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01.婚約者のフリはいいけど相手が悪い
園田春子は欠伸を噛み殺しながら、都内でも有名な高級ホテルのロビーを見回す。
広々としたロビーは解放感があり、天井も高い。見上げると大きなシャンデリアが煌びやかに光を放っている。
床や天井はベージュで統一されところどころアクセントとしてゴールドの装飾が散りばめられていて、高級感がある空間だ。心なしか、ロビー内にいる人もお金持ちに見えてくる。
こんなところ、仕事でもなければ足を踏み入れることもなかった。
環境美化用品会社に勤める春子は、営業部社員からの指示で急遽契約書の紙原本をこのホテルに届けることになった。営業事務という仕事柄外出することは基本的にはないので戸惑ったが、今日中だから、という言葉と共に「直帰でいいから」と言われ、諸手を上げて会社を出た。派遣社員だとしても、こんな高級ホテルに自社製品が置かれると思ったらなんだか誇らしくなる。
契約書を渡す簡単な仕事も無事終えたので、ここからは自由時間だ。
金曜日の夕方、直帰を許されているので本当ならホテル内のレストランで食事でもして帰りたいところだった。でもそんなお金があるわけでもないし、何より眠い。今日は夜のバイトもないし、久しぶりに明日の昼までぐっすり眠れそうだ。
「おい」
低い声が背後で聞こえた。やけに響く声だな、と思いつつはやくベッドに横たわりたいという気持ちから早足でロビーを歩く。
「おい、待て」
「……はい?」
肩を叩かれ振り返るとスーツ姿の男性が立っていた。先ほど契約書を渡した人でも、知り合いでもない。
「頼みがある」
そうは思えないような、春子を見下げる不遜な態度。身長が高いせいかやけに威圧感がある。眉間には皺が寄っていて、眼力も強い。漆黒の髪は清潔感もあり、きっちりと黒いスーツを着こなしていてネクタイも締めているのにただのサラリーマンとは思えない風貌だ。恐らく二十八歳の春子よりは年上だろうけれど、顔立ちは若くも見えるし、全体のオーラは貫禄があり年齢不詳だ。
彼の迫力に見逃しそうになるが、鼻筋は通っているし顔立ちは整っていて男前だ。ただ、それを超える目つきの悪さ。
「……な、なんでしょうか?」
彼はどう見ても春子に声をかけているので、恐る恐る返事をした。
「俺の婚約者になってくれ」
「……は?」
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