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「……実は、借金があって」
「いくら?」
「……二千万円です」
「それは、けっこうな額だな」
「はい。闇金の取り立てがすごくて、一刻もはやく返したいんです」
「闇金にまで手を出したのか」
ゆっくり頷いた。滞納してからしばらく経過しているので毎日のように電話で催促がある。少しずつは返しているけれど安月給では利息を返すだけで精一杯の日々だった。
「それなら俺の婚約者のフリをするだけで一日二十万。四か月もあれば釣りが返ってくるほど稼げる。いい話だろう。普通に働いていても返せる金額じゃないぞ」
「……でも」
もう二度とこんなチャンスはない。でも極道の婚約者だなんて、どうなるかわからないし想像もつかない。
「具体的に何をすればいいんですか?」
「俺の婚約者として、しばらく隣にいてくれるだけでいい。俺の一番の目的は今日の見合いの回避だ。それも済んだ今、別れたということにしてもいいが、別れたとなればまた見合い話が来る。そういうわけにはいかないからしばらくはフリを続けてほしい」
「……ヤクザのお仕事を手伝ったりはできませんよ?」
「当たり前だろ、したいと言っても俺がさせない」
即答すると彼は立ち上がり、リビングから出て行く。すぐに戻って来た彼は封筒をテーブルに置いた。
「婚約者のフリをやめるにしても、もう少し稼いでからでもいいんじゃないか? ほら、今日の分の二十万」
派遣社員で働く春子にとっては月給よりも多い金額だ。それが一日で手に入るなんてこれほど条件はない。闇金に追われる日々を考えたら、極道の妻も似たようなものだ。四か月ほど我慢すればいいだけ。それなら相手が誰だとしても、乗らない手はない。
「でもこれ、悪いお金なのでは……」
ヤクザの持っているお金となると映画などの知識しかないが、人からお金を巻き上げたりしているイメージだ。これを受け取って春子自身もどこかで誰かを苦しませていたら嫌だ。
「まさか、俺が働いて稼いだ金だよ。もちろん合法的で正当な収入だ」
彼は自信満々に答える。まだすべてを信じきることはできないが春子のことを地味だとはっきり言うような男だ。嘘を吐いている可能性は低そうだ。
何より春子はお金が欲しい。
「……わかりました。よろしくお願いします」
「ありがとう。契約成立だな。……じゃあ」
虎将は春子ににじり寄る。距離を詰められると逆に春子は距離をとる。そうこうしているうちにソファから落ちそうになるまで追いやられていた。
「俺の婚約者らしく、もう少し色気が欲しいな」
色気については言い返すこともできない。お金がないので美容院もしかたなく半年に一回程度行くくらいだ。お金がかかるから髪は染めていなくて真っ黒。一つ結びが楽なのでここ数年はずっとセミロング。仕事ではスーツだし夜のバイトも着古された服。色気なんて言葉は程遠い。
だとしても今この状況で関係のない話だ。
太い腕が伸びてきて春子の腰を絡めとる。引き寄せられ、一気に距離が縮まる。すぐ近くで春子の目を見つめる鋭い瞳。
「な、なんですか?」
そういえば数時間前、彼とキスをしたんだった。怒涛の展開で忘れていたけれど、この距離にあの時のことを思い出す。一瞬ふれた唇はひどく優しく、ギャップに驚いた。またキスをされそうな距離に、自然と鼓動が鳴り始める。でも婚約者のフリをしているだけで、二人きりの時はする必要はない。あの時は婚約者だということを見せつけるためだけにしたのだとわかっている。その証拠に、こんなに近づいているのに唇はふれない。
ただ、そのかわりに――。
「なにしてるんですか!」
彼と見つめ合っている間にも、虎将の手は春子の着ている白いシャツに手がかかり、ボタンをひとつずつ外している。
「脱がしてるだけだ」
彼の手は止まらず、春子のシャツのボタンをすべて外してしまった。はだけさせると下着が見える。
「ちょっと……こういうことしないって」
「そんなこと誰が言った?」
――そういえば、言ってない。
「で、でも、ただ隣にいればいいって言ったじゃないですか!」
「隣にいるのもいろいろあるだろ」
そういうと虎将の強い力で軽々と体勢を変えられ、ソファに押し倒される。その瞬間、くらりと眩暈がした。いやこれは眩暈ではなく――。
「ほ、本当に待ってください」
弱々しく虎将の身体を押し返す。
「怖くなったか?」
「そうじゃなくて……とにかく、眠い……」
瞼が勝手に下りていく。そういえば、今日は仕事後すぐに眠るつもりだった。蓄積された眠気が一気に襲ってくる。
「え? おい」
戸惑う声が遠のいていく。そろそろ限界だったみたいだ。
ヤクザの婚約者のフリだなんて、とんでもない契約を引き受けてしまったのかもしれない。
でも今は、深いことを考えることもできないくらい睡魔に襲われていた。
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