吉田准教授の近世墓講義

1/18
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
第1章 講義第1回   近世墓鑑定士の肩書を持つ吉田准教授は、本年から母校の中央大学で、「墓を見れば先祖がわかる」という講義を受け持つことになりました。  昨今、NHKの「ファミリー・ストーリー」が人気番組になったり、アメリカでは平成19年(2007年)に出版された「ファミリーツリー」という小説がきっかけになり、「先祖探し」がブームになったことを受けて、准教授の近世墓に関する知識が「先祖探し」に大変役に立つと注目され始めたのです。  昨年、中央大学の文学部に入学した中野佳奈(かな)は、一風変わった「墓を見れば先祖がわかる」というサブタイトルの講義が気になって、講義内容を調べてみようと文学部事務室を訪れました。 男性「『近世墓』の履修状況はどうですか?」 職員「先生の講義の応募人数は大盛況です」 男性「そうですか。良かった。でも最初だけじゃないかな」 職員「そんなことはないですよ」 男性「だといいんですが。ありがとう」  どうやら近世墓講義の担当教員が履修状況をリサーチに来ていたようでした。 (やっぱりあの人が教えるんだ) (あの先生だったら良い講義をしてくれそうな気がする。この講義を履修しよう)  中野はそう思うと、そこに備え付けてあった講義の概要が書かれたプリントを確認することなく、近世墓講義を履修することに決めました。 こんなに安易に決めていいものかと思いましたが、講義の内容なんて初めからわかるわけではないし、仮に内容が良くても教えてくれる先生によってそうではなくなる場合もよくある話なので、自分の直観に頼ることにしたのです。それに中野の直観は今まで外れたことが一度もありませんでした。 講義は3号館文学部棟の3105教室で行われました。講義第1日目のその日、教室後方の少し重ためのドアを開けると、そこは既にたくさんの学生で賑わっていました。 (やっぱり人気ね)  中野が辺りを見渡すと既に殆どの席が埋まっていました。 (なんだ。一番前しか空いてないじゃない)  中野は少し気が引けました。なんとなく今までの授業に臨む姿勢が抜けきれず、一番前の席に座るということに抵抗があったからです。そこで他の席が空いていないかもう一度教室全体を確認してみました。すると窓際の一番後ろの席が空いていました。 (あんなに後ろの席だと先生の声が良く聴こえない)  中野は渋々教壇の正面の一番前の席に座わることにしました。吉田准教授はそれから少しして教壇に近い方のドアから入って来ました。 准教授「それでは本日から近世墓についての講義を始めます。皆さんは墓がいつから存在するのかわかりますか?」  中野「唐突!」  中野は自己紹介を飛ばした准教授の第一声がいきなり過ぎると思って、つい声を出してしまいました。しかし講義は始まったばかりです。教室の静寂の中にその声は意外に響きました。 准教授「君、名前は?」  准教授が中野に向かって話し掛けたことで、その教室にいる全員の視線が彼女に注がれました。中野は緊張しました。 中野「すみません」 准教授「いや、謝るのではなくて、君の名前は?」 中野「中野です」 准教授「中野さんか。宜しい。では中野さんに尋ねます。日本で墓が登場したのはいつの時代かわかりますか?」  中野はこの講義を受講するに当たって、何も事前準備をして来ませんでした。近世墓に興味があったのは確かです。しかし、先生が良さそうだという直観から履修したというのが正直な動機です。ですから、お墓のことなど何もわからなかったのです。しかし、教室にいる全員の視線に晒された状態では先生の質問に答えざるを得ませんでした。口が裂けても、わかりません、とは言えないと思いました。 中野「古墳時代ではないでしょうか?」  それで取り合えずそう答えました。しかし、そう言った後、質問に質問で返してしまったと後悔しました。 准教授「古墳時代ですか。随分遡りましたね」 中野「はい」  准教授にそう言われて、中野は自分の答えが間違っているような感覚に陥りました。しかし他に思い付くことがなかったので、はいと返答するしかありませんでした。 准教授「では古墳時代の始まりはいつ頃でしょう?」  