二十七話 無名の小説家①

1/1
96人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ

二十七話 無名の小説家①

 悪樓の屋敷に戻ると、八重が風呂を沸かし、妙子が布団を敷いてくれていた。彼女の話によると、小嶌神楽が行われた夜は、決まって悪樓が夜分遅くに出て行くという。  なにがあるのかと、美雨が妙子に尋ねてみると『きっと、今夜に限っては美雨様との婚礼の準備でしょう』と笑って答えられた。  一般的に中学生くらいの女の子が、夜の大人の行動を、把握している方が珍しいと思うが、なんとなく美雨は彼女にはぐらかされたような気がする。 「美雨様。お茶か、お冷が必要になりましたら、お婆ちゃんか、私を呼んで下さいね」 「ありがとう、妙子ちゃん。でも、もう二一時になったら、私のことは気にせず休んでくれていいからね」  お嬢様のような扱いをされるのに、まったく慣れていない美雨は、あまり遅い時間まで彼女に働いて貰うのが申し訳なくて、そう伝えた。蛇口さえひねれば、綺麗な水は出てくるのだから、自分一人でなんとかなる。美雨の労いの言葉に彼女は少しはにかんだように可愛らしく微笑むと、畳に三つ指をついて、深々と頭を下げた。 「悪樓さん、今日は帰ってこないのかな」  寝る時には一緒に居て欲しい、なんてまるで子供のようだと美雨は思う。  けれど長身の悪樓に寄り添って布団に入ると、彼の体はひんやりとしているのに、心から安心して眠れる。悪樓のゆっくりとした心音は、海の中にいるようで、いつまでも聞いていたくなる。  出来れば早く帰ってきて欲しい、美雨はそんなことを考えながら『水底から君に愛をこめて花束を』という、小説のページを改めて開いた。作者は萩原薫(はぎわらかおる)という人で、文体は少しばかり小難しい。 「大正時代の人なんだ。冒頭を読むと、やっぱりこの島のことみたい」  冒頭は、とある島の伝承から始まる。  岡山県南部に、瀬戸内海に面して吉備の穴海と呼ばれていた場所があった。そこは幻の海と言われ、本土とその当時の児島半島を繋ぐ朝海だった。今はもう干拓地になっていて、その辺りは岡山平野と呼ばれている。 『昔々、この吉備の穴海に恐ろしい怪魚が住んでいた。それは悪樓(あくる)と呼ばれ、人々から恐れられていた。私も、そのような我が国の伝説を、面白おかしく研究していた身であるが、思うに悪樓に関しては東夷(あずまえびす)のような、先住民の王族だったように思う。日本書紀では、皇族の日本武命(ヤマトタケルノミコト)熊襲征伐(くまそとうばつ)の帰りに悪樓と戦ったと書かれていた。つまり彼は、おそらく最後まで大和朝廷に逆らった者で、八百万の神には仲間入りを拒まれた『(まつ)ろわぬ神』なのだ。そしていつのまにか、悪神と恐れられる存在として伝えられたのだ』  その文面を目で追うと、美雨は心臓が高鳴っていくのを感じた。出てくる言葉は難しいけれど、簡単にいえば、悪樓は時の政府と皇族に逆らった、この地に住んでいた王族だと言うことになる。  最後まで大和朝廷に屈しなかった悪樓は、神社で祀られず、祟り神や悪神だと言われて、恐れられてしまうようになった。それとも、日本書紀に記されたように、彼は本当は船を飲み込む恐ろしい魔物だったのだろうか。 「悪樓さんと同じ名前なんて、絶対偶然じゃないよね。悪樓さんは本当は神様……なの? でも、悪い神様なんかじゃない。だって、あんなに優しいもの」  そう呟き、萩原薫の著書を読み続ける。この主人公の『私』は、どうも彼自身のようにも思える。  リアリティのある部分を含めて、自伝のようにも読めたが、本当のところは分からない。  この物語に登場する『私』は汽船(きせん)で彼岸入りをする日に、岡山方面を旅していて酷い嵐にあった。そして彼が目を覚ますと、不思議な島に流れ着いていたようだ。  その島はかつては地図に存在し、今は消えてしまった幻の島。自然豊かでどこか現実離れしていて、まるで神々が住むような美しい場所。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!