達して息の合った舞踊が繰り返される。  酒の力を借りなくても互いのことが音楽と踊りを通して分かり合える感動を幾夜も味わった、途轍もなく幸福な時間。  三人はかけがえのない家族になっていた、国を、海を、種族さえも越えて結ばれた魂。  失うことは等しく哀しい、相手の幸せを願い、身を切ることも厭わない愛する者たち。  そんな家族を得られたなら、その人の人生はそれだけで幸福だろう。  そして失うことが出来ない愛のために別れる時もやってくる。  「二人、明日、島、出ろ」  「!」  ついに来てしまった、マヒメから別れの宣告。  「まっ、待ってくれ、どうか考え直してくれ、頼む」  「お願いです、マヒメ様、僕たちをここに置いてください、お願いします」  二人が床に膝を着けて陳情する様を見るマヒメの顔も苦痛に歪んでいる。  「だっ……だめ、二人、死ぬ、嫌」  マヒメの頬に涙が伝う。  「帰るところなんてない、陸に上がっても地獄が待っているだけです」  ルイスがマヒメの足に縋って泣いている。  「マヒメ、迷惑かも知れないが、俺達はここを出てもろくな死に方出来そうにない、ならここで少しでもお前の役に立って死にたいんだ、許してはくれないか」  「!うっ、うっ、ああああっ」  しゃがみ込むとルイスとダーウェンの頭を抱き抱えて泣いた、三人で泣いた。  マヒメは立ち上がると泣き顔のまま、本宅を飛び出していく、坂を下る程に、走る程に泣き声は大きくなり海を渡っていく。  そのまま海に飛び込み、水飛沫を上げレヴィアタンが疾走する、幾度も海面から空中に駆け上る様は、別れの辛さに身を捩り悶えているかの様に、行き場所のない悲しみを追いやる様に飛ぶ、その光景を二人は茫然と眺める事しか出来なかった。  眠る事は出来ずに二人は本宅でマヒメの戻り待った、考え直してくれることに一縷の望みを託して待った。  朝日と共に小さな足音が扉の外に帰った、日の光を浴びたマヒメの顔は泣きはらして真珠の肌が目の周りだけ赤く痛々しい。  「マヒメ……考え直してくれたか」  薄っすらと哀しく笑いながら首を横に振る。  「!!」  「だめなのか……」  ルイスがまるで死刑を宣告されたように膝を床に落とした。  マヒメは震える唇を噛み、強く瞼を閉じて耐えている。  二人の絶望がマヒメに伝わる、それほど慕われたことに魂が震える、覚えている限り二度目の感情。  大切に持ってきたバックを三人で囲んだテーブルに置く。  「二人、お願い、大切」  「!?」  「なんだ」  丁寧にバックの蓋を開けて中身を晒した、純白の大きな卵だ。  「私、の、子供」  「!!」  「聖獣の卵!」  「私、ベリアル、子供、守って、逃げて」  「君がここを離れられない理由はこれか!」  「アンデッドが狙っているのもエリクサーではなく卵の方か!」  マヒメが頷く。  「聖獣、海、孵らない」  「えっ、そうなの、海の聖獣なのに!?」  「聖獣、川、育つ、エリクサー、子供、乳」  「そうか、淡水の川でしか孵化しないのか、そしてエリクサーは聖獣の乳!」  「山深く、清浄、川」  「ベリアルと過ごした君は川に戻ることが出来ずに卵を産んでしまった、卵を抱えて海を渡ることは出来ないでいたわけだ」  「よし、それなら三人で行こう、清浄なる川へ、そして三人で育てるんだ」  「!」  ルイスとダーウェンに一気に希望が沸き上がった。  沸き上がった希望を打ち消すように再び首が横に振られる。  「なぜだ、なんでダメなんだ」  「島、離れる、私、獣、戻る」  「えっ、獣に戻るって?」  「島、霊力、私、人、ベリアル、ダー、ルイ…ここ、居る」  マヒメは自分の胸に手を置く。  「聖獣は漂流島の霊力で人を保っている?