02.二人の朝

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 部屋を出て玄関のほうへ向かう途中に洗面所がある。中へ入ると、またその広さに驚いた。大理石でできた大きな洗面台がなぜか二つ向き合う形で設置されている。鏡も大きく照明が煌々としているので自分の情けない姿がよく見えて、目をそらした。  中を見ようとバスルームに続くガラス戸を開け、息を飲む。 「バスルームもすごい……」  きれいなうえに、やたらと広い。この家はいったいどれほどの広さがあるのか。そもそも最上階のどこからどこまで家にしているのかも気になる。彼のことを知るたび春子の中のヤクザの常識が覆されていく。  全体的にデザインが凝っている。テレビもついているし、バスタブも大きい。ゆっくりくつろぐことができそうな空間に、今から入るのが楽しみだ。虎将はお湯を張ってくれているのですぐに入ることができる。  しかも脱衣所にはタオルや着替えまで用意してくれている。ここまで用意がいいと、もしかして女性が頻繁に泊まりに来ているのかと勘繰ってしまう。それはまさにヤクザのイメージだ。とはいえ婚約者のフリでしかない春子には関係ない。さっさと服を脱いで、バスルームに入った。  ボディソープやシャンプーなども、ちゃんと用意されている。虎将が使っているとは思えないのでやはり女性用なのだろう。怒られないかな、と思いつつ拝借した。自分の家では味わうことのない空間を、時間をかけて堪能した。  睡眠不足が解消された次は、思いもよらない癒しの時間を過ごしてしまった。  お風呂から上がる頃には、すっかり疲れも取れていた。鏡を見るとお風呂に入る前に見た自分とは違うくらいつやつやしていた。 「お風呂ありがとうございました。着替えまで用意していただいて……」 「ああ、サイズは大丈夫だったか」 「はい」 「朝食できてるから、ソファで待っとけ」  朝起きてから至れり尽くせりで戸惑う。昨日押し倒されたソファに座り、リビングからキッチンにいる虎将を眺める。  オシャレなアイランドキッチンに立っている虎将はどうも違和感が大きく、物珍しさにじっと見てしまう。そうこうしているうちに、テーブルにお皿がいくつか運ばれてくる。想像以上にきちんとした朝食だ。  ごはんにお味噌汁、サケの切り身にサラダ。 「おいしそう……これ虎将さんが作ったんですか?」 「まさか。下のコンビニで買ってきたものを温めただけだ。レトルトばかりで悪いな」 「いえ、用意してくれてありがとうございます」  ギャップのある彼でも、さすがに料理上手というわけではないみたいだ。にしてもレトルトやおかずのパックをそのまま出すのではなくお皿に盛っている几帳面さは意外な一面だ。  手を合わせて用意してくれた朝食を食べる。普段は貧乏飯を作るために自炊をしているため、コンビニのお惣菜すら久しぶりに口にする。子どもの頃に食べた時よりもおいしくなっていて感動していた。 「おいしいです……!」 「コンビニ飯でそんなに感動してる女、初めて見た。普段はどんな食事をしてるんだ?」  虎将は白米を頬張りながら笑った。 「モヤシ炒めとか、モヤシスープとか、たまごとかですね」 「……それ、栄養あんのか?」 「栄養よりお金ですよ」  安い材料でどれくらいお腹が膨れるか。おかげで料理の腕前は上がった。ただその腕を振るう場面がモヤシ炒めなのは悲しい。 「だからそんなに痩せて色気が……。春子はいくつだ?」 「……二十八ですけど?」 「そのわりには……」  虎将の視線がわざとらしく春子の身体を上下に舐め回すように見る。春子は咄嗟に自分の身体を手で隠した。 「セクハラですよ!」 「セクハラもなにも婚約者なんだからいいだろ」 「フリですから、フリ! 虎将さんこそ何歳なんですか!?」  見た目的には貫禄があるので年上だということはわかる。四十代ではないだろうな、というくらいだった。 「三十五だよ」 「……それは見えないです」  別にそこまで驚く年齢でもなかったが、仕返しのつもりだった。 「……わかってる」  むすっとしてしまった。意外と子どもっぽい部分があるんだなと笑いそうになるのを堪えた。 「と、虎将さんはいつも今みたいな食事なんですか?」 「まさか。今日は春子に合わせただけだ」 「……それは、ありがとうございます」  見た目とのギャップがある優しさに、不覚にもときめいてしまった。  その時、春子のスマホが鳴る。ちらりと表示を見て無視をした。それよりも今は久しぶりのちゃんとした食事を堪能したい。そもそも、出る気はなかった。 「さっきから鳴ってるが、出なくていいのか?」 「あ、ごめんなさい。切りますね」  スマホを手に取り、音だけではなく電源まで切った。今日は土曜日だというのに、いつも通りしつこい電話だ。 「誰からだ?」 「借金取りです。毎月少しずつ返してはいるんですけど全然足りないので、催促がすごくて」 「……そうか」  虎将は食事中だというのに立ち上がり、またすぐに戻ってくる。昨日と同じようにその手には茶封筒だ。 「今日の分、二十万。昨日のと合わせて四十万。あとで一緒に返しに行くか」 「え……?」 「一度にこれくらい渡せばしばらく黙るだろ。しつこい電話もやめろって俺が言ってやるよ」 「それは助かりますけど、いいんですか?」 「ああ。俺の妻だからな」 「……そうでした」  婚約者のフリといってもお見合い現場に顔を出した程度だ。今はまだ彼の婚約者のフリをしているという実感がない。 「それから、一緒に住むから春子の家は解約してくれ」 「え!?」 「借金もあるし、一緒に住んだほうが節約になるだろ」  確かにそれは一理ある。だとしても急に一緒に住むというのも抵抗がある。 「そうですけど、でも婚約者のフリは期限がありますよね。その時に帰る家がなくなっちゃいます」 「そうなった時には俺が手配してやるよ。どうせ今はろくな家に住んでないんだろ?」 「ええ、まあ……」  家賃優先に選んだ家なので、古くて狭い木造アパートに住んでいる。否定できないのが悔しい。  このまま彼に頼り続けていいのだろうかという葛藤はあるが、今までとこれからの苦労を考えると甘えたくなる。それに、一緒に住むなら春子のアパートは家賃の無駄だ。その分借金返済にもあてられるし、春子には利益しかない。一度引き受けてしまったのなら、とことん彼に身を任せたほうが得だ。狡猾な考えかと思うけれどヤクザ相手ならそれくらいずる賢くなければやっていられない気がする。 「ありがとうございます。しばらくお世話になります」 「そうと決まれば、食べたら出かけるか。なんて闇金だ?」 「ええと、ヒガシキャッシュサービスです」 「……そうか。わかった。それから春子の荷物も取りに行くか。すぐに必要なものもあるだろう」 「助かります」  そうと決まればやらなければいけないことが山ほどある。アパートの解約と引っ越し、急に忙しくなる。昼の仕事と夜のバイトの合間にできるかどうかだけが心配だ。
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