第十話 昭和五十六年「黄昏」

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 しかしながら、十数秒の沈黙ののち、その声を押しのけるように良太郎の脳裏に浮かんだ言葉は、こうだ。  それは良太郎にとって意外なものでしかなかった。 ――ここは、満州でもないし、戦時中でもない。そもそもいまは、そういう時代ではない。そして……。  良太郎は、頭に浮かんだ思わぬ感情をぎりぎりと噛み締める。 ――そして、こいつは、馨じゃない。ましてや、邦正でもない。なにも知らない、ただの子どもなんだ。  途端にがくり、と強張っていた肩から力が抜けた。  そうして、一旦そう感じてしまえば、良太郎に出来たのは、荒ぶる報復の念をうやむやにすべく、大きく息を吐いたのち、こう亜紀に声をかけることだけだったのだ。 「……まだ起きてたのかよ。さっさと寝ろ。明日は早いぞ」 「……へ?」 「いつまでもここにお前を置いておくわけにはいかないんだよ。だから働き口を紹介してやる。たしか取引先の出版社が雑用係を探していたはずだ。寮もあるとのことだったし。わかったな?」  良太郎はそう亜紀に語を投げつけると、ぴしゃり、と荒々しい仕草で間仕切りを閉じた。  胸を駆け巡る、数多のどす暗い逡巡を断ち切るかのように。  ――結局この好機になにも出来ないのか、俺は。まったくもって、男じゃねえな。  再び床に転がり、タオルケットを身体にかけながら良太郎は独り言つ。  ――まあいい。亜紀を手中にしておくのは邦正への牽制になる。人質として扱うなら、こうしておくのも手だろうよ。  そう思ってみても胸中はなおも、激しくざわめく。だが、良太郎は目を閉じた。いろいろなことがあり過ぎた今日を早く終わらせてしまいたい、そんな気持ちになっていたから。  久々に馨の顔が瞼の裏に浮かぶ。いつも通り、優しく笑いかけてなどは、くれなかったが。  その翌日、さっそく亜紀を連れて、取引先に厄介払いしようとしてみれば、ちょうど猫の手も借りたかったんですよ、それも佐々木さんの紹介なら間違いないし、と意外な程喜ばれた。  さらに意外なことに、亜紀は働かせてみればなかなかに有能で、東京の暮らしに、あっさりと慣れてしまった。  そしてそれから早くも、五年の月日が流れ去ろうとしている。
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