長く海に居れば水妖に戻ってしまうのか」  「獣、戻る、ここ、消える」  泣きながら首を激しく振った。  「子供、人、心、二人、育てて」  大きな目が涙を零したまま、ダーウェンとルイスを真っすぐに見る。  荒ぶる海の水妖魔レヴィアタンは漂流島の霊力と最初の人間、ベリアルとの愛で聖獣に進化して人の心を宿し、恋をして愛を知り、別離を経て思い出を抱く。  エリクサーを育む島の霊力の恩恵がなければ人の心を保てない。  「獣、心、無い、思い出、消え……る」  両手が顔を覆って、最後は声にならなかった。  絶望と希望、恋と愛、悲しみと哀しみ、思い出が純白の卵の上に積み重なり温める。  次の生に心を残すために。  夕暮れの太陽が海をオレンジ色に染める中、二人の乗るヨットは漂流島を出港した。  いつもの砂浜で手を振るマヒメに見送られながら。  「これでいいの!?これでお別れなの!?」  小さくなっていくマヒメと島影にルイスの涙は底なしに流れている。  「俺たちは彼女の宝を託された、裏切ることは……出来ない!!」  舵を握るダーウェンの手が震えている。  「俺はっ!!本当は人殺しの盗賊だ!!いやしいクソ野郎なんだ、この島でエリクサーを盗んで一山儲けようと思っていたコソ泥だ、彼女の傍に居ていいような人間じゃない、そんな俺に彼女はっ!!」  ダダンッ、激しく拳が舵を打つ。  「自分の子供を育ててくれと……俺にそんな資格は無い」  「それなら僕なんて!人間ですらないのに!!」  「!?」    ゾゾゾゾゾォウオゥオゥオオオォォォォッ  ヨットの真下を巨大な影が漂流島へ向かい進んでいくのを二人は見た。  海中に揺らめく鬼火が浮かび上がる。  「アンデッド・ガレオン!!幽霊船だ」  「なんて大きさだ、戦列艦百門クラス、いやそれ以上だ、千人以上乗っているはずだ」  「ええっ、そんな、全員がアンデッドになっていたら、いくらマヒメ様でも……」  「新月の魔物はいいとこ百人程度の船だった、その十倍……」  「ダー!引き返そう、助けなきゃマヒメ様が……」  「しかし……アンデッドが狙っている聖獣の卵を抱えたまま戻って失うことになれば、取り返しが出来ないぞ、危険すぎる」  「大丈夫、僕が移乗して戦う!ダーは卵を守って」  「移乗なんて無理だ、甲板まで十メートル近くある、登れっこない」  「登れるよ、僕なら!」  アイアンクローを装着したルイスの身体から黒い魔素が沸き上がる。  「ルイ、お前は!?」  魔素の霧の後に現れたのは魔獣ワーウルフ。  「こういう訳さ、僕は人間じゃない」  「それで村を追われたのか」  「マヒメ様みたいに上級聖獣なら変身も瞬時だけど、低級魔獣の僕は一度変身するとなかなか人間の身体には戻れないんだ」  ズドォオオオッン ズドドォォォオオッ 砲撃の音が聞こえてくる。  「始めやがった!」  「ダー、頼む、僕にやらせてくれっ、白骨兵士の百や二百は道連れにして見せる!卵はダーが守って!!」  ズドドオオオォォォオッ  再びの砲撃音、その大きさと数が先日とは圧倒的に違った、汗がダーウェンの額を伝う。  「分かった!戻ろう、でもルイが移乗したらヨットは離したところで待機する、いいか」  「恩に着るよ、ダー」  ダーウェンは舵を切り、セイルを操作して船首を再び漂流島に向けた。  アンデッド・ガレオンは百四十門級、全長六十メートル、乗組員千名の巨大戦列艦。  その横腹の大砲が火を吹き、漂流島のエリクサーを木っ端に粉砕していた、轟音が海に響き渡る、最新の火炎榴弾も使用している、山肌が燃えていた。  甲板には白骨兵士が並び、復活の秘宝、聖獣の卵を求めて漂流島へ上陸しようとしていた。  満月の下、魔の力は最大限に発揮され、海を渡る白骨の動きは早い。  