心の穴

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 私はただ、一人の人生という時間に、飽きてしまった。いつもの様に閑散とした商店街を抜け、定時の鈍行列車に乗り込む。クッション性のない靴を踏み鳴らして、汎用性の低いオフィスカジュアルのレディースコーデで歩き続ける。駅前から少し外れた自宅は、マンションの一室。一人暮らしには慣れたが、周りを警戒しながら扉を開けて中に入る。次の日が来れば同様に来た道を引き返して、ビルの中へ入って仕事が始まる。  そんな毎日に、心置きなく話せる相手、笑える友など居なかった。全て地元に置いてきて、末に手に入れたのは仕事の話のみの人間関係だけ。いつしか一人が普通になりつつ、誰かの声を、存在を求めている心をどこかに持っていた。  ある日、と言っても何時だったか忘れたくらいの時期に何気に入れたアプリ。色んな人が配信している、顔は見えないこのアプリで、寂しい毎日が変わっていった。  何気なく入った配信。彼の声に惹かれていった。元気で活発で、私とそう年齢も変わらない彼は、毎日同じ時間にアプリ内にいる。私の帰宅時間と就寝前、丁度いい時間帯だった。いつも始まる時に通知が来る。スマホがふるえるのを皮切りに、いつも入り浸っていた。  これが、俗に言う、推し、という存在だと知った。  仕事をする気力はほぼない。行ってもストレスしか貯まらない。それでも、彼が時間を払ってまでも声を出して寂しさを祓ってくれること、彼の活動資金、その為に払える程度のお金を投げていた。見返りは特に無い。感謝の気持ちのみだった。 「え?!春さん?!今日も来てくれたの?!」  彼の声が私の入室で聞こえてくる。 「うん。だって、吹紀さんが配信してるから。来るよ?」  いつもの通りに返事をする。  周りの会話をぶった切ってしまったことに少しだけ申し訳なさを感じながら、帰宅中のために聞いているだけと伝えてバックグラウンドで聞いている。それだけでとても幸せだった。  いつもの様に玄関を開ける。夕飯は既に買ってった。面倒臭いだけのお風呂に先に行く。と言ってもシャワーのみ、配信内では帰宅中という事にしてさっさと済ませた。髪を拭いて乾かしてから、机の上に惣菜と白米を置く。質素と言えば質素、自炊よりかは安く済むから特になんとも思っていなかった。私にかけるお金はこれくらいで構わない。 「帰宅しました」  スマホのキーボードをリズミカルに指で叩いて、彼の配信にコメントを送る。 「おかえり!お疲れ様だね!」  彼が私を労ってくれている。それが聞けるだけで心が十分過ぎる程に高揚していた。彼の声と同時に配信を聞いている仲間が次々に、おかえりなさいと送ってくれる。私も、有難う、と応えた。私の居場所はここにある。彼が私の居場所を作ってくれている。ずっとこうして聞いていたいと心から思っていた。 「…そういえばさ!」  急に彼が話を切り出した。ワクワクしたような、聞いて欲しいようなそんな声がする。初めて、この楽しみが待っていると言わんばかりの声で私たちに話しかけていた。 「俺さ!吹紀は!今まで避けてきていたんだけど!この配信アプリ内のイベントを走ってみようかなって思うんだ!」  イベント、アプリが色んな会社とタッグを組んで行っている企画。配信者達の中で順位を決めて、上位何名かが受賞出来る。街中のテレビで広告になったり、駅のポスターになれたり、何かのグッズをアプリ会社と一緒に作れたりする。配信者の人達は皆、そのイベントというものに参加して、配信し、上位をめざしていた。勝ち取るには、配信時間、コメント数、そして、リスナーからの課金額で決まっている。 「え!?何走るんですか?!」  気になってしまう。彼から、イベントに出るという言葉を聞くのが、本当に初めてだったから。 「あのね!来週から始まる、雑誌に掲載してもらえるイベントを走るって決めたんだ!」 「それって、あの、アニメ雑誌のやつですか?有名の!」 「そうそれ!1人しか掲載されないんだけど、それでもやってみようって。皆の所に声だけじゃなくて、何時でも見れる物として送りたくて」  自己出版はハードルが高いからこの機会に、そう彼は呟いていた。愛する彼の、手に取れる物が家にある。そんな夢のような嬉しい事は今までになかった。是非とも欲しい。絶対に叶えて欲しい、そう願うばかりだ。 「…でも、皆にお金という物で負担をかけてしまうことになっちゃうから、どうしようって考えてたんだよね」 「大丈夫!応援するから!」  私を含め配信にいる全員が同じ事を彼に伝えている。士気は一瞬にして最高潮に達していた。
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