中野の頭の中は受験の時に何度も繰り返し目を通した日本史の教科書が舞い降りていました。 中野「確かAD260年頃、奈良盆地に大型の前方後円墳が出現したのが始まりだとされています」  中野の回答に教授が何度も頷きました。それを見た中野は自分の答えが間違っていないと確信すると、少し嬉しくなりました。 学生A「え、じゃあ小型のもあったのかしら」  すると後ろの方からそんな声が中野の耳に聞こえてきたのです。 学生B「どうして小型の話が出てくるの?」 学生A「だって大型の前方後円墳が出てくるんだから、小型もありそうじゃない?」 学生B「あ、そうか」 准教授「前の学生には聞こえない議論が後ろの方で繰り広げられているようなので、私から説明します。今、私が中野さんに墓の起源はいつなのかと質問したところ、中野さんは古墳ではないかと回答しました。そしてそれはAD260年に大型の前方後円墳として登場したという説明もありました」  それまで後ろから聞こえていた会話は准教授の話が始まるとぴたりと止みました。 准教授「しかし……あなたの名前は?」  准教授はそう言って、それまで後ろで会話をしていた学生の一人に名前を尋ねました。 学生A「山中です」 准教授「山中さんから大型の前に小型の前方後円墳もあったのではないかという質問がされました。ここまでは皆さん宜しいですね?」  教室内でまばらに返事が聞こえました。 准教授「先ほどのAD260年頃の古墳は箸墓(はしはか)古墳と呼ばれています。長い間これが最古の古墳だと思われていたのですが、平成元年(1989年)に纏向(まきむく)石塚古墳の発掘によって、こちらが最古の古墳だということがわかりました。これが現在の定説です。AD200年頃の築造だと言われています」  中野はこのような言い方を准教授がするということは、現在の歴史の教科書には未だに箸墓古墳が最古の古墳だと書かれているからかもしれないと思いました。と言うのも、中野が高校時代に勉強した歴史の教科書には、この点がどのように説明されていたのか、はっきりと覚えていなかったのです。古墳の辺りは大学入試には関係ありませんでしたし、中野もその部分を注意して目を通したわけではなかったからです。 准教授「しかし古墳が最も古い墓ではないことは皆さんもご存知だと思います。その前には墳丘墓という墓がありました。こちらはBC500年頃から存在します。弥生時代前期です。そしてその前の縄文時代には土壙墓(どこうぼ)が墓の中心でした」 学生C「すると先生、その土壙墓が墓の起源ということになりますか?」  教室のどこからか質問する声が聞こえました。 准教授「そうですね。皆さんが墓の起源について興味を持たれたのでしたら、この講義の後、この大学の中央図書館に行ってその手の本で学んでください。ただ私が受け持ったこの講義が取り上げる墓はそういうものとは一線を画します。つまり、この講義は今あちこちの墓地で目にするような墓についての講義になります。ですから、この話はここまでということにして、本編に移りたいと思います」 准教授はここで一旦話を打ち切ると教壇の上に置かれたテキストに目を落とし、それを数ページめくりました。そのテキストは中野も先日生協の書籍コーナーで購入したばかりでした。テキストのタイトルは、「近世墓講義―墓を見れば先祖がわかるー」です。この講座と全く同一のものでした。 (テキストと講義が同じタイトルだということは最初にテキストがあって、それを講義名にしたのかな。それともその逆かしら)  中野はそんなことを考えていました。 (あ)  すると次の瞬間名案が浮かびました。中野はテキストの裏表紙を見て、そこに印字されている初版の年月日を確認しました。するとそれは2年前の日付になってしました。 (最初にテキストが出版されたのね。それが人気になって、それで先生がこの大学に招かれたっていうことかな) そうわかると中野の気分がすっきりしました。 准教授「一つ訂正します」  中野が物思いに耽っていると准教授の声がしました。 准教授「先ほど、この講義が終わったら中央図書館へ、という話をしましたが、お昼でしたね。『腹が減っては戦は出来ぬ』といいます。先ずは学食で昼食をとってから、それから図書館へ向かってください」  教室内でまばらに笑い声が聞こえました。 