ガシャアアッ ザババアッ  聖獣レヴィアタンが疾走する度に、粉砕された白骨が海に降っていくが、あまりに数が多すぎた、島への揚陸を防ぐことは叶わない。  粉砕するよりも多くが幽霊戦列艦から海に落ちてくる、マヒナも移乗攻撃を狙っていたが喫水が高すぎて飛べずにいた。  その間にも海を渡る白骨が枯れた雑草のように浜辺に列を伸ばしてくる。  聖なる島が魔に飲まれようとしていた、島がなくなればマヒメは獣に戻る。  全ての思い出が消える。  幽霊船の船首に取り付けられた捕鯨用の弓がマヒメに向かい放たれる、一矢、二矢と躱すが四矢目が尾を貫通した、繋がれたロープに自由を奪われる、万事休す、絶対絶命。  マヒメが諦めかけた時、不意にロープの緊張が解かれて自由になる、傷口が広がる事も構わず矢を咥えて無理やりに引き抜く、鮮血が海に広がった。  バシャ、バシャバシャッ 甲板から白骨の部品が雨のように降る、甲板で何かが暴れている、飛び上がり覗くとそこには見たことの無い生き物、いや魔獣がいた、灰色の毛皮を纏い、長い顔に鋭い牙、鉄で出来た爪を伸ばしている。  ウアッオオオオオオオオーッ 叫ぶ遠吠えの声に聞き覚えがある。  ⦅ルイスの声!ルイなの!?⦆  離れた場所にヨットとダーウェンが小さく見えた。  ⦅何で逃げないの!助けに来るなんて!⦆  彼らの思いに最後の力を振り絞り、海を奔る。  甲板の上をワーウルフと化したルイスは駆け巡る、立ち塞がる白骨は鉄の爪に粉砕されていく、満月の恩寵は幽霊船だけではなくワーウルフにも注がれる。  甲板の兵士を片付けるとルイスは大砲を無力化するため船底に向かった、刀を躱し、槍を弾き、爪で砕く。  ルイスが探していたのは燃える榴弾の火薬。  「船ごと吹き飛ばしてやる!!」  鬼火が灯る船室には大砲を操作する白骨が蠢めいている、意思の無い骸骨どもの動きは機械的で冷たい。  ルイスは船底の底にある火薬庫に向かって鬼火を持てるだけ持って降りていく、扉をけ破り、火薬樽の蓋を剥ぎ取りひっくり返す、鬼火を投げ込むと直ぐに扉を閉めた。  脱兎のごとく階段を駆け上る、途中の白骨たちは無視する。  甲板までもう少しのところで下から吹き上げる爆風に身体を攫われた。  バァゴオォッ ズドォッ 誘爆が誘爆を呼ぶ。  マヒメとダーウェンも幽霊船が中央から裂けて火を吹く瞬間を目撃した。  ズガガガガガアアアアァァァッン  「ルイッ!!」  「!!」  強烈な爆風が離れたヨットを木の葉のように揺らし、水中には衝撃波が走る、水圧がマヒメの身体を打ち付けた。  ギャアアアアッ  真っ二つに折れた幽霊船は瞬く間に海水を呑み込み爆沈していく、巨大な渦が幽霊船を海中に葬り去った。  「あいつがやったのか、ルイが……」  漂流島のエリクサーが燃えて黄金の粉が夜の闇に散っていく、風に吹かれて延焼は広がっている。  「漂流島が燃える!燃えてしまう……」  ダーウェンは恋人と親友、故郷を一度に失うような喪失感に打ちのめされた。  ズズズズンッ  地震のような地響きが木霊する、漂流島が揺れている?  ババババシュシュー 沈んでいく、漂流島がゆっくりと沈んでいく。  「あああっ、そんな、消えてしまう、マヒメの島が、俺達の島が……」  茫然と見送るダーウェンは気が付いた、違う、ただ沈んでいるのではない、進んでいるのだ、速度を増している、島が泳いでいる!  一度本宅まで海水に浸かり火事が消えると再び浮上してくる。  「生きている!動いている、島自体が聖獣!?」  浮上した島は益々速度を上げて離れていく、追い付くことは出来そうにない。  ルイはおろかマヒメの姿も見えない。  「マヒメーーー!ルイーーーー!」  ダーウェンの叫ぶ声が海原に響く、返答する者はない。  