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後編
人と目を合わさずに会話をするようになったのはいつからだろうか。生徒の前でいつも下を向いていた。向いていたはずなのに……。
あるとき野原の前に現れた一人の生徒は目を逸らしてはならない存在だった。進路相談の日を過ぎてからもクラスの中で一際目立っていた彼からの視線はやたらと感じるようになり、彼が自分に好意を向けていることは薄々感じていた。
深山健人――という名の生徒が自分のことを気にかけていることは理解していた。
今日は学校が休みということもあり、深山の実家の飲食店まで足を運んでみることにした。
「いらっしゃいませ」
留美の気前のいい美声が店内から聞こえた。
野原は一般のお客様として出迎えられる。留美と一瞬目が合った。地元の高校の教師であることを隠しているつもりはない。だが、留美は彼が深山の担任であることをよく知らなかったようだ。
カウンター席に座ってメニュー表をパラパラと捲る。じっくりメニュー表を眺めながら、ちょうど良い品が揃っているなと感心する。野菜天ぷらの盛り合わせの温かい蕎麦にでもしようと軽く手を上げ注文する。
しばらくして注文の品ができあがり、カウンター前から差し出された。
野原は「いただきます」と小さく手を合わせて温かい蕎麦を食べ始める。
店内の雰囲気はどこか落ち着いていて、昔から地元で愛されているような雰囲気だった。
野原は食べながら深山が面談日で発言した言葉を振り返った。
――実家の店跡継いだだけじゃなんか人生つまんねーでしょ。
留美の背を見て、一教師であることを伝えておくべきか考えた。深山が春に問題を起こしていたことを話さないわけにはいかないだろう。地元では有名な飲食店だろうが。
留美がカウンター越しに一言話しかけてきた。
「地元の方ですか?」
「ええ、『一葉』の教師をしてまして……」
「あらそうですか! うちの息子がまたなにか問題起こしてないといいんですけど」
「深山健人君でしたっけ。私担任の野原と申します」
「あら担任の……いつも息子が世話になってます」
留美はカウンターの脇から出て野原の前で一礼する。野原は見つめられるのが苦手だった。目を逸らしつつも軽く会釈をする。
「先日の進路相談で実家の店の跡を継ぐと仰っていて、とても芯の通ったお子さんだと思いましたよ」
――言うべきことはこれだけじゃないのだが……まあいいか。
野原は深山が春に他校の不良生徒と喧嘩をしたことを話すのを諦める。気が変わってしまった。
深山を褒めるつもりは全くなかったのだが、母親である留美に余計な心配をさせるのは良くないと判断した。
「そうですか。あんな子って言い方悪いですけど、繁盛期になるといつも手伝いをしてくれて……本当に母親としても嬉しくて。野原先生、感謝してます……」
留美は野原の手を両手で握り締めた。
手に力が篭っていて留美の言葉に重みがあった。野原は握られていた自らの手を見ながら留美にこう言った。
「お蕎麦、とてもおいしかったですよ」
「ありがとうございます」
留美は手をそっと放して野原の前にあった食器を片した。深山がちゃんと親孝行できていることも十分に伝わった。しかしながら、野原にとって悩むべき点はほかにあった。
深山が自分に好きな人がいることを語り出したこと――告白したい人物は担任である自分ではないかと。その事実を隠し続けることは現役教師たる者いつかは親に話さなければならないことだろう。悩ましい点だ。
さらに深い悩みがもうひとつある。
野原はどうしても顔が覚えられない。
深山に目を向けられたときも、彼の名前を出席番号で呼んだときも野原は思い出していた。
彼の印象は強かった。見た目もそうだったが、喧嘩をしている姿を見たときから妙に取り憑かれていた。
名簿を拡げたとき、二十五番――深山健人の文字を眺めてかつての恋人の名前を思い出していた。
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