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第6章 遠い思い出
中野がまだ幼稚園に通っていた頃、母に連れられて遠い土地に行った思い出がありました。幼かったせいか、そこがどこで、どうやってそこまで行ったのかは記憶にありません。覚えているのは昼間だというのにそこは薄暗く、山道をひたすら上って行ったことだけです。それもどれだけ歩いたのかわかりません。木々の葉で覆われた道がそこでやっと終わると、急に視界が開けて、平たんな土地が広がっていました。そしてその広場の中央に石碑があったのです。
母「佳奈、止まって」
次の瞬間、中野は突然立ち止まるように母に言われました。
母「そこ、目の前の土が盛り上がっているでしょ。そこを避けて来てね」
中野の母はその石碑に歩み寄ると、正面にしゃがんで手を合わせました。中野も母の隣にしゃがんで手を合わせた記憶があります。しかしその石碑が何だったのかわかりません。その後、あの場所のことを母に尋ねることもなく、母は他界してしまいました。
中野「興味深いっていうと、父さんに聞きたいことがあるんだけど、でもわかるかな?」
父「なんだい?」
中野「私が小さかった頃なんだけど、お母さんに連れられて山の中の石碑がある場所に行ったことがあるの。そこがどこだったのか覚えていないんだけど、父さん、わかる?」
父「石碑?」
中野「多分石碑だったと思う」
父「それはどこ?」
中野「山の中」
父「山の中? どこの?」
中野「わからない」
父「うーん。それじゃあ、わからないなあ」
中野「そうよね。それだけの情報じゃわからないわよね」
父「その場所がどうかしたのかい?」
中野「なんとなく気になって、あれってどこだったのだろうって。それにあの石碑は何だったんだろうって」
父「確かに興味深い話だね。しかし父さんが知らない話だ。残念だけどそれには答えられないな」
中野はその石碑について1つだけ記憶に残っていることがありました。それはその頂部がなんとなくイカに似ていると思ったことです。つまり三角形だったのです。
(頂部が三角形)
そうです。それは第3回講義で准教授が紹介した「天冠墓標」の特徴と一致します。しかし、天冠墓標の他の特徴まであの石碑に見られたのか、その記憶がありません。半円の窪みや蓮の花の彫刻があったのか、幼かった中野には覚えがなかったのです。
(でも先生が見せてくれた天冠墓標の写真が、あの時の石碑と似ている気がする)
中野はそう思うとこれからのあの講義が益々楽しみになって来ました。そしてあの講義で得られる知識が、もしかしたら母と行ったあの場所と、そこにあったあの石碑の謎を解明するヒントになるのではないかと密かに期待していたのです。
第7章 再び学食にて
中野は父と石碑の話をした翌日、考えた末に准教授の研究室に行って、天冠墓標のことを質問しようと思いました。そして話の流れによっては母と行ったあの石碑の話をしてみようと思ったのです。
准教授の研究室は2号館にありました。中野が初めて足を踏み入れる場所でした。2号館は大学院棟と称されていましたが、誰もいませんでした。誰もいないせいか、廊下を歩く中野の足音がやけに響きました。それで緊張しました。
中野「ここね。19階の3号室」
(コンコン!)
