序章 大正十五年(昭和元年)「夏、梨畑にて」

3/4
前へ
/136ページ
次へ
 男の足元にいまだへたり込んだままの良太郎の鼻腔は、狂わしいほどにあまい芳香に擽られた。そしてそれがより強さを増す。男が、いまや丸裸にされた梨の実を、良太郎の鼻先に差しだしたのであった。良太郎はなにも言わず、それを受け取った。そして、口に運ぶ。  途端に果汁がじゅわっ、と口内を満たす。  それはそれまで食べてきたどの梨とも異なる、極上の味わいだった。気が付けば、良太郎は無我夢中で男が与えた梨に食らいついていた。唇からしたたり落ちる汁を拭いもせずに。  夏のひかりのもと、男は、そんな良太郎を満足そうに見つめながら語を紡ぐ。 「美味いだろう。その長十郎はな、贈答用なんだ。この畑のなかでも特別な梨だ。いわば、特別な誰のために作られた梨だ」  良太郎はそのときには梨を咀嚼するのに夢中で、男の言葉を脳内で反芻する余裕は失われていた。だけれど、直後、噛んで含めるように、こう自分に向かって言い放ったのは良太郎の記憶に深く刻まれた。 「誰かの特別を奪うということは、とてつもなく美味しいことなのだよ。だがしかし、それは本来、力ある者にしか味わえない味覚なのだがな。つまり、いまのお前には身に余る贅沢だ」  蝉の鳴き声が聞こえる。陽のひかりはなおも梨畑に降り注ぐ。  良太郎が梨の種を地面に吐き出したのを見計らって、ようやく着物の乱れを直し終えた母が良太郎の手を引く。  そうして梨畑を去ろうとした良太郎の背中を叩いた言葉もまた、忘れがたいものだった。 「良太郎。悔しいなら、強くなることだ」  良太郎は梨畑のなかを進む足を止めて、男の方を振り返る。  今度は男の表情がはっきり見えた。やはり、笑顔だった。しかし意外なことに、想像していた顔と違い、そのときの笑みはだいぶん柔和に良太郎には思えた。  自分を叱咤激励しているようにさえ感じた。
/136ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加