スイミングクラブ

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「何だ、あれ?」  郡上耕平は土曜の昼下がり、人気のないプールサイドのデッキチェアーで寛いでいた。  プールに目をやると、プカプカと泳いでいるのか、浮いているのかわからない奇妙な動きをしている物体がある。しばらくすると、プールサイドから上がってきたヒトらしきものが耕平の方にゆっくりと近づいてきた。遠目からもそれは老人にみえた。近くで見ると年齢は七十代後半と思われる男性だった。  しかし、耕平はその姿をみて一瞬、身構えてしまった。 「変な泳ぎ方だった? 股関節痛めているから、あんな泳ぎ方しかできないんだよ」  耕平が黙っていると老人は不気味な笑みを浮かべながら、いきなり耕平に話し掛けてきた。  顔を見ると右目が少し不自然な感じがする。右目が仮面ライダーの目のような複眼なのだ。手を見ると左手の薬指と小指の第一関節から先がなかった。耕平は一瞬、見てはいけない物を見てしまったと思って目を逸らせたが、すでに遅かった。これは、意外とヤバイ類の人かもしれない。  老人は耕平の前で、手を翳しながら話し始めた。 「あっ、これ? 左手の指先は米軍の弾で吹っ飛ばされちゃったんだよ。右目には今も弾の破片が入っているから全然、見えていないんだ」  それが、三宅隆さんと交わした初めての会話だった。  耕平は近所のショッピングセンターで買物した帰り、ショッピングセンターの敷地内にある会員制スイミングクラブを冷やかし半分に覗いてみた。  耕平はその時ロクに考えもせず、受付でスイミングクラブへの入会を決めてしまった。それどころか、入会した勢いで前々から欲しかったマウンテンバイクまで購入してしまった。今思うと相当、ストレスが溜まっていたのだろう。仕事を終えると、愛車を漕いでスイミングクラブに行くのが耕平の新たな日課になった。地方のスイミングクラブは都会のスイミングクラブと違って、何時行っても空いているのもありがたかった。  その後、耕平はスイミングクラブで、三宅さんと頻繁に顔を合わせるようになった。  子供の頃、耕平は国鉄の駅で白装束にアコーディオンを持った傷痍軍人を何度か見掛けたことがある。傷痍軍人は片方の足がなかったり、目がみえなかったりして、子供心にとても怖かった印象がある。そういう時、耕平は親からお金を貰って、御座の上にあった募金箱に小銭を入れた覚えがある。しかし、耕平は実際に戦争に行った人と話をしたことは、今まで一度もなかった。  耕平は三宅さんとスイミングクラブで顔を合わせるうち時折、ロッカールームで立ち話をするようになった。 「戦争中、ラバウル航空隊の玉砕部隊に所属していたんだ。昭和十九年、台湾の基地から飛び立った際、搭乗した一式陸攻がエンジントラブルで一機だけ編隊から遅れてね。普通は編隊を組んでいると攻撃されるようなことはないんだけど、敵のグラマン戦闘機に狙い撃ちされた。それで、南シナ海に不時着したんだよ。僕は重傷を負って漂流していたんだけど、やがて仲間とも離れ離れになった。数日たって味方の護衛艦に偶然発見された時、助かったのは僕含めて八人中二人だけだった。僕は瀕死の重傷を負っていて動けなかったけど、元気な者は泳ぎ回ったために体力を消耗して死んじゃったよ。でも、人生なんて皮肉なもんだね。元気な者が死んで、瀕死だった僕が生き残ったんだから。でも、助かったと言っても作戦途中でしょ。だから、深い傷を負って痛がっていても暴れないように甲板に縛り付けられて、ロクに治療なんかしてくれないんだよ。ひどい話だろ? 高雄の港に着くまで、もうたいへんだったんだから」  この手の話は映画やドラマだけのことだけと信じ切っていたが、三宅さんはお笑い芸人が話す自虐ネタのように、身振り手振りを交え冗談半分で話した。  耕平は「それ、マジで受けるんですけど」と心の中で軽いツッコミを入れていた。 