「二人とも逝ってしまったのか……」  「ぐっ、ふっ、うううう、ああああーっ」  非道の過去を持つ盗賊が、慟哭の叫びと号泣を上げた、失った物の大きさに過去に踏みつけた者の痛みを知った、取り返すことの出来ない痛み。  自分の喉を食い破る程の叫びが男の後悔を映した。  ザバンッ ヨットに何かがぶつかった衝撃、振り返った目に灰色の獣毛が見えた。  「!!」  駆け寄るとワーウルフを咥えて持ち上げるレヴィアタンの姿があった。  「マヒメッ!!」  ルイを船に引き上げる、どう見ても瀕死だ、足は千切れかけ、何本もの槍が刺さり、背中は大きく切られていた、もう血がないのか出血していない。  「おいっ、ルイッ、しっかりしろ、ルイ!」  返事はない。  マヒメも頭の冠が千切れ、鰭もズタズタに裂け、白蝶貝の美しい鱗は半数が無く、無数の裂け傷が見える。  戦いの激しさを物語っていた。  「マヒメ、マヒメ、大丈夫か!!」  マヒメの手がヨットにかかる、人間に変化していた。  「ダー、ダーウェン、卵、子供、お願い、守っ……て」  縋るように伸びる冷たい手を、熱い思いで応えるように握り返す。  「約束する、必ず、必ず無事に育ててみせる、待っていてくれ」  その言葉最後にマヒメは白蛇に姿を戻して海中に沈んでいく、ユラユラと力なく海流に流されるように暗い海に消えていった。  暗い夜の海に朝日が昇る、ダーウェンの目には地平線まで続く海原だけが映っていた。  十年後の春。  大陸の山深く、大河の森、湖のほとりに太い丸太を組み合わせた山小屋があった。  冬の厳しい寒さに備えて大きな暖炉が供えられ、外には乾いた丸太が積んであった。  春を迎えて水辺には青草が伸び、雪解けの水が大河に白く色を付けていた。  「お父さーん、ねえ、ダーお父さーん」  「んー、なんだいティア、どうかしたか」  「あのね、ルイ父さんが網を上げるから手伝ってほしいって」  「そうか、いっぱい獲れているといいな」  「ティアお魚好き、お肉嫌い」  「はは、お肉は無理して食べなくていいぞ、きっとティアの好きなコッドが獲れているに違いない、ルイ父さんは名人だからな、春のコッドは美味しいぞ」  「やったあ、楽しみだな」  小さな女の子の手をダーウェンが繋いでいる。  父と娘、親子だった。  ⦅マヒメ、卵はこの湖で無事に孵すことができたよ、名前はティア、海の女神ティアマトからとった、今年で九才だ、元気に育っている、エリクサーは十分だったよ、少し換金させて貰った、ビックリする値段が付いて入手先を詮索されて困ったけど、なんとか誤魔化した。  その金で船を買ったんだ、長距離を走れる動力付きの最新型だぜ。  もうすぐだ、もうすぐ会いに行くぞ、君の子供を連れていく、何年かけても探して見せる、  待っていてくれ、マヒメ、今、行くぞ⦆  ⦅春は黄金の季節、エリクサーの収穫は短いわ、神薬はそんなに必要なくなったけれど、いつか来る家族のために準備しておこうと思う。  畑は海水に浸かって一度完全に駄目になっちゃた、数年かけて土から作り直したの、彼の教えは覚えている。  もうすぐ元のように野菜が採れるようになる、言葉は少し上達したかな。  きっと来てくれる、その時は子供にも踊りを教えたい、みんなで一緒に踊ろうね、きっと、また会えると信じている、待っているわ⦆  タブラオ・デリーバの壁には下手だけれど一生懸命書いたのだろう似顔絵が飾られている。  家族の肖像、ベリアル、ダーウェン、ルイス、そしてマヒメ。  その横の紙はまだ白紙のままだ。  真珠の肌に、春の風が優しく頬を撫で幸せな思い出を運んでくる。  同じ空の下、まだ見ぬ我が子に思いを馳せて漂流島のマヒメは今日もエリクサーの迷路へ降りていく。  fin
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