文学部事務室で吉田准教授の研究室の場所は聞いていたのですが、先生が在室かどうかはわからないと言われました。とりあえず行くだけ行ってみようと研究室の前までやって来たのですが、ドアをノックしても中からは何の音もしません。
中野はもう一度ドアをノックしました。しかし、その音も空しく廊下に響くだけでした。すると突然中野は孤独感に襲われました。その大きな建物に彼女が一人だけ残されたような気になって怖くなってきたのです。中野は小走りになってその場を立ち去りました。
(今日は講義がない日だし、先生は大学には来ていないのかな)
中野はそう考えると昼食を取りに学食へ向かいました。勿論向かう先はお気に入りの4階です。
(あ)
するとそこに吉田准教授を発見したのです。中野が准教授の存在に気が付いて凝視していると、准教授も中野の姿に気が付きました。中野は准教授と目が合うと、慌てて会釈をしました。すると准教授はにこりとして中野の方に正面を向けました。准教授はかつ丼をお盆に載せていました。空いている席を探していたようです。
中野「先生、御一緒しても宜しいでしょうか?」
准教授「構いませんよ」
中野は准教授に了承を得ると急いでAランチを注文しに行きました。中野がそれを抱えて准教授のいる席に戻ると、既に先生はかつ丼に箸をつけていました。
准教授「お先に頂いてるよ」
中野「あ、はい」
まさか准教授が中野の到着を待って、一緒に「いただきます」をするのもおかしいと思いました。しかし頭の中ではつい、その姿を想像してしまったのです。するとなんとなく笑みがこぼれて来ました。
(この笑いって、二人のその姿を想像したから? それとも先生に会えたから?)
そこでそんな問いかけを自分にしていました。
准教授「私を探していましたか?」
見ると准教授は食事を終えていました。
中野「え?」
中野は自分が准教授を探していることをどうやって知ったのかと思いました。
中野「連絡が行きましたか?」
文学部事務室から准教授に連絡が行ったのかと思ったのです。
准教授「連絡?」
どうやらそうではなかったようです。
准教授「それとも偶然かな」
中野「先生に質問をしたいと思っていました。そうしたら先生を見掛けたのでお声を掛けました」
准教授「なるほど、そういうことでしたか」
中野「すみません」
准教授「何も謝らなくていいんですよ。私はこの大学の教員です。ですから学生の質問に答える義務があります」
中野「でも食事の時まで押しかけてしまって」
准教授「そういうことなら教員冥利に尽きるというものです」
准教授はそう言って笑った。
中野「実は頭が三角形のお墓のことなのですが」
准教授「頭が三角形? ああ、頂部が三角形の墓のことかな?」
中野「あ、はい」
准教授「天冠墓標のことですね」
中野「はい。それです」
准教授「その天冠墓標のことで質問なのかな?」
中野「はい。そうです」
准教授「それのどんなことでしょう?」
中野「それって全てお墓なのですか?」
准教授「基本、天冠墓標は全て墓です。但し同じような形をしたもので庚申塔がありますね」
中野「庚申塔ですか?」
准教授「民間信仰の一つです。人は生きて行く間には数々の悪行を成します。すると、夜、眠っている間に人の体内にすんでいる虫が天に昇り、天帝にそれを報告するというのです。その日は60日に一度巡ってくる『庚申の日』だそうで、その日、虫が抜けださないように集会を開いて寝ずに過ごしたそうです。それを3年、18回続けた記念に建てたものが庚申塔です」
中野「それは山の中にも建てられますか?」
准教授「山の中というと?」
中野「山道を上がって行った先の、開けた場所に建てられたことがあるのでしょうか?」
准教授「そこは神社のような場所ですか?」
中野「いいえ、普通の山です。でも石碑が建っているんです」
准教授「するとそこは共同墓地ではないかな? 戦国時代に戦に負けて落城した武士団の墓地だと思います」
中野「墓地なんですか?」
准教授「ええ、山の中にあって開けた場所に石碑が建っていれば恐らく墓地です。それに共同墓地であれば、身分が高い武士はその上の方に墓域があります。墓の大きさも身分に比例して変わります。身分が高ければ墓も大きくなります」
(じゃあ、あれは戦国時代の落ち武者の墓だったんだ)
准教授「何かの本で読んだのですか?」
中野「え、あ、はい」
教授「他には何か聞きたいことがありますか?」
中野「いいえ。ありがとうございました」
准教授「そのような共同墓地は、今では開発によってなかなか見ることが出来なくなりました。課外授業でもそのような墓地を案内したいのですが、近くにはないので断念しました」
准教授は最後にそう言うと、失礼、と中野に声を掛けてその場を去りました。
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