「今じゃ、病院に通いながらこのスイミングクラブでリハビリをしているというわけ。僕は産婦人科と小児科以外、全部掛かったことがあるから医者や看護師たちからは、〝病気のデパート〟なんて毎回、陰口叩かれているらしいけどね」  三宅さんはイタい話も軽妙なジョークに変え、耕平の気持ちをいつも和ませてくれた。  耕平はここに来て、本格的に水泳に打ち込むようになった。夜9時過ぎに行くと、25メートルプールがほぼ貸し切り状態になることがある。以前は50メートル泳ぐのが精一杯だったのが毎週、通ううちに泳げる距離が少しづつ伸びていくのが嬉しかった。  耕平が「職務経験者採用募集」の広告を新聞で目にしたのは、まったくの偶然だった。広告の発信元は北陸の小京都として名高い百万石市役所だった。  耕平は昨年末に政府系コンサルタント会社を辞め、独立開業の準備を進めていた。耕平はコンサルタント時代、同県でショッピングセンターを開発するプロジェクトに携わったことがあった。百万石市には出張で何度も行ったことがあるから満更、縁がない訳でもなかった。募集要項では耕平が持つ国家資格が受験のための必要要件だった。しかし、一般的に地方公務員は現地採用が原則かつ有利である。首都圏から地方公務員試験を受験して、合格したという話は聞いたことがない。  ただ、好奇心旺盛な耕平は「案外、商業コンサルタントとしてのキャリアが生かせるかもしれない」と軽い気持ちで願書を送ったら、難なく受験できる運びとなった。正直、三十八歳という年齢で公務員試験を受けられたこと自体驚いたが、耕平は筆記試験、二次の面接試験ともあっさり合格してしまった。世間では「ノストラダムスの大予言」で七月に人類が滅亡すると大騒ぎされた、1999年、耕平は奇しくも百万石市の職員として採用された。  三月末、耕平は地縁、血縁関係一切ない地でひとり、新生活を始めることになった。  賃貸マンションから市役所まではバスを使えば二十分、二つある大型スーパーにも歩いて十五分ほどで行くことができる。大急ぎで決めた割にはロケーションとしてはまずまずだった。百万石市は中心部に大きな川が二本流れている。散歩で川沿いを歩けるのも気分転換になった。遊歩道に出ると川の音に癒され、橋の上からは雄大な白山連峰が望めた。しばし、都会の喧騒を忘れ、心が洗われる気がした。  百万石市は文化資源や歴史的建造物が多い。京都と同じで空襲被害に遭っていない数少ない街である。そのためか、街を歩いていると時々、昭和の時代にタイムスリップしたような感覚が楽しかった。耕平がここに来て初めて感じたことは、人々の歩くスピードが都会に比べゆったりしていることだった。路地裏から、たまに三味線の音色が聞こえてくるのも風流で新鮮な気分がした。  入庁式では、市長から辞令が交付された。  六十代後半と思われる市長が一人ひとり、名前を読み上げる。 「郡上耕平!」 「はい!」  耕平は中途採用だが、新入職員と変わらぬ大きな声で返事をした。  市長は訓示でこう述べた。 「当市には市役所一家という言葉があります。市職員は皆、同じ屋根の下に住む家族と同じです。そのため、どんな時も互いに力を出し合い、喜びも苦しみも共有することができます。これが当市の一番良いところです」  耕平が配属されたのは希望通り、商業振興課だった。  しかし、仕事では最初からアウェイ感覚満載だった。サッカーに例えると、同じチームなのに、自分だけに絶対にパスが回ってこないような感じだった。  朝、課の女性臨時職員に「おはようございます」と挨拶しても、ロクに返事も返ってこなかった。今時、始業前にラジオ体操があるのも不可解だった。百万石市は江戸時代、譜代ではなく外様大名のためお家潰しのため、徳川家から散々挑発された藩である。そのためか、百万石市は身内とよそ者を露骨に差別する慣習が現代でも根強く残っていた。 「コイツ、いい歳こいて、いったい何の目的でウチの市役所に入庁して来たわけ?」 