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春子は引き寄せられるように、中へと足を進めていた。
玄関からして物が少なく、モデルルームみたいだ。廊下を抜けると広々としたリビング。リビングも物は最低限で、テレビとソファ、それからテーブルのみ。大きな窓からは高層階からの良い眺めが見える。障害物もなにもなく街中を見下ろせる場所に住んでいるなんて、春子からしたら考えられない。
虎将がこんなマンションに住んでいるのも驚きだけれど、なによりも春子の知らない贅沢な空間にぼんやりと部屋中を見回していた。
「座ってろ。コーヒーでいいか?」
言葉にできなくて、こくこくと二度頷いた。
黒の革張りの二人掛けソファの端にそっと腰を下ろす。すっかり逃げるタイミングを失ってしまった。
「コーヒー。豆からだからうまいぞ」
「……ありがとうございます」
「砂糖とミルクも適当に使ってくれ」
「は、はい」
マグカップに入ったコーヒーに視線を落とす。こんなに丁寧にコーヒーを淹れる人なんだ。虎将のことを知れば知るほど、よくわからなくなってくる。なのにただなんとなくまだ警戒心がほどけなくて、コーヒーを口にすることができない。
隣に座った虎将はコーヒーをおいしそうに飲んでいる。
「……虎将さん、ちょっと聞いていいですか?」
「ん?」
逃げる前に確認しなければいけないことがある。ほぼ確定しているけれどほんの少しの希望を込めて。
「もしかして、虎将さんのお仕事って、あの、ヤクザというか……」
濁して聞きたかったのに、結局曖昧な言葉が出てこなくてストレートに聞いてしまっていた。
「ああ。言ってなかったか」
「聞いてませんっ!」
「そうか、悪かったな」
虎将があっさりと謝るので春子は責める気にはなれなかった。
「神代会、って聞いたことはないか?」
「……まあ、ありますけど」
関東でも大きな極道組織だ。でも、たまにニュースで名前を聞くくらいだ。組同士の抗争がどうとか、一般人の春子にとってはまるで現実味のないニュースで聞き流すだけだった。
「その中の一つに、吾妻組がある。俺はそこの組長をやっている」
「……え……?」
組織構成はよくわからないけれど、関東の有名組織の中の組と聞くと物凄い勢力な気がする。
「ということはけっこう大きな組織なんですか?」
「そうでもない。神代会の中でも吾妻組よりはでかい組が多い。吾妻組は上から……五番目ってところか」
「五番目……」
詳しく聞いてもやはりピンとは来ない。全体でいくつ組があるのかもわからないけれど、上から数えたほうが早いくらいならある程度の勢力はありそうだ。
「で、さっきのが吾妻組の事務所。若い構成員が常駐している。俺も基本的にはこの家か事務所にいる。なにかあった時は春子も顔を出すことになるかもしれない」
「は、はい」
――何か、ってなに?
やっぱり普通の生活とは違うのかと嫌な予感しかない。もし悪事や犯罪などに絡んでしまったらと考えると、お金どころではなかった。
「虎将さん。あの、この話はなかったことに……ってできませんか。まさか相手がヤクザだなんて思わなかったので……」
いまさら断ってどれほど怒られるか想像もつかない。だんだん怖くなり、言葉尻が弱まり俯いていた。
「……春子はそれでいいのか?」
「え?」
落ち着いた声で問われ、怒られなかったことに驚く。
「金が欲しいんじゃないのか」
言葉に詰まる。お金は喉から手が出るほど欲しい。でもだからといって、極道の妻のフリなんて春子にはできそうもない。
「そもそもどうしてそんなに金が欲しいんだ。見たところ無駄に着飾ってるわけでもないだろうに。ブランド品の収集癖でもあるのか?」
春子は笑いながら首を振る。
誰にも話していないことを虎将に話すのは躊躇われる。でもよく知らない他人だからこそ曝け出すこともできる。
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