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休日の昼下がり、ネネは雑居ビルの3階に訪れていた。築40年はかたいコンクリ張りのボロビルで昼間なのにどこか薄暗い廊下を奥へと歩く。
(指定場所がめちゃくちゃ気味悪い……帰った方がいいんじゃ……)
ネネのツラ貸せメッセに元気にオッケーと返してきたモガミは、この人がまるでいない雑居ビルでの会合を指定した。あの時は怒りで軽率にメッセしてしまったが、この薄暗い場所で危機感が急上昇だ。
(そういえば相手はネトストだった……やっぱりあぶない!帰ろう!)
ネネが一歩踵を返そうとすると、廊下の一番奥の扉が開きガランガランとベルの音が鳴った。ベルの音と共に現れた白いエプロンをつけた老紳士が、ネネに向かって丁寧にお辞儀をする。口ひげが素敵な品の良い老紳士に釣られてネネも会釈した。
「ネネ様ですね。お待ちしておりました。モガミ様より丁重におもてなしするよう伺っております。どうぞこちらへ」
(に、逃げられない……)
丁寧に対応されるといや帰りますんで!と言い出せないネネは、老紳士に導かれて扉をくぐった。
(あれ、意外と綺麗でいい雰囲気!)
扉の中は雑居ビルの粗雑な古さとは違い、きちんとリノベーションされたモダンな純喫茶だった。ワックスのきいたツルツルの木の床が光り、コーヒーの香ばしい香りに満ちた室内は、小さくジャズが流れて気品がある。
滑らかなベルベット生地の赤い二人掛けソファ席に案内されたネネは、上品な隠れ家喫茶にテンション上がってしまう。
(店選びのセンス疑うと思っていたけど、意外に良い趣味だなモガミ……!)
他の客が誰もいない店内で、老紳士がこだわりのコーヒーについてゆっくり語ってくれた。丁寧にもてなされ、中深煎りコーヒーに舌つづみを打っていると、ガランガランと扉のベルが鳴った。
帽子を目深にかぶり、サングラスをかけた背の高い男が入店した。足が股下何メートルあるんだ?と思わされるほどスタイルがよく、綺麗めカジュアルを難なく着こなしている。男はカウンターに顔を向けて明るい声を発した。
「やっほー和田。僕、ケーキねケーキ」
「かしこまりました、坊ちゃま」
「いい加減、坊ちゃまはやめーい」
(常連さんかな?モガミではなさそう)
老紳士マスターに軽く手を上げて、明るい声を響かせる彼はモガミではないだろう。もっと小太りで脂っぽい顔をしている予想だ。
だが予想に反して、股下何メートル男が、ネネの前の赤いソファにどかっと大股を広げて座った。全く遠慮がない。
「お待たせ、ネネ。初めましてモガミでっす。ここちょっと暗かったでしょ?大丈夫だった?」
「え?あなたが……モガミさん?」
まさかモガミのイメージとは結び付かないスタイル抜群な彼がネネに声をかけてきた。ネネは目の前の男をじっくり観察する。
どんなヒョロオタ根暗野郎かと思っていたら、ずっとガタイが良い男でビビる。背が高いのにひょろってるわけではなく、滑らかに筋肉質だ。だが、帽子にサングラスで不審者感が強い。
ネネは社会人らしく、きちんと挨拶して頭を下げた。ネット上で失礼千万を繰り返す奴に失礼だと思われたくない。
「はじめまして、モガミさん。いつもスパチャありがとうございます」
「全然いいよ、いっぱい可愛いネネが見れて僕も助かる」
老紳士マスターがクリームソーダとケーキを運んできた。モガミはクリームソーダにストローを突っ込んで吸い始める。純喫茶でクリームソーダ良いなとネネが逸れた思考を戻して、ネネは本題を告げ……ようとした。
だが、次の瞬間モガミが颯爽とサングラスを外したので、ネネが出そうと思った言葉は消えてしまった。
「ふぇ?!シンタケ?!」
「あ、僕のこと知ってるー?話はやーい!」
クリームソーダを長いスプーンでぐるぐる回しているモガミは、ネネを見て大きな口でにっかり笑った。モガミの顔は絶え間なくテレビの中で見る国民的人気芸人の顔だった。
シンタケは、イケメン過ぎるご尊顔芸人と言われつつも、実力派漫才師である。その確かな笑いの力量は日本国民みんなの知るところだ。バラエティー番組にCM、ネタ番組と彼をテレビで見ない日はない。
「うっそ……モガミって……最上シンの、モガミ?」
ネネは口元を押さえてカッコイイ!がとびでないようにするのに必死だった。ご尊顔芸人の名はダテじゃない。
(えぇえええ?!!ウソでしょ?!マジでかっこいい!マジでかっこいい!顔が天才過ぎる!)
完璧なシンメトリーで配置された目鼻口に通った鼻筋に薄い唇。口角は自信ありげに常に上がって溌剌で明るい表情から芸能人の華やかなオーラが眩しくて一瞬で己のちっぽけな存在が弾け飛んだ気がした。が、ギリギリ生きてる。
「ネネが僕のフルネーム知っててくれて嬉しい!」
シンが無邪気な声を上げる。
(爽やかな笑顔がかっこいいのに、可愛いと思わされるマジックがすごいんだけど!なにこの人、顔がすごい強い!てか、モガミってハンドルネームの意味ないけど?!)
