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夏に入ると蝉が一斉に鳴き始めてむさ苦しい。高校三年生にもなれば夏期講習にも時間をかけて受験勉強に励む時期だ。だが深山は違った。深山は実家の店の手伝いで観光客の相手をしていたこともあって勉強どころではなかった。進路相談がそろそろ始まる頃だった。少し頭を抱える問題もある。
「この時期だけはあんたも手伝う気になるんだね。ったく毎日顔合わせてんだからいつも手伝って欲しいわ」
「しょうがねーじゃん。そんなに暇じゃねえし」
「帰宅部で暇でしょうが」
深山の母――留美が女手一つで飲食店を切り盛りしており、このまま母が元気なうちはいいが、いつかこのお店を引き継いで働くのも悪くはない。ただ一つ気になっていることが深山にはあった。それは深山の担任である野原のことを好きになってしまったかもしれないことだ。
深山は地元のムードメーカーでもあった。
「そういや健人、進路はもう決まったのか?」
常連客のひとりがざる蕎麦をすすりながら尋ねてきた。昔からお世話になっているおじさんは、今年も夏になるとざる蕎麦を食べに来てくれる。深山のことを下の名前で呼んでくるほどこのお店に慣れ親しんでいる客であった。特別親しい間柄でもないのだが、自分の幼少期を知っているからこそ母の知り合いともなれば、笑顔で応対するほかなかった。
「いやぁ、今度担任と面談があるんでそのときはっきり決めよっかなぁ……と」
「遅くねえか? 受験勉強はちゃんとやってんのか?」
「あー……まあ少しは……」
「うちの子にそんなこと聞いても無駄ですよ。受験する気なんてないんじゃないかしら」
返事に困っていると留美が口を挟む。
「そうかい。悪かった悪かった」
おじさんに潔く謝られた。深山はおじさんが黙々と蕎麦を食べ続けている様子をカウンター越しにまじまじと見ていた。
――おじさんはなんでもお見通し……ってわけでもないよなあ。
「こら、ぼうっと突っ立ってないで、手動かしなさいよ」
「お、おう……」
カウンターの奥で食器を洗っていると店の戸がガラガラと音を立てて開いた。
「あら、いらっしゃい。ちょうどふたり分席が空いてるわよ」
「あ! お前らくるのはえーよ」
「いいじゃん、夏休みなんだしたまには」
「深山の母ちゃんの作る飯うまいからさ」
岩津と金谷が店に入ってきた。作戦会議をする約束をここでしていたのだが、ふたりは予定時刻より早めに店に訪れてきた。仕方なくテーブル席に座る彼らに注文を聞く。
「とりあえず食い終わったら、上あがれよ」
「おう。なあ、ざる蕎麦食べようぜ」
「じゃ、俺と金谷ふたり分で」
岩津の注文を聞いた後、厨房に戻って留美に声をかけた。
「ざる蕎麦二つ」
「あいよっ」
気前のいい返事が返ってきたものの、友人が客としてやってきた今、深山は留美に将来のことを相談できずにいる。それに加えて教師のことを一人の人間として恋をしているだなんて言えるわけもなく……深山は思い悩んでいた。
――言わなくてもわかるってことはねぇし。
「はい、ざる蕎麦二つ」
茹で上がって冷水で締めた蕎麦が岩津と金谷の目の前に差し出された。お盆にはつゆの入った小鉢と摩り下ろしたての山葵や、薬味の入った小皿が添えられていた。
「おお、旨そう!」
「いただきまーす!」
黙々とざる蕎麦を食べている友人の食卓の前に腕を掛けて屈む。
奥の席で蕎麦を食べていた常連客がお店を出ていくのを見計らって、深山は四隅にあった丸椅子を持ってきて岩津と金谷の間に座った。岩津が蕎麦を啜りながら聞いてきた。
「深山どうした?」
「やっぱ上あがんなくていいからここで聞いてくれ」
「そういや作戦会議してなかったじゃん」
金谷が思わずこれから深山が言うであろうことを先に言った。
「そのことなんだけど。俺、野原に気にいられてえと思ってんだわ」
「気にいられたい?」
岩津が疑問に感じて反応を示した。深山は深く頷いてこう付け加えた。
「そっ。野原に気に入られればなんで番号呼びなのか理由がわかるかも知れねえじゃん?」
「そっか。でもさ、なんであんな教師に好かれたいとか思ってんの」
「それは……」
野原は本当は生徒一人一人に関心がある奴だ。それを信じて疑わない。喧嘩の最中たしかに野原と目が合った。野原は深山の喧嘩を止めようとして怪我をし、深山と同じような傷を覆った。そんな彼の姿を見て深山は気になって仕方がなかった。そう、もしかしたらこれは恋なのかも知れない。
「待って、俺野原のこと好きなのかも……」
「は?」
「生徒を番号だけで呼ぶあんな教師のどこがいいんだよ」
岩津と金谷は深山の真剣さを無視して言う。
ふと口にしてしまった言葉を脳内で繰り返し刻んでいく。
――見た目はかっこいいし?
――落ち着いてててなんかクールだし?
「なんか優しそうだし……ギャップというか……」
「ふーん」
深山はふたりが揃って同じ反応をしているのを見てつまんなそうな顔をした。
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