「俺たちは生まれてこの方、この街を離れたことなんかないんだよ。よそ者のあんたに何ができるの?」  周囲からそんな色眼鏡で見られ好奇心に晒される日々に、耕平は自分があたかもスパイのように扱われているように感じた。  課長は藤井真一という五十歳前後の目つきが妙に嫌らしい男だった。課長補佐は工業高校出身の見た目はヤクザと変わらない、ガラの悪い四十代半ばの永田康志だった。  入庁早々、郊外で出店する大型店出店説明会があった。耕平は担当者として会議に出席することになった。こういう場合、上司が担当者とともに会議に出席するのは、役所の慣例である。耕平は永田に会議の件を話した。 「来週、N町で大型店の出店説明会があります。補佐も会議に御同行していただけますよね?」  しかし、永田は曖昧に口を濁しただけだった。  連れて行っても頼りにならないとは思ったが、重大な案件だけに耕平は上司を立て話をした。ところが、永田は当日になって別件があるからと言って姿を現さなかったので結局、耕平一人で行く羽目になった。ありえない先制攻撃、あるいは仕打ちだった。  仕事を何人かで担当させるのは後々、トラブルにならないため都合の良い役所のルールだが、これを耕平は最初から無視された。耕平は一応反論したが、「お前は、プロの商業コンサルタントなんだから一人で十分だろう」など、もっともらしい理屈を付けられ、耕平の言い分は一方的に退けられた。  一方で課内の重要な会議には耕平を外し、敢えて出席させようとしなかった。事前に十分に情報が入らないため、耕平は仕事に支障を来すことが多々あった。  ある日、耕平は課長の藤井から突然、言われた。 「お前、たしか前職は商業コンサルタントだったんだろ? だったらウチの市の中心市街地に関する診断書を書いてみろ!」  単なる嫌がらせなのか、あるいは人を試そうとしているのかわからないが、まるで思い付きのようなレポート提出の命令である。  耕平は断る術もなく、土日返上で自宅でレポートを書き上げた。二週間後、「レポート書き上げましたので一度読んでいただけますか?」と提出した。ところが、藤井は耕平のレポートを一瞥するやいなや、そこら辺にぶん投げてしまった。耕平が苦労して書き上げたレポートは課内で回覧されるどころか誰に読まれることもなく、あっけなくゴミ箱行きになった。  地方都市では中途採用者は概ね、「前の会社で大きな失敗した」とか「不景気でリストラされた」といった根も葉もない噂を立てられたり、良くない先入観で見られることが多い。  それでも元々、地元の人間ならそれほど敵対視されることもないが、耕平のような完全なよそ者は最初から共通の敵と見なされる。表向きは「民間企業の豊富な経験を役所で生かしてほしい」と言いながら、裏では外部から来た人間を絶対に表舞台に出さないよう足を引っ張っている。耕平は初っ端から大きな壁に当たった気がした。生え抜き職員だけでルーティンワークを回し合って成り立つような職場で、耕平のようなよそ者はむしろ招かれざる客だった。  また、商業振興課には金融機関を定年退職後、嘱託で来ているジイサンが二人いた。その内の一人の山田さんは本当に傑作な人だった。電話が掛かってくる度に昔、自分が勤めていた金融機関の名前を繰り返している。 「はい。〇×金融公庫です」 「山田さん、違うって。ここは百万石市役所でしょ」 「ああ、そうだった。百万石市役所です」  だいたい一日中、こんな感じである。ふと気が付くと、山田さんは一心不乱に雑巾で机を拭いている。あるいは消しゴムで机の上の汚れを消している。 「ひょっとして、このジイサン・・・・・・認知症じゃ・・・・・・」  耕平は暇な時、山田さんに「今年って、西暦で言えば何年でしたっけ?」とか、なぞなぞやクイズを出し合ったりして遊んだ。  隣の課の課長補佐は、いつも熱心にパソコンの画面を見ている仕事熱心の男だった。ある時、耕平がさり気なく画面を見るとそれはゲームのソリティアだった。