前編

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深山は初めて野原を見て笑った。その姿は喧嘩の途中で顔に傷を覆っていた。野原なら喧嘩を止めてくれるに違いない。そう思ったから殴り合うのをあえてやめなかった。 深山と野原は保健室で保健医の沢本先生に治療を受けている最中だった。 「いててて。せんせ、もうちょっと優しく…」 「なに言ってんの。傷口の血はちゃんと拭いて消毒しないと……」 椅子をくるりと半回転させて、テーブルに置いてある絆創膏を取り出すと深山の右頬に貼る。 「で、とんだとばっちり食らったわけね」 「は……はい」 野原は頭に軽い怪我をしたが、右頬の腫れが深山と瓜二つだったらしく、沢本は揃ってベッドに座る野原の姿を見て微笑んだ。相変わらず野原は沢本の顔を直視せずにいる。やはりこの男は少し変わっている。深山は不思議そうに横目で野原の態度を一瞥する。 「ちょっと私、昼ご飯まだなのよ。ちょっと席外すわね。反省会どうぞ〜」 沢本はニコニコしながら保健室を出ていった。 野原とふたりだけになる。今こそ気になっていることを訊くチャンスだ。 「なあ、なんで相手の顔見て話さねーの?」 「……」 野原の返事はない。地蔵のように黙ったまま目を瞑っている。絆創膏を右頬に貼った深山の顔は見なかった。深山は続けて尋ねる。 「じゃさ、なんで喧嘩のとき俺の顔見たの? 見てたよね? ね?」 「……たしかに目が合った……ような気がする」 「気がするって……俺は確かに先生と目が合ったんだってばー。ていうかなんで先生はさ、生徒のこと番号呼びなの? ちょー気になってんだけど」 「理由は言わん。そのうちな」 「えー……」 野原は絶対になにか隠している。野原の秘密を探るにはどんな方法があるだろうか……と考えていると、あることを思いつく。 自分が先生のお気に入りになればいいのではないかと。野原に気に入ってもらうにはどうしたらいいのだろうか。とりあえず直球を投げかける。 「ねえ、先生。連絡先教えてよ」 「は? ダメに決まってるだろが。教師のプライベートにまで踏み込むな」 野原はきっぱりと断った。いきなりしつこく尋ねたら無愛想な反応を見せてくるのは当たり前だった。やはり野原は深山の目を見て話そうとしない。野原は深山の顔を無視して黙って保健室を出ていった。 ――野原って本当は優しい奴なんじゃ……。 生徒思いのくせにどうして目を合わせてくれないのだろう。どうして喧嘩をしていたら一瞬目が合ってしまったのだろう。あのときの表情はクールなのに、どこか眼光が鋭くも憂いを帯びていた。 野原のことをもっと知りたい。そんなことを思いながら保健室を出て一旦、野原と離れて教室に戻る。コンビニで買ってあったおにぎりを、岩津が教室まで持っていってくれたらしい。袋を岩津から受け取ると、おにぎりを取り出して机に置いた。 「サンキュー」 「早く食わねぇと昼休み終わっちまうぞ」 深山は椅子に後ろ向きに跨り、岩津と昼飯を食べ始めた。岩津の隣の席にいた金谷(かなや)が深山の怪我を見るなり笑いながらこう言った。 「お前もう喧嘩なんかすんじゃねーよ。ていうかなんで喧嘩になったんだよ」 「勝手に売られたんで。売られた喧嘩は買わねーと」 「買うなし」 「喧嘩はタダだし」 「そういう問題じゃねーわ」 「授業抜け出して、早めにコンビニ行ったのによ、もう既にコンビニ混んでてさあ……。参ったぜ全く、あはは」 笑いながらおにぎりを頰張る。昼食を三人で食べながら、話題は喧嘩の止めに入った野原の話になった。 岩津は野原が他校の不良生徒に右頬を殴られる瞬間を目撃したときのことを話す。 「深山とピアス男の間に入ろうとしたらさ、後ろから野原が振り向いたところガーンって、やりやがったんだよ。な?」 「見てるなら止めろよお前」 深山が思わずツッコミを入れる。 「いや、俺だってもうひとりの奴相手にしてたからよぉ。無理無理」 「てかさ、野原って本当は生徒に関心があんじゃねーの? あんな暗い顔しててもさ」 金谷が何気なく呟いた言葉が気になった。 ――関心がある? だったらなんで……。 「そんなら生徒のこと出席番号だけで呼んだりしねえよ」 「だよな」 岩津が合いの手を入れる。 食べかけのおにぎりを残り半分を食べきってゴミを袋に詰めると、教室の隅に置いてあるゴミ箱へ投げ入れた。 ――でも喧嘩してるとき目が一瞬だけ……。 ――綺麗な顔してたなあ……。 ぼんやりと窓を眺めながらあることを提案した。どうしても野原の連絡先を聞き出したかった。なんでだろう。誰よりも野原のことが気になって仕方がなかった。 「俺、野原にはなにか隠してることがあると思っててさ……お前らも知りたくない? 今度俺んところで作戦会議しよーぜ」 「作戦会議?」 岩津と金谷の声が揃った。 噂をしていると野原が教室に戻ってきた。もうすぐホームルームの時間になる。 深山はふたりに「じゃ、またあとで」と言って前を向いて椅子に座りなおした。 野原は相変わらず下を向いていた。右頬には他校の生徒から殴られて赤く腫れた跡が残っていてガーゼで覆われていた。深山とお揃いだ。 春、深山は喧嘩の最中野原と目が合って彼に興味を抱いた。深山は野原の心底暗い表情を打ち負かすような好戦的な笑みを、野原に対して向けた。まだ野原の秘密を知らないまま……。
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