吉田准教授の近世墓講義

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第8章 講義第4回 准教授「それでは前回の続きから始めます。前回は天冠墓標まででした。天冠墓標は江戸時代の墓を知る為には最も重要なものになります。しっかりと記憶してください。では、今回は『くし形墓標』から説明します」  准教授はそう言って、正面のスクリーンに画像を映し出しました。 教授「この墓は蒲鉾にも見えますね。それで『かまぼこ形墓標』ともいいます。江戸時代中期から後期にかけて、主に裕福な庶民が建てた墓です。一部、上士ではない武士が建てた場合があります」 学生A「上士はどのような墓を建てたのでしょうか?」 准教授「変わらず天冠墓標を建てていたようですが、墓を建てるよりも『墓誌』、場合によっては『位牌』だけを造っていたようです。実際一般的には明和8年(1771年)を最後に天冠墓標は建てられていません。ただ皆無だったわけではなく、安政6年(1859年)に建てられたものもあります」 学生B「その安政6年のものが天冠墓標の最後だということでしょうか?」 准教授「はい」 そこで准教授は安政6年の天冠墓標をスクリーンに映し出しました。 准教授「庶民の墓の造立は天保2年(1831年)に『墓石制限令』によって解禁されました。勿論そうは言っても実際に建てることが出来たのは裕福な大店の商人や大庄屋、庄屋などの町役人です」 学生C「その『墓石制限令』とはどのようなものなのですか?」 准教授「庶民が建てる墓は高さが四尺、つまり1メートル20センチ以下にするということ。それから戒名に『院、居士』の位号を用いてはいけないということです」 学生C「すると、『院、居士』が戒名に使われていれば、武士だったということですね?」 准教授「『墓石制限令』以降はそうなります。それ以前の文化文政時代には庶民が墓の高さを四尺超にしたり、『院、居士』を戒名に使ったりしていた例もあります」 学生D「武士ではなく、大店の商人や大庄屋、庄屋でもない、いわゆる一般の庶民のお墓はどのようなものだったのですか?」 准教授「一般の庶民は遺体を山に埋めたり、川に流したりしました。その際、土を盛って、その上に枯れ枝を差したり、河原で拾ってきた石を置いたりして目印にしていましたが、風雨がそれらを飛ばしたり、洗い流したりして、最後はその場所が誰にもわからなくなってしまったのです。自然の弔い上げですね。一方、武士などは盛り土の上に木製の卒塔婆を建て、法要毎にそれを建て替えて、弔い上げの際に石製の墓に置き換えていました。ですから墓に刻まれた年月日は故人の没年月日ではなくて、墓の造立年月日です。実際に亡くなったのは墓が建てられた32年前から49年前になるわけです」 学生D「ありがとうございます」 准教授「さて、話をくし形墓標に戻しますが、この形の墓が江戸時代末期まで続き、明治になります。明治になると『家制度』が始まって、『〇〇氏之墓』、『○○之墓』、『先祖代々之墓』、『〇〇家之墓』という標記が登場します。現代ではこのような『〇〇家之墓』という標記が目立ちますが、江戸時代にはこのような例は見られません。江戸時代初期の墓は一人に付き一基ですから、個人の墓だったからです。やがて経費削減から元禄年間(1688年から)になると、世帯墓(夫婦の墓)が出現します。そしてそれまで見られた禅定門、禅定尼、善男などの位号は見られなくなり、居士、大姉、信士、信女に統一されて行きます。更に時代が進んで享保末期(1735年頃)になると、墓を建てるよりずっと経済的な墓誌が大名を皮切りに流行りだします。そして元文年間(1736年より)から、『墓を建てない時代』突入するのです」 学生E「すると元文年間からは全くお墓が建てられなくなったのですか?」 准教授「勿論、墓の建立が皆無だったわけではありません。しかし、墓を建てるよりも墓誌の活用が経済的、合理的だったわけです。ただ、墓誌は元々墓がなければ墓誌だけ建てるわけにはいきません。墓誌を建てられたのは大名、旗本、上士階層だけだったわけです。それ以外は位牌を墓に見立てていたのです」 学生F「お墓が建てられなくなったのに、墓石制限令はどういった理由で発布されたのですか?」 