シンタケは実力派芸人だが、顔も超実力派だ。ネネはまだ目の前に座る男がモガミだと信じられなかった。
あまりの美貌に固まるネネに老紳士マスターが注文していないネネの分のケーキを運んでくる。シンが素顔でありがとうと言うと、マスターは目配せして辞した。
(え、何?この顔見て驚かないってことは常連?あ、もしかしてこの店って今、貸し切り?!そんなことあるんだ?!)
あまりに人がいない店だと思ったが、古い雑居ビルの奥なので、そんなものかで済ましていた。だが、芸能人の御用達、隠れ純喫茶なのだ。妙に奥まっている理由も納得した。
(貸し切りとか一体いくらかかるの?!え、芸能人すごいって、違う!)
ついミーハー心に流されまくったネネは頭を振った。
(いやいやでもいくら人気芸人だったとしても、コメント欄を赤スパチャで荒らしして良い理由にはならない!)
ネネが気を取り直して口を開こうとした。
「あ、あの……っ」
だが、シンは言葉を遮り一歩その先を行った。完全に美しい唇が魅了の声を紡ぐ。
「好き」
「ふぇ?」
完璧なシンメトリーの瞳がうっとり熱を帯びた視線でネネを絡めとる。シンは己の美しさを明確に武器として振りかざす。
「知ってると思うけど、僕、ネネのこと前からずっとずっと大好き」
(顔面がジーザス!!)
きゅるんと顔面キラキラ圧をかけるシンが眩しすぎて、ネネはまた自分の存在が消し飛んだかと思った。だが、まだ生存していた。セーフ!
しかし甘い台詞まで受け取ってときめけるほどのキャパがない。顔面に耐えるのが精一杯だ。顔面が最強。だが、ネネはやっと彼がモガミであることに合点がいった。
(顔面が奇想天外な美々しさで忘れそうになったけど、モガミはモガミ!)
いきなりが過ぎる告白、文句を言いに来たネネより先に自分の要件を告げる空気を読まない暴走列車なみのスピードなところが、確かにネネの知っているモガミだ。
「彼氏にしてくれない?」
彼の職業を知って、あのスパチャ課金地獄が継続できる意味も理解した。しかしネネは彼の告白を受けに来たわけではない。お綺麗な顔と芸能人の金ピカオーラに負けじとネネは気丈に振舞う。顔でなんでも通ると思うなよ!
「わ、私はそんな話をしに来たんじゃないです!」
目の前にするとどうしても顔面が強いシンにひるむが、ネネは目的を見失わない。スパチャ荒らしはやめてと言いに来たのだ。
つい声が大きくなってしまい、ネネは老紳士マスターの視線を感じた。ネネが動揺するのを見て、シンはにんまり笑う。
「ワタワタしてるのも可愛い」
(シンタケ最上の実物の口からカワイイとか鼓膜が破裂する!!)
カッと耳が熱くなったネネは、両耳を両手で擦り擦り、ちゃんと耳がついていることを確認せねばいけなかった。
「でも僕は最初からそんな話をしに来たんだよ。だってこんなの大チャンス過ぎるでしょ?!
告白し続けた大好きなネネにお茶に誘ってもらえるなんて!」
キャッキャ無邪気に喜んで高い声を上げるシンのまっすぐな言葉に、ネネは目をしぱたいた。
彼は日本中が知っている大人気芸人だ。カースト制で言えばトップに立つ人間なのに、ネネのような底辺配信者を純粋に推してくれる彼は悪い人ではないのかもしれない。推してもらえるのは純粋に嬉しい。ただ限度があるだけで。
「推してもらえるのは……ありがたいんですけど」
「は?」
「え」
「僕、ネネのこと推してるとか言った?」
完全に推してもらっていると思っていたネネは、綺麗な顔を美しく歪ませて笑うシンに視線を奪われる。
「え、違うんですか?」
シンは立ち上がり、ゆっくりと長い脚を動かしてネネの隣に座り直した。隣に大きな体が座って、熱すら感じるほど近い。
「僕、ネネを推してるわけじゃないよ。僕は、ネネが誰と比べるまでもなく特別に大好きなだけ」
息のかかりそうな距離で美の化身であるシンを前にして、ネネはなぜか背筋に冷たいものを感じた。美し過ぎて寒いなんて初めての感覚だ。シンの声が低く妖艶に響く。
「自分の生活の範囲内で?できる範囲で?心身込めて愛でる『推し』?
そんな自己保全万端で、事故る勢いすらない安全圏の好き、が推しの限界でしょ?
僕はそんなもので済まさないよ。
推しなんて言葉で片づけないで?」
暗に逃がさないよと聞こえてしまって、ネネはゴクリと唾を飲んだ。美しい人の圧は怖いと学んだ。この美しき獣の前におめおめ姿を晒したのは、恥の多いネネ史上最大の愚行だった。直談判だ!なんてのは、浅はかな考えだったのだ。
「大事にするから、僕のこと彼氏にして?はい、チーズ」
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