1人が本棚に入れています
本棚に追加
君の涙を飲み干したい
科挙に落ちたくらいで人生は終わらない。
瀞称徳(せいしょうとく)は、ため息をついてペラペラと本を虫干ししていた。
世界の理を知るのが好きだ。
だから勉強をたくさんした。それは様々な分野において興味があったからだ。けれど、高官になれるとか、偉ぶれるとかは全く興味がなかった。それどころか忙しくて勉強する時間もなくなると聞く。
試験当日となると、頭が真っ白になってしまうのはそういった潜在意識が知識を飛ばしてしまうのかもしれない。
もう一人の自分を御するのは難しいものだ、と思案していると薄い戸口から音がした。何かが落ちた音だろうか。
よっこらせと重い腰をあげて戸口へ向かうと人間……らしき者が横たわっていた。一瞬、畜生か何かかと勘違いするほどに、汚れてハエがたかっていた。
「おい……生きているのか」
触るのをためらったが、揺り動かしてみる。骨格の感じから女性であるようだが、瘦せているのでよく観察しないとわからない。
ひび割れた唇から、声が漏れた。
「水を……ください」
生きる意志はある。そうとわかれば、青年は台所の瓶から茶碗についで持ってきた。そして胴体を膝にのせて片腕で頭を支えた。ゆっくり口にそそいでやる。女性は水とわかると茶碗に飛びついた。そして飲み干すとむせてしまう。
「無茶するからだ。家にあがるといい。食べ物もわけてやろう」
あがるといっても動けないようだから、抱え上げて家の中に入っていった。
女性はとても軽く、今にも塵となって消えてしまいそうだった。
× × ×
重湯をつくってやり、ゆっくりと食べてもらう。不服かもしれないが、人間は断食後に一気に食べてしまうと体調が更に悪くなってしまうものだ。徐々に固形物に移してゆけばよい。説明をすると女性はうなづいた。
お湯で温めた布を渡してしばらく外に出て体を拭くのを待つ。髪もタライのお湯で洗ったようだ。黒く濁ったお湯を見て、布はそのまま捨てることにする。
汚れていてあまり気づかなかったが、女には無数の傷があった。どこかの奴隷だったのかもしれない。栄養不足になり使えなくなって捨てられたのか、それとも逃げてきたのか。
「しばらくここにいるといい」
女性はうなづいた。名前を尋ねると「クミン」とだけ言った。漢字はどう書くのか知らない。
それどころか言葉も片言であった。数日たって食べ物をちゃんと食せるようになった頃、出身を尋ねると
「今はもう滅んで無くなった」
と言った。少数部族なのかもしれない。興味がわいて地図を広げてやると、たぶんここの住んでいたという地域は山岳地方であった。人が住んでいるとは知らなかった。部族統一、みな仲間といわんばかり征服と支配を繰り返している。この女性もそういった被害者のひとりだ。
「クミン、言葉と漢字を覚えよう。そして、君は出身のことを誰にも話してはいけない」
「称徳はいいひとだから話したよ」
女性は、みんな痛めつけてきた。怖いと話した。だというのに、また人を信用して青年は彼女の警戒心のなさに呆れた。自分だからよかったものの、支配か逃れてきたのなら、役人に突きだす者もいるというのに。
「クミン、君は純粋すぎるよ。みんなそうだというなら君の部族が滅ぶのは仕方のないことかもしれない」
「……ひどい、仕方ないことない。なんでそんなこというの」
クミンが怒って、過去の惨劇を思い出したのか涙を一筋流した。何気なく見ていたのだが、なんとも強烈な甘い香りにクラクラしだした。
「な、なんだこの香りは」
自分の意識と乖離していく自制心。青年はクミンに近寄って手首を封じた。クミンが震えているというのに、嗅ぐのを止められない。理性が吹き飛んでしまうほどの引力。やめて、と叫んでいるのをどこか遠くで聞いていた。
頬の涙を舐めたいという衝動を抑えられない。顔を近づいて一粒舌で嘗めとると体中に電流が走ったかのような刺激を感じた。