准教授「先ほども少し説明しましたが、文化年間(1804年から)になると、大店の商人や裕福な大庄屋、庄屋などの町役人が武士階級を凌ぐ規模の墓を建て始めます。また寺に多額の寄付をして、戒名に『院、居士』を付けてもらうようにもなりました。そこで幕府は庶民の『院、居士』禁止、墓の高さは四尺(約1メートル20センチ)以下とすることを謳った『墓石制限令』を天保2年(1831年)に発布しました。これによって、養老律令(AD757年)の喪葬令で、『庶民は墓を持ってはいけない』とされた制約が遂に解除されたのです。今から193年前のことです」 学生F「ありがとうございます」 准教授「勿論、墓を建ててもいいよと言われても、今でさえ高価な墓を誰もが建てられるはずがありません。今のように誰もが墓を建てるようになったのは大東亜戦争の後、高度成長期に際してです。それから計算すると僅か70数年ということになります。また誰にでも墓地が解放されたのは大正15年(1926年)に青山墓地が日本初の公営墓地になってからです。それからは100年も経っていないことになります」 中野「江戸時代のお墓はどのような場所に建てられたのでしょうか?」 教授「武士の墓域は寺の境内に確保されました。曹洞宗、日蓮宗などが多いように思います。庶民の墓はそれ以外の宗派のお寺に建てられました。中には自分の敷地のはずれに建てた場合もありますが、これは庄屋クラスの地主の場合です。ほとんどの人は墓など持てなかったわけです。山に埋めたり川に流してそれっきり、という場合も多かったようです。また戦国時代に武士だった一団は山の斜面に共同墓地を造って、そこに墓を建てていました。その際、身分の高い家が上の場所に墓域を確保しました」 (あ)  その時、教室に講義終了のチャイムが鳴りました。 准教授「次回の講義は休講にします。そしてその次はお約束していた課外授業をします。場所は八王子ですので、この講義の開始時間と同じ10時50分にJR八王子駅の改札口を出たところに集合してください。そこで出席を取ります」 第9章 准教授の思い出  吉田准教授には忘れられない思い出がありました。それは今から39年前、昭和60年(1985年)のことです。当時彼は4歳、幼稚園に通っていました。その日彼は彼の父に連れられて遠方に住んでいた父のいとこの家に遊びに行きました。都会の大きな駅から特急か急行列車に乗って田舎の駅で乗り換え、父のいとこの家へ向かったのです。 そこは屋根が茅葺で、玄関を入ったところに五右衛門風呂があり、トイレは母屋からかなり離れた場所に別の建物としてありました。夜にはとても一人でトイレには行けず、父を起こして連れて行ってもらったのです。  その時、同世代の女の子と知り合いになりました。名前はカコちゃん。苗字は覚えていません。どうやって仲良くなったのかも記憶にありませんでしたが、きっとその子が父のいとこの家の近所に住んでいたのでしょう。二人で野原を駆け回った思い出がありました。花を摘んで、それを冠にして、その子の頭に被せたりしました。 ところがその子が神隠しに遭ってしまったのです。そしてその時彼はその子と一緒だったのです。町のはずれに廃墟になった家があって、そこをその子はお化け屋敷と呼んでいました。その廃墟の荒れた庭を横切ると、一筋に伸びる獣道が山の中へ続いていました。その先は決して足を踏み入れてはいけないと大人からは言われていた場所です。 ところがその子がそこへ入ってみようと彼を誘いました。そして二人は山の中で迷ってしまったのです。彼はその子を見失い、そして辺りが暗くなり始めた頃、一人でそこを抜けだすと一目散に父のいとこの家に戻ってしまったのです。 彼はその子がどうなってしまったのか想像すると怖くて、そのことを父には話せませんでした。あの子は無事に家に戻れたのだろうかと心配でたまりませんでした。しかしその子の家を彼は知りませんでした。誰かもわからないのです。ですからそれを確かめることは出来ませんでした。 その翌日、彼は父と東京に戻りました。それから自分のした罪に苛まれる日々を送ったのです。その後、彼は彼の父の誘いを断り、父のいとこの家には同行しなくなってしまいました。やがて父のいとこが亡くなり、代替わりしたあの家には父も行かなくなりました。
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