吉田准教授の近世墓講義

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第10章 講義第5回目  吉田教准授は手にしていたリストで出席者を確認すると、JR八王子駅の南口に向かって歩き始めました。 准教授「10分くらい歩きます。今日はお寺が教室になります。お寺の中にある墓域が教材です」 学生A「どんな方の墓域なんですか?」 准教授「八王子というと『千人同心』が知られています。元は武田家の家臣だった人達ですが、その後郷士として徳川家康の家臣に組み込まれ、八王子城下の治安維持に始まり、甲州街道警備、日光東照宮警護、蝦夷地開拓警護などに当たりました。その中で千人頭だった原家の墓域に向かっています」 学生B「郷士とはどのような身分の人達ですか?」 准教授「千人同心の身分はあくまで農民ですが人別帳に苗字を書くことが許され、刀を差すことが出来ました。千人頭は10人の組頭を支配し、組頭の下にそれぞれ80人の平同心がいました。平同心は八王子に土着した上層農家が多かったようです。千人同心組頭は拝領屋敷に加え十俵一人扶持から三十俵一人扶持、千人頭は拝領屋敷の他、知行200石から500石の旗本待遇でした」 学生B「十俵一人扶持とはどれくらいの給与なのですか?」 准教授「十俵一人扶持は家族5人がなんとか食べていけるくらいだったようです」 学生C「一石はどれくらいなのでしょうか?」 准教授「一石はお米の重さでいうと150キロになります。200石から500石というと30トンから75トンの米になりますね」 学生C「すごい量ですね」 准教授「あ、見えて来ました」  准教授の視線の先にお寺が見えて来ました。そこから少し歩くと大通りに面したお寺の南側に至ります。そこにある門から中へ入ると、目の前に墓地が広がっていました。目的の墓域は門のすぐ左手にあり、その広さからすぐにそこだとわかりました。 准教授「ここが千人頭の墓域です」  そこには古そうな墓石がたくさん並んでいました。 学生D「五輪塔こそありませんが、宝篋印塔、笠付墓標、それから天冠墓標もありますね」 学生E「くし形墓標もあります」 (大名ではないから五輪塔は建っていないんだ)  中野はそう思いました。 (そうか。旗本待遇だと先生が言っていたから宝篋印塔があるんだ) 准教授「この墓域にある墓を誰か説明してくれませんか?」  中野は一瞬迷いましたが、ここは前に出なくてはいけないと思い、准教授の前に一歩進みました。何度か大学の学食で准教授を前にしていたので、他の学生よりは親近感を持っていたから出来たことかもしれません。 中野「こちらの墓域には五輪塔はありません。それはここが千人頭の墓域だからです。千人頭は旗本待遇で知行が200石から500石です。五輪塔は知行が1万石以上の大名が許された墓です」  准教授は中野の説明を聞きながら、柔らかな笑みを浮かべて頷いていました。 中野「但し宝篋印塔が数基見られます。宝篋印塔は旗本に許された墓です。それから頂部が三角形の天冠墓標も見られます。それはおそらくこういうことだと思われます。千人頭は旗本待遇ですから江戸時代初期には宝篋印塔を建てられたのですが、寛文年間から身分統制が厳しくなり、知行4000石未満の旗本はそれを建てられなくなりました。それで天冠墓標に切り替えたのでしょう」 准教授「中野さん、素晴らしい推理です。いや、推理ではなく正解です」  他の学生が言葉には出してはいませんでしたが、心の中で中野に熱い声援を送っていました。 中野「もう少し宜しいでしょうか」 准教授「いいえ。あなたの説明をもう少し聞いていたいところですが他の学生の話も聞いてみたいので、ここまでで終了です」  准教授はそう言って中野の話を遮りました。中野は途中で話を止められたので気持ちが落ち着きませんでしたが、これが試験の代わりなのだと理解すると潔くそこで話を終えました。 准教授「中野さん、ありがとう。ではこの続きを説明してくれる人は?」 学生A「はい!」 