吉田准教授の近世墓講義

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第5章 講義第3回 准教授「では3回目の講義を始めます。現在の墓の形は江戸時代から始まっています。また、供養塔ではない、いわゆる本来の墓としても仏教伝来以降、江戸時代がその始まりとなります」  准教授は定刻通りに教室に現れると間髪入れず、そう切り出して講義を始めました。 准教授「初めての近世墓の登場は元和3年(1617年)、今から407年前になります。上杉家の血筋で、知行730石の旗本の妻の墓です。元和3年というと、3代将軍徳川家光が将軍になる前ですから、正確には身分制度が確立される前の墓だということになります」 学生A「先生、身分制度の確立前というのはどういうことですか? 江戸幕府は士農工商を基本にして、身分制度が確立していた社会だと思いますが」 准教授「徳川家光が言ったという、『東照宮(家康)が天下を平定なさるに際しては、諸侯の力を借りた。また秀忠公も、元はおのおの方の同僚であった。しかし、余は生まれながらの将軍であり、前のニ代とは格式が異なる。よっておのおの方の扱いは、これより、家臣同様である』という言葉を知っていると思います。つまり、家光が将軍になって身分制度が完成されたのです。それは墓にも多大な影響を及ぼしました」 学生A「それは家光の将軍宣下の際に言ったとされる言葉ですね」 准教授「家光が実際に実権を掌握したのは、宣下を受けた元和9年(1623年)ではなく、父秀忠が亡くなった寛永9年(1632年)だととらえたほうが良いでしょう。その後、庶民が公式には苗字を名乗れなくなったり、墓が身分によって厳しく限定されるようになっています」 学生A「それまでは比較的緩やかだったということでしょうか?」 准教授「そうですね。それらが決定的に厳しくなったのは寛文年間からです。寛文元年は西暦1661年ですから寛永9年から29年も経っています。この年数はおおよそ一世代ですから、代替わりをして、文句を言う人がいなくなったということなのか、それともそれまでの風習なり習慣が変わるのには、これくらいの時間が必要だということでしょうか。それではいよいよこの講義の本編、江戸時代の墓に入ります」  准教授はそこでスクリーンに画像を映し出しました。 准教授「こちらは皆さんご承知の五輪塔です。知行1万石以上の大名が建てることを許されました。大名の戒名には『院殿、大居士』が使われています」  中野は大名だけに許されたという五輪塔を凝視しました。確かに一般の霊園にこんな墓が建っているのをみたことがないと思いました。大きな石が使われているし、仮に今建てるとしたら、いくらくらい掛るのだろうと思いました。それで教授にそのことを尋ねてみようかなと思いましたが、この講義に相応しい質問ではないように思えたので止めました。 准教授「次に宝篋印塔に移ります」  准教授はそう言って、次に宝篋印塔の画像をスクリーンに映し出しました。 准教授「この宝篋印塔は江戸時代の初めは旗本、大庄屋、庄屋などが建てていました。しかし、身分統制が確立した寛文年間より、知行4000石以上の旗本のみが建てることを許されました」 中野「大庄屋とはどんな人達なのでしょうか?」 准教授「一つの藩にはたくさんの集落がありました。その集落をまとめる村長みたいな役割をしていたのが庄屋です。そしてその藩の何十もの庄屋をまとめていたのが大庄屋です」 中野「すると彼らの身分は庶民だということになりますか?」 准教授「戦国時代には名のあった武将が帰農して、その任に就いたようです。それで江戸初期までは武士待遇だったようです。苗字を名乗り、帯刀も許されていました。しかし、次第に身分統制が強まり、庶民筆頭の地位に確定されました」 学生B「江戸時代の初めは旗本だけではなく、大庄屋や庄屋もその宝篋印塔を建てていたということですが、両者の建てたものに違いはなかったのですか?」 准教授「戒名が違います。宝篋印塔には戒名が刻まれていますが、旗本の戒名には『院殿』が使われています」 学生B「大名は『院殿、大居士』でしたね?」 准教授「旗本の戒名の中には稀にですが『院殿、大居士』のものがあります。しかし、一般的には『院殿、居士』のようです」 学生B「すると大庄屋や庄屋が建てた宝篋印塔には『院殿』の戒名が刻まれなかったということですね?」 准教授「その通りです」  学生からの質問が途絶えたところで、准教授は次の画像をスクリーンに映し出しました。 准教授「こちらは笠付(かさつき)墓標といいます。知行4000石未満の旗本は寛文年間以降、宝篋印塔を建てられなくなりました。そこで頂部に陣笠が載っている墓標に切り替えました。但し、大庄屋や庄屋がこの墓を建てている場合もあります。両者の区別は戒名に『院殿』があれば旗本の墓ということになります」  中野はこの形の墓にはなんとなく見覚えがありました。偉い人が建てた墓だろうと思っていましたが、やっぱりそうでした。 准教授「さて、次はいよいよこの講義のメインテーマになる墓の登場です。近世墓のマスターは、この墓をどれだけ理解するのかにかかっています」  准教授はそう言って、別の写真をスクリーンに映し出しました。 准教授「これは天冠(てんがん)墓標です。舟形墓標ともいわれます。しかし、これのどこが舟に見えるのでしょうか。いたずらにカテゴリーを増やし、複雑にして理解を妨げるミスリードだといえます。