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はっと我に返ると、俺は机に伸ばしかけていた手を引っ込める。どこに伸ばしかけていたのかと視線を投じて、ぎくりとする。
「またか」
俺は独りごちて、深い溜息をつく。
高齢の医者の台詞が頭を過った。
「鬱病の症状とは違いますね。きっとあの出来事のショックで一時的にそうなっているだけで、元に戻るはずです。辛抱強くいきましょう」
鬱病と言われた方がましだった。薬なり何なり使って治療することもできたはずだからだ。
医者からカウンセリングを勧められたが、断った。あれは人前でべらべらと語っていい内容ではない。
俺は時計を見ると、手早く服を着替えて準備し、外へ出る。
走っていると、無駄な考えを振り払える。距離は長ければ長いほどいい。
宵闇が迫り、薄紅色の世界が広がりつつある中、俺は走りながら踏切の方へ向かった。
腕時計を確認すると、前回より10秒遅い。将来アスリートになりたいとか、そういう願望はないのだが、タイムは早い方がいい。
俺は軽く舌打ちし、見えてきた踏切の遮断機が降り始める前に向こう側へ行こうとしたが、一歩間に合わなかった。
溜息交じりに深く息を吐き、呼吸を整えながらその場で足踏みをする。
遮断機が上がったら即座に向こう側へ走るべく、睨みつけるように遮断機を見ていたら、ふと向こう側にいる一人の男が目についた。
年齢は俺と大して変わらず、二十代そこそこか、それとも十代後半ぐらいかもしれない。
容貌が芸術家が描いた絵のようにとてつもなく整っているせいで目についたのかと思ったが、そうではないことにすぐに思い当った。
切れ長の瞳は一見、意思が強そうに見えるが、実際は空虚で、何も映していない。
ぞくり、と鳥肌が立った。同時に過去の情景が浮かび、嫌な予感が津波のように勢いよく押し寄せる。
まずい。
予感が的中し、男が遮断機をくぐって線路の上に立った瞬間、俺は咄嗟に動いていた。自分でも信じられない速さで、線路上にいる男の腕を掴み、遮断機の外へと引っ張る。
間一髪。勢い余って二人揃ってアスファルトに倒れ込んだ時には、数秒前に二人がいた場所を電車が通過していった。
ジョギングしている時の比ではないぐらいに暴れる鼓動を感じながら、俺は男の様子を見ようと視線を向ける。男の瞳は相変わらず空虚で、何の感情も宿しておらず、鏡のようにただ俺を映しているだけだ。
ーーの目と重なり、恐怖が浮かんだが、俺は無理やり抑え込み、男を引き寄せ、強く抱き締める。
なぜそうしたのか、明確な理由がある。いや、理由というほど立派なものではないかもしれない。
「俺は柊真。君は?」
「………」
「名乗りたくないなら、無理には聞かない。帰りたくないなら、俺のところに来ないか?」
男は一言も言葉を発しなかったが、身を離して立ち上がると、俺の後をついて来た。
これからどうしよう、などという不安はなかった。ただ、使命感ばかりが働き、男の今後に少しでも光があればいい、と願いを込めて空を見上げる。
そこには、これから始まる長い夜の訪れを告げる、群青色の空が少しずつ広がり始めていた。
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