パソコンが普及してネットサーフィンなどは当たり前になっていた。しかし、民間企業のようにノルマなどなく予算を使い切るしか能のない公務員はどう考えても多忙なはずなどないのだ。耕平はここでしか見られないような数々のシーンを役所内でたくさん見ることができた。  そんな耕平を、さらに奈落の底に叩き落すような出来事があった。  耕平は市役所試験を中小企業診断士という資格要件で受験した。しかも、そもそも資格がなければ試験さえ受けられなかった。市役所には耕平以外に自称、中小企業診断士が7人もいた。しかし、これが皆が皆、試験で資格を取得した者ではなかった。耕平は仕事をしながら資格の勉強を続け最後は会社まで辞めてやっと取得したが、彼らは全員、中小企業大学校経由の無試験資格取得組だった。厳密に言うと、個人でも大学校経由で資格を取得することはできるが、会社を辞めて数百万円の受講料を払って一年間通学しなければならない。    そんなリスクは普通の会社員は取れないから皆、試験での取得を目指す。入庁した初めて知ったことだが、世の中にはこんな不公平なことがあるのかと思った。彼らは給与をもらいながら、一年間大学校に派遣され数百万円の費用も全額市役所が負担している。しかし、周りは全員無試験組なので、怒りのぶつけどころも矛先もなかった。これは「公務員無試験資格取得制度」といって中小企業診断士だけでなく税理士や司法書士などにもあるが、耕平には不愉快極まりない話だった。  何よりも無試験で資格を取得した者には有資格者相応の実力が伴っていなかった。はっきり言って、中小企業診断士を名乗って欲しくないと思った。耕平は元々、大型ショッピングセンターの開発などスケールの大きな仕事ばかり手掛けてきたが、市役所の仕事ときたら、ショボい商店街活性化の仕事ばかりで耕平のキャリアも生かせないうえ、テンションも一向に上がらなかった。耕平は仕事へのモチベーションを維持することができなかった。  そんなある日、久々に朗報があった。  耕平はあるNPO法人から、中心商店街活性化フォーラムのパネラーの要請を受けた。依頼元は県の中小企業同好会で、商業コンサルタントとして耕平の経験と実績を買ってくれたのだった。耕平に白羽の矢を立てたのは最近、独立したばかりの遠山さんという中小企業診断士で、耕平も同友会の支部で何度か顔を合わせたことがある。  こういう場合、パネラーとして出席してよいか否か一応、課長の判断を仰ぐことになっている。フォーラムの開催は三月で、まだ先の話だったが一応問題ないということで、耕平はパネラーの依頼を受けることにした。  ところが、早々そのことに茶々を入れてくる人物が現れた。耕平と同じ課の人間で、今は市が出資する街づくり会社に出向している坪内というネチネチした話し方をする厭らしい男だった。 「こういった中心市街地活性化フォーラムのパネリストは、順番から言うと郡上さんじゃなくて、馬場さんでしょ?」  馬場は耕平より二歳年下だが、係長である。しかし、先方はわざわざ耕平を指名してきている。それを敢えて断れというのだろうか。耕平のような外部の人間は市役所の職員にとって共通の敵なので、手柄や実績を立てさせないようそれとなく妨害してくる。しかし、開催の日が近づき、フォーラムのパンフレットも無事刷り上がった。  ここでもまた、笑える事件が起きた。  県や市、NPO法人などが企画するフォーラムは出席者が十分集まらない場合、講演会のサクラとして勤務時間中の職員を派遣するケースは多い。何百人も収容できる会場で受講者が疎らでスカスカでは格好がつかないからだ。こういう場合、役所の対応は万事卒がない。 「〇〇君と××さんは、午後からフォーラムに出席してくれ」みたいなことは、県や市ではごく日常的に行われている。ところが、課長は耕平のフォーラムがあることを知っていて、誰にも声を掛けないのだ。それどころか、完全無視を決め込んでいるようだ。