准教授「では本題に入ります。実は今、皆さんがよく目にするような墓が誕生したのは江戸時代からなのです。正確には元和3年(1617年)の407年前に、神奈川県横浜市にある知行730石の旗本の妻の墓として建てられたものが最初です。この講義の名前にある、『近世墓』の『近世』とは江戸時代を表していますが、そもそも墓は江戸時代から登場したものなのです」 学生D「え、そうなんだ。江戸時代からなんだ」  驚きの声をあげた学生もいましたが、それはテキストの前書に書かれていたことでした。ですから中野もそれくらいは知っていました。その発言をした学生はテキストを見て来なかったということでしょうか。或いはテキストさえ持っていなかったのかもしれません。 (それくらいは私だって知ってたわ。ただ古墳のことは書かれていなかったから、それでさっきは正確な回答が出来なかったんだから)  中野は心の中で先ほどの自分の回答の言い訳をしていました。 学生D「古墳とかと比べると、つい最近の話なのですね」 准教授「では、近世墓から始まる現代の墓と古墳との違いはどのようなことか、ということですが、どうですか?」 学生D「やっぱり大きさでしょうか」 准教授「大きさが違う、という意見が出ました」 学生E「形ではないでしょうか」 准教授「形だという意見も出ました」 中野「大きさも形も違います」 准教授「二、三の意見が出ましたが、基本的な違いは前者が仏教思想によって葬られた墓だということです」 (そっか。仏教か) 准教授「古墳の話が再び登場したので、話をずっと昔に遡ります。人類は約700万年前にアフリカで誕生しました。それから時が経ち、20万年前にホモ・サピエンスが東アフリカで誕生すると、18万年前にいくつかの集団がアフリカの外へ移動し始め、やがて世界中に拡散していきました。 アフリカから拡散したホモ・サピエンスが最初に誰もいない日本に来たのは4万2000年から4万5000年前だといわれています。その後、対馬海峡を越えて3万8000年前頃に、更に沖縄ルートで3万5000年前に、それから北海道ルートで2万5000年前に日本列島に渡って来たと考えられています。このようにして誕生した日本人が、その生きた証として墓が現在に遺っています。その最古のものは縄文時代のものになります」  中野は、日本人は4万5000年前に誕生していたことを知って驚きました。彼女は日本人の起源がもっとずっと後のことだと思っていたからです。 准教授「文明の起源は青森県からしばしば見つかっています。例えば楽器ですが、青森県八戸市にある是川中居遺跡から出土した木製品が世界最古の弦楽器の可能性があると言われています。紀元前1000年頃のものだそうです。また、青森県の外ケ浜町の太平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土した土器は1万6000年前のものと推定されています。現在残っている墓で最も古いものは縄文時代のものだ、ということは先ほどお話ししました。その縄文時代は住居のそばに埋葬することが一般的でした。当時は地面に穴を掘って遺体を埋葬する土壙墓が中心です。皆さんはストーンサークルを知っていますか? これは当時では珍しい共同墓地です」  中野はそのストーンサークルというものがどんなものだろうと想像しました。 中野「イギリスにあるストーンヘンジみたいなものかしら?」 准教授「今お話ししたストーンサークルがイギリスにあるストーンヘンジみたいなものか、という声が聞こえました」 (あ、聞こえちゃった) 准教授「イギリスのストーンヘンジはBC2500年からBC2000年の間に建てられたと考えられています。それを囲む土塁と堀はBC3100年まで遡るといいます。日本のストーンサークルは東北地方から北海道にかけて、縄文時代中期後半から後期に造られ始めたと見られています」 学生F「ストーンサークルはそれ以外の地域でも見られるのでしょうか?」 准教授「他には静岡県、山梨県、群馬県、和歌山県、それから東京都町田市でも見つかっています」 准教授「弥生時代になると、集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的になりました。