脳天がしびれ、星が瞬いた。もっと、欲しいと電流と共に感じた。彼女の体を割って血の中にある涙を両手すくって飲み干したいと渇きを覚える。
そこまで、考えて青年は彼女の手をパッと放して、台所へ飛んでいき包丁で片方の手を差した。それでも、痛みと快楽が混ざっているので、次は太ももを両手で包丁をもって何度か刺した。致命傷にならないよう、筋肉繊維を外していく。
「なにしているの!!」
怖がっていたはずの彼女が包丁を抑える手を制した。彼女に危害が加わりすなので、柱に頭を打ち付ける。額が割れて生暖かい血が流れた。
「クミン、俺の手を紐でしばってくれ。そして紐の端を柱に固くつなぐんだ。包丁は君がもっておけ」
「なんで……」
「君はその理由を知っているんだろう。傷つけたくないから、俺のためにやってくれ」
「……ごめんなさい」
クミンは言われたように瀞称徳の両手を縛り、その紐を柱にしばりつけた。
そして壁によりかかり、包丁を持ったまま話し出した。
「私は涙飛翔族(るいひしょうぞく)の生き残りです」
「るいひしょうぞく……?」
聞いたことがない。知識を総動員しても何もひっかからなかった。世界には知らないことばかりだ。
「私たちの涙はまるで、甘美な美酒や阿片のようなこの世の辛いことを忘れることができるものです。その涙一滴で空を飛翔するかの如く。涙飛翔族の女だけがその涙を流すことができます。お金儲けできます、自分でも飲みたい、そう思う蛮族がたくさんやってきて女たちをさらっていきました」
「なるほど、先ほどの感覚は中毒性がある、自我を保てないほどだった」
瀞称徳はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「優しい人もみんな私たちの涙をみると豹変しました。閉じ込めて傷つけようとします。あなたもそうかもしれないと思いましたが、別に殺されてもいいかな、と思っていました。ここ数日は楽しかったです」
「まるで別れの挨拶のようだな」
「あなたもそうなってしまうのでしょう、そしてあなたはきっと後悔する人だと思いました。私がいない方が良いのです」
「……わかった。そこの棚に金子がある。持っていっていい」
「え……本当?」
「すぐ信じるんだな。両手はまだほどかないでくれ。自信はない。ひとつ、約束をしてほしんだ。俺の前以外ではもう泣かないでほしい」
「どうやって――」
「俺は今度の科挙を受かってみせる。君の涙を呑むためと考えたらきっと受かる気がする。そして、受かって役人になって君の部族を殺した王族らをつぶしてやる」
「復讐してくれるの」
「仇を討つ。そのとき君は笑って泣いてくれるだろう……だた、そのときまでは傍にいないでくれ。ここから10里ほど離れたところに、目の見えない老人が住んでいる。俺の師だ。老師に俺の紹介だと言っていい。すぐ迎えにいく、だから、それまでは生きていてほしい」
「わかった、約束ね」
クミンは、金子をもって家を出て行った。師のところに無事たどり着けるだろうか。俺は科挙を今度こそ受かるだろうか。彼女は泣かずにいてくれるだろうか。師に限ってないと思うが、理性を保っていられるだろうか。役人になって位をあげていけるだろうか。王族を殺すという大罪を犯せるだろうか。
瀞称徳はゆるく縛られた紐をいとも簡単に解いた。彼女はゆるくしばっていた。いつでも外せた。あの甘美な誘惑をすぐに飛びつかなかった自分なら、きっと彼女を迎えにいける。
瀞称徳は、彼女の嬉しき泣きを想像して、笑顔が漏れた。
× × ×
数年後、宮中にいた別派閥を先導する首謀者が王の首を跳ねたことで、天と地が一気に変わるのだった。参謀は後の政治にかかわることもなく、どこかの山へ消えていったという。
おわり。
最初のコメントを投稿しよう!