一方で耕平が担当する案件を課の他人に振り返られたり、様々な嫌がらせを受けた。生え抜きの職員の間では、「よそ者には絶対に出世の機会を与えない」というルールが、徹底しているようだった。  仕事ではストレス溜まりまくりだったが、日常生活でも初っ端から散々だった。耕平の自宅はマンションの三階である。耕平が買い物から帰ってきた時、荷物を置きもう一度出掛けるため、自転車を駐車場にカギを掛けずに置いておいた。目を離したのはほんの十分程度だったが、駐車場に戻ると買ったばかりのマウンテンバイクはすでになくなっていた。買って一週間しか立っていない新車だった。耕平は泥棒などいない街だと勝手に信じ切っていたから驚いた。  ある日、たまには贅沢をしたいと一人で鮨屋に入りお任せで握ってもらったら、目の玉が飛び出るくらいの値段だった。おそらく耕平が地元の人間でない“一見さん”と見抜いて、法外な値段を吹っ掛けてきたのだろう。とんだ、北陸の小京都があったものである。  職場の人間関係以外も気候、慣習、言葉の違いなどもあって微妙なズレや違和感を覚えた。早く地方の仕事に慣れなければならない焦りから気持ちが荒んでいた頃、追い打ちを掛けるように北陸の厳しい冬がやってきた。北陸の冬は、耕平が今まで経験したことがないほどの積雪量だった。  ある日、たまたまスイミングクラブの帰りに三宅さんと一緒になった。耕平は三宅さんから初めて飲みに誘われた。二人で三宅さん馴染みの居酒屋の暖簾を潜った。  ビールで乾杯した後、三宅さんが口を開いた。 「ようやく台湾の港に着いて、軍の病院で手術を受けられることになったんだ。その頃は、両眼ともに見えていなくてね。病院のベッドの上で『目が見えん、目が見えん』と毎日泣き叫んでいたよ。ところが七回手術を受けた後、どうにか左目の視力だけは奇跡的に回復したんだ。両眼とも失っていたら今頃、按摩かマッサージ師をやっていたかもしれないね」  三宅さんらしい冗談だったが、耕平は「指がもう既に二本足りないんだから、さすがにマッサージ師はムリでしょ」というツッコミは心の中だけでしておいた。  漂流していたところを偶然発見されたことも、台湾の病院で無事手術を受けられたことも、三宅さんにとっては少なくとも不幸中の幸いではあったのだろう。  三宅さんはなおも話を続けた。 「戦後だって随分、苦労したよ。三宮の実家に帰ると両親は神戸の空襲ですでに亡くなっていてね。僕は三人兄弟の真ん中なんだけど、兄貴はシベリアに抑留されて消息が分からなかったし、学徒出陣した弟は戦後すぐ結核でなくなった。それからは親戚中をたらい回しにされて、最後は名古屋に出てホームレスになった。軍神なんて崇め奉られたのは戦争中だけでね。障害を持って命からがら復員してきた者に世間は冷たくて、逆に国賊呼ばわりされたりした。でも、本当に気の毒だったのは、せっかく復員したのに上陸が許可されなかった人たちだよ。佐世保港に着岸した時、南方で風土病を罹ったため、そのまま瀬戸内海の離島送りになった人たちがいてね。知っているよね? ハンセン病だよ。今でこそ偏見は解かれたけど、当時は法定伝染病で隔離せざるをえなかった。あれは、他人事ながら本当に涙を誘ったね。見ているだけで辛かったよ」  重い話も淡々と話す三宅さんに、耕平は以前からどうしても聞いてみたいことがあった。 「三宅さんは、今でも戦争や国を恨む気持ちはありませんか? もし戦争がなかったら、まったく違った別の人生を送っていたとか、一度くらい考えたことはありませんか?」 「それはないことはないよ。たしかに人間、運不運はある。でも、それを時代のせいにしたり、他人を恨んでも何の解決にはならない。それより、生かされた命をありがたいと思って日々感謝することかな。今、自殺する人が年間何万人といるらしいけど、僕には彼らの気持ちがまるで理解できないね。命さえあれば何とかなるのに」 「ところで、どうして今、百万石市に住んでいるんですか?」 