『甕棺』、『石棺』、『木棺』などの埋葬用の棺が使われ始めます。地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があり、社会階層の分化に伴って、階層による墓制の差が生じました。いよいよ集団に身分の差が生じ始めたのです」  中野はこの時、講義のサブタイトルを思い出していました。それは、「墓を見れば先祖がわかる」です。近世墓に限らず、墓を見れば先祖の身分がわかるということなのかもしれないと思いました。 准教授「弥生時代の墓の第1段階は集団墓、共同墓地でした。それから第2段階になって、集団墓の中に不均衡が生じてきます。そして、第3段階では集団の中の特定の人物、或いは特定なグループに墓地、或いは墓域が区画されてきます。いわゆるこれが王の墓、王族の墓と言われるものです」 学生G「すると縄文時代では身分の差がなかった集団が弥生時代になって身分の差が生じてきたということなのでしょうか?」 准教授「ここでは詳しい話はしませんが、そういうことです。そしてこの身分の差が『墳丘墓』という大きな墓を登場させることになったのです」 (墳丘墓ってどんな形をしているのかしら? 古墳とは違うのよね) 学生G「墳丘墓というのはどのような形をしているのでしょうか?」  すると、中野が思っていたことを誰かが准教授に尋ねてくれました。 准教授「墳丘墓というのは土、或いは石を積み重ねて丘のような形にした墳墓をいいます。こんな感じです」  准教授はそう言ってプロジェクターを使い、教壇右脇のスクリーンにその姿を映し出しました。 准教授「墳丘墓は弥生時代前期(BC500年からBC200年頃)から後期(AD150年頃)にかけて、首長層を埋葬するために墳丘を築いて造られた墓です。それから弥生時代後期後半から終末期(AD150年頃からAD250年頃)にかけて、一部の墳丘墓で突出部が発達し、首長墓専用の形が成立しました。このような墳丘墓を『四隅突出型墳丘墓』といいます」 准教授は続けてその四隅突出型墳丘墓をスクリーンに映しました。 (ヒトデみたいな形。造ったのは海洋人?) 准教授「四隅突出型墳丘墓は、出雲神族(出雲王朝)に特有の墓制であると言われています。弥生時代中期後半(BC100年からAD50年頃)に広島県三次盆地に発生して、その後古墳時代前期(AD260年から400年頃)にかけて、岡山県、島根県、鳥取県、兵庫県、福井県、石川県、富山県、福島県喜多方市まで順次拡散しています。最大のものは島根県出雲市に長さが50メートルのものがあります。ただ最後の地、福島県喜多方市になると、長さが12メートルにまで縮小されました」  中野はこのような墓の存在を初めて知りました。 中野「先生、その四隅突出型墳丘墓は全国にいくつ存在するのですか?」 准教授「現在見つかっているものは全部で103基あります」  中野は、それがそんなにたくさんあることに驚きました。 准教授「さて、いよいよ古墳の登場です。古墳については皆さんも日本史の教科書で詳しく学んだのではないでしょうか。その古墳は、AD200年頃以降から見られ、全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなりました。このことは三世紀中盤を画期として、九州から東日本に渡る統一的な政権が確立したことを示していると考えられています。 古墳時代は前期、中期、後期、末期の四つに分けられます。前期はAD200年頃から400年頃をいい、竪穴式石室で、呪縛的な鏡、玉、剣、円筒埴輪が副葬品に用いられました。次の中期はAD400年頃から500年頃で、長持ち型石室で、馬具、甲冑、刀など軍事的なものが副葬品に用いられました。後期はAD500年頃から600年頃です。横穴式石室、大型の方墳から円墳へと変化しました。最後の終末期はAD600年頃から645年頃で、645年の薄葬令以降、古墳は造られなくなりました。さて、仏教伝来前の墓の歴史を急いで紹介してきました。いよいよ仏教に基づく墓の登場です」 (あ)  その時、教室に講義終了のチャイムが鳴りました。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!