准教授「山中さんだったね」 学生A「はい」 准教授「では続きをお願いします」 学生A「他には笠付墓標が見られます。笠付墓標は石高から宝篋印塔を建てられなくなった旗本が切り替えた墓標です。ただ、庄屋などの庶民も建てていたのでその両者はそこに刻まれた戒名で区別します。因みにこちらの墓域は旗本待遇のものですから、『院殿』が戒名にあるはずです」  その学生はそう言ってその笠付墓標に近づきました。 学生A「この通り、戒名に『院殿』、そして『居士』が見られます」  そしてそう言いながら墓に刻まれた戒名を指差しました。 准教授「はい、ありがとう。君の説明も素晴らしかったです。ではこの続きは別の人にお願いしよう。誰かいますか?」 学生B「はい。加藤です」 准教授「では加藤君、続きをお願いします」 学生B「他には、くし形墓標も見られます。これは天保2年(1831年)に庶民にも墓を建てることが許されるようになってから建てられるようになった墓標です。庶民だけではなく上士以外の武士が建てた場合もありますが……あれ、この墓域は旗本待遇のものでしたね。するとどうしてこの墓標が建っているんだ……」  その学生は途中で説明が止まってしまいました。 准教授「加藤君、くし形墓標にはどんな文字が刻まれていますか?」 学生B「あ、先祖代々とあります。そうか、これは近世墓ではないんだ。そうか、明治以降に建てられた、恐らく近代墓だと思います。それで旗本待遇の家でもこのような墓を建てるようになったのですね」 准教授「正解です。これはくし形墓標ですが、明治に建てられた墓です。側面に造立年月日が刻まれているので確認してみてください」 学生C「先生、そうしますと、明治になると大名や旗本も五輪塔や宝篋印塔を建てられなくなったのですか?」 准教授「建てなくなった、というのが正しいと思います。つまり、明治になると墓を建てる際の形や大きさの制限がなくなったのです」 学生C「すると庶民が五輪塔を建てることもできたわけですね?」 准教授「可能だったと思いますが、そういう例はずっと後になってからでしょう。墓は今と同じように多額の費用がかかります。ですから大名や旗本も五輪塔や宝篋印塔に拘る必要もなくなり、小さなくし形にしてしまったのです」 学生D「なんとなく残念な気がしますね」 准教授「ただ、老中首座だった松平伊豆守の墓域には今も大きな五輪塔が建てられ続けています。つまり昭和、平成の子孫も五輪塔を墓標として建てているのです」 学生D「すごいなあ] 准教授「ちなみに松平家の墓域は3000坪もあります」 (うわ、すごい)  しかし中野はそう思ったものの、それがどれくらいの広さなのか想像できませんでした。 准教授「それでは以上で今日の課外授業は終了です」  中野がスマートフォンで時刻を確認すると11時半を少し過ぎていました。 准教授「では、帰りは反対側の門から出ましょう」  15人ほどの団体は准教授の号令でその場を撤収しました。 准教授「その右側に建っているのは何だかわかりますか?」  出口の門のすぐ傍で准教授が右側に建つ緑色の石碑を指差しました。 (あ)  それは板碑でした。 准教授「色からして緑泥片岩で造られたことがわかりますね。武蔵型です」 学生E「武蔵型ですか?」 准教授「板碑は主に関東地方に存在しますが、日本全国に分布しています。武蔵型は秩父の長瀞地域から産出された緑泥片岩で出来ている板碑を差します。また、茨城県にある筑波山から産出された黒雲母片岩で出来た下総型というものもあります。それから阿波周辺からも緑泥片岩が産出されていて、こちらは阿波型と呼ばれています」 中野「この武蔵型の板碑はいつ頃のものでしょうか?」 准教授「南北朝時代初期の建武三年(1336年)の銘があります。688年前ですね」  それから一行はJR八王子駅までおしゃべりをしながら進むと改札で解散しました。ただ准教授が一緒だったので世間話などは出来るはずがなく、おしゃべりの内容は近世墓に関する話題に限られました。
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