この墓標は単純に板碑、更には卒塔婆からの変形です。 江戸時代初期、キリシタンに対する強大な圧力が幕府からありました。その原因は島原の乱です。島原の乱は寛永14年(1637年)から翌15年(1638年)に起こった日本史上最大規模の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内乱です。この島原の乱の影響でキリシタンの弾圧、禁教が徹底され、檀家制度も確立されました。そして建てる墓も仏教の葬送の形である卒塔婆に似せたり、仏教の死装束に因んだ天冠を墓に被せたのです」 学生C「それはキリシタンだと疑われない為でしょうか?」 准教授「その通りです。私はキリシタンではありません。根っからの仏教徒ですという表明です。但し、誰もがこのような墓を建てられたわけではありません。この墓の主は元武将、旗本、上士、それから大庄屋などに限られました」 学生D「上士とはどのような人ですか?」 准教授「武士です。一般的には知行100石以上の武士と言われます」 学生E「『天冠墓標』の『天冠』は、板碑に被せられた天冠とは関連がありますか?」 准教授「同じもの、同じ意味です。そこで板碑からの発展型ととらえた方が良いと私は考えています」 学生D「先生、このお墓を建てた中に庄屋が入っていませんでしたが、どうしてでしょうか?」 准教授「大庄屋は当初武士待遇でした。つまりこの墓は武士が建てる墓だったのです。庄屋は武士待遇にはあらず上層農民です。ですからこの天冠墓標を建てられなかったと思われます」 学生F「先生、天冠墓標は板碑からの変形だということですが、板碑は慶長5年(1600年)で建てられなくなったのですね?」 准教授「それ以降は一切建てられなくなったようです。そればかりかそれまで建てられた板碑は軒並み地中に埋められています」 学生F「それはどうしてですか?」 准教授「『中世の大掃除』と言われています。徳川家康がそれまでの文化、風習を排除して、新しい世にしようと思ったようです。ただ地中に埋められたおかげで板碑の保存状態は極めて良好です。外観がつい最近こしらえたようなものも存在します」 学生G「地中に埋められた板碑はどうしてその存在が明らかになったのですか?」 准教授「昔の書物に挿絵として描かれていました。そこから専門家の間ではその存在が知られていたようです。しかし実物の存在は高度成長期に大規模な工事をした際、地中から見つかって明らかになりました。昭和40年代の初めです」 学生G「中世の大掃除で一旦姿を消した板碑がキリシタン対策で天冠墓標として復活したということですね?」 准教授「その通りです。おっといけない、板碑の話になってしまって、肝心の天冠墓標の説明をしなくてはいけませんでしたね」  准教授はそう言って話を天冠墓標に戻しました。 准教授「天冠墓標の特徴は、頂部が三角形であること、正面に半円の窪みがあること、基礎部に蓮の模様があること、以上の三つです。これに加えて背面を敢えて凸凹にした粗彫りが施されている場合もあります」  中野はテキストの天冠墓標のページを開くと、そこに目を通しました。するといま准教授がしゃべったことがそっくり書かれていました。中野はその中で、「頂部が三角形であること」という箇所を赤ペンで囲いました。 准教授「また、この天冠墓標は建てられた年代によって、半円の窪みが一重、二重、三重に分かれます。後の時代になるほど、半円が多く重なります。それから蓮の模様は陰刻で左右対称、陽刻で左右対称、陽刻で左右非対称の3つに分かれます。いま紹介した順に時代が下がります」  中野はその説明もテキストにあることを確認して、そこを赤ペンで囲いました。 准教授「江戸時代の墓を理解するのは、この天冠墓標が最大の山だと言えるでしょう」 学生H「先生、試験の山はこの天冠墓標ですか?」  教室内でどっと笑い声が聞こえました。中野が後ろを振り返ると、教室のほぼ3分の1が学生で埋まっていました。試験の山が聞けるなんて、今日出席した学生はついていると思っただろうと中野は思いました。しかし准教授の口からは意外な言葉が発せられたのです。 准教授「試験はしません」  その瞬間、教室全体が震えるような声がしました。 学生I「先生、試験はやらないのですか?」 准教授「やりません」 学生J「レポートですか?」 准教授「レポートも求めません」 学生K「出席は今後も取らないのですよね?」 准教授「しかし評価はしなければなりません。そこで課外授業をしようと思っています。そこに出席した学生には合格点をあげたいと思っています」 学生L「課外授業ですか?」 学生M「どこへ行くんですか?」 准教授「この講義は皆さんに楽しんでもらって、近世墓のことを知ってもらいたいという目的で開講しました。ですからその人を試すようなことで評価をしたくないのです。そこで小旅行のような感覚で近場の墓地を訪ねてみたいと考えています」 (へえ、なんか楽しそう) 准教授「ですから皆さん、試験なのかレポートなのかを知る為に頑張って出席はしなくて結構ですよ。次回からはこの講義に興味を持ってくれた方が出席してくれれば良いと思います」  中野は勿論これからもこの講義に出席するつもりでいました。 (あ)  その時、教室に講義終了のチャイムが鳴りました。
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