01.婚約者のフリはいいけど相手が悪い

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 車で走ること一時間、ようやく停車し車を降りる。  虎将に連れられるまま、目の前の、年季の入った三階建てのビルに入っていく。 「ここが俺の事務所だ」  事務所? 芸能プロダクションとかそういう類のものだろうか。そういえば先ほど答えを聞けずじまいだった。エレベーターで二階に上がり、正面にあるドアを開く。 「組長、ご苦労様です!」  ドアを開けた瞬間、男性たちの太く大きな声が響き肩をびくりと震わせる。  十人ほどのスーツ姿の男性たちが虎将に花道をつくるように左右に並んで頭を下げている。異様な光景に春子は立ち尽くす。いや、それよりも。  今、組長って言った? 「組長、そちらの女性は……? 今日は見合いのはずでは」 「紹介する。彼女は春子だ。見合い相手ではなく、俺の婚約者だ」  先ほどと同じように虎将に肩を抱かれ、発表する。 「……えええええ!」  一瞬の静寂ののち、男たちの低い声がフロアに轟く。 「見合いをするとは聞いてましたが、彼女がいらっしゃったんですか!?」 「そんな、あの組長に女が……」  明らかに動揺している男たちの中で、虎将は堂々としている。虎将に彼女がいることがそんなに驚くことなのか、数時間前に出会ったばかりの春子にはわかるわけがない。 「今後春子もここに顔を出すこともあるだろうから報告しておく」  唖然としていた彼らの視線が一気に春子へ集中し、同時に頭を下げる。 「……姐さん、よろしくお願いします!」 「あ、あねさん?」  困惑したまま虎将を見上げると、一度だけ頷く。まったく意味がわからないけれど、頭を下げる彼らへの礼儀として、春子も頭を下げた。 「園田春子です。よ、よろしくお願いします」  顔を上げた若い男性たちは真剣な顔をしてもう一度「よろしくお願いします!」と野太い声を上げた。 「よし、次に行くぞ」 「え、ええっ」  呆気にとられたままの春子はまた強い力に引き寄せられ歩き出す。事務所と呼んでいたその場所をあとにするとまたしても車に乗り込んだ。 「あ、あの吾妻さん」 「虎将だ」 「え?」 「虎将と呼べ」  妙な威圧感に春子は息を飲む。 「……虎将さん、今の場所はいったいどこで……」 「着いたぞ」 「もうですか!?」  質問をする隙もないほどまた次の目的地に到着したらしい。にしても車に乗ってまだ五分も経っていない。促されるまま車を降りると、地下駐車場だった。駐車場内にあるエレベーターに乗り込み、上がっていく。 「それで、今度はどこに連れてこられたんでしょうか……」  先ほどの古いビルとは違って、今度はどこの高級ホテルかマンションかと思うほどエレベーターも高級感があるしセキュリティもしっかりしている。  エレベーターに乗り込むと、最上階の三十階で降りた。  先ほどの『事務所』の様子から見ても、虎将が普通の人とは思えない。彼は『組長』と呼ばれていたし、あの雰囲気にこの見た目。ほぼ確実に極道組織の人――つまりヤクザだ。  意識すると、戸惑いとはまた違った恐怖が沸き上がってくる。極道組織のやっていることなんて興味もなかったのでまったくわからないけれど、悪いことをしているのは当たり前くらいに思っていた。それから、自分とは一生関わることのない人だとも思っていた。 「入れ」  戸惑いながら虎将についていくと、ドアの前で立ち止まった。というか、最上階は見渡せる限りドアが一つしかない。 「……ここは?」 「俺の家だ」 「ここがですか?」  高級マンションのしかも最上階。極道の人がこんなところに住んでいるとは想像していなかった。ドラマや映画から、日本風のお屋敷に住んでいるイメージだった。 「ああ。セキュリティは万全だから安心するといい」  ――そういう問題ではなくて、あなた自身が危険なんですけど。  口にしたくなる言葉をぐっと飲み込むが、さすがに家に入るのは躊躇われて一歩目が踏み出せない。彼が安全な人だとは限らないし、ましてや恐らく組長。警戒しないのはおかしな話だ。 「ほら、はやく入れ」 「あっ!」  背中を押され、玄関の奥へ一歩二歩と踏み出してしまう。背後でドアを閉め、鍵まで閉める音にドキッとする。途端に逃げ出したくなってきた。  今ならまだ間に合うかもしれない。内側から鍵を開けて外に出るなら今だ。お金は欲しいし婚約者のフリをするのも問題はない。ただ、彼の職業が気になるだけだ。春子はそっとドアノブに手を伸ばす。 「何してるんだ?」  声を掛けられ、肩がびくんと震えた。  前を向くと、春子をじっと見ている虎将と目が合った。それから、彼の奥に見えるリビングの景色。 「うわ、すごい……」
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