「僕は運よく、小牧にあった飛行場で働かせてもらっていたんだけど、当時の親方について仕事をしていたらいつの間にか、この街に居つくことになっちゃったんだよ」  三宅さんはその後のことはあまり話したがらない様子だったが、どうやら流れ流れて百万石市に辿り着いたようだ。三宅さんはその後も真面目に仕事をしながら周囲の信頼を得て、最後は地元の建設会社の役員にまで上り詰めた。  耕平はこの頃、クロールで連続して500メートル泳ぐことができるようになった。九時過ぎには二面ある25メートルプールは、ほぼ貸し切りになる。スポーツは何でも結果が付いてくると嬉しいし、モチベーションも上がる。何より、泳いでいる時だけは仕事の悩みを忘れられたし、ストレスも解消された。三宅さんはその頃、既に八十歳近くになっていたが、スイミングクラブで会っても元気をもらうのは、いつも耕平の方だった。  年末、仕事を終えた耕平は久々に帰郷するため小松空港にいた。空港の二階ロビーには今年も巨大なクリスマスツリーが飾られている。  耕平は六年前、仕事で北陸に来た時、最終便で帰ろうとした時のことを思い出した。あの時も同じようにクリスマスツリーが飾られていた。出会いや別れの場である空港はクリスマスツリーが特に映える気がする。  最終便で羽田に着いた耕平は公衆電話から自宅に電話を入れた。高齢の両親と同居していた耕平は出張の際、必ず自宅に電話を入れた。いつもは母の君枝が普通に出る電話も、その日に限って、何度呼び出し音を鳴らしても電話に出る気配がなかった。  耕平はその時、微かな胸騒ぎを覚えた。最寄駅から急いでタクシーで帰宅すると案の定、真っ暗だった。誰もいない自宅に戻り台所の電気をつけると、ダイニングテーブルに走り書きのメモが残されていた。  それは、まるでドラマのワンシーンのようだった。 「耕平が出張に行った日、お父さんが駅で倒れて今、南共済病院に入院しています」  耕平は取る物も取り敢えず、車で病院に駆け付けた。駐車場に車を入れると夜間の出入り口から父恭介のいる病室に通された。  恭介は既に意識がなかった。耕平は君枝に問い詰めた。 「何で出張中に、オレに知らせてくれなかったの?」 「あんたの仕事の邪魔になると思って、連絡しなかった」  君枝は目頭を押さえながら話した。恭介は昏睡状態で年末は持ったものの、倒れてから三週間後に亡くなった。死因は脳内出血、まだ六十五歳の若さだった。年金を受け取り始めて僅か半年だった。  新年早々、葬式を上げるのは気が引けたが、松の内が明けた八日に亡くなったので多少、世間体を保つことができた。  その頃、街中で朝の連続テレビ小説の主題歌「春よ来い」がよく流れていたことを憶えている。父の死以来、不思議なことに空港でクリスマスツリーを見るとまた、ラジオから突然ユーミンの「春よ来い」が流れてくると耕平は父が亡くなった頃のことを思い出して涙した。  百万石市で生活も二年目に入った。  入庁した際は中途入社のハンデは一切ないと聞かされていたのに、実際は仕事上で様々な嫌がらせや妨害などを受けた。耕平は自分の経験や実績が十分生かせなかったので、自己申告制度を利用して人事異動を申し出た。  それが受け入れられたのか耕平は翌年、交通政策課に異動になった。  しかし、そこはさらなる地獄が待っていた。人事課の意向なのか入庁二年目、耕平は国から出向できたキャリアの下で働かされることになった。公務員には人事交流制度があって、国から県庁所在地クラスの地方都市になると、キャリアと言われる官僚が派遣される場合がある。国交省から派遣されたキャリアの課長は東大卒で耕平より三、四歳年下だったが、耕平は四十歳になった今も、まだ平職員のままだった。  こういう場合、キャリアは地方の役所から手厚いおもてなしを受ける。キャリア様は別名、大切なお客様でもある。地方都市が国とのパイプを強化しておくことは市が将来、さまざまな優遇措置を受けるため戦略上とても重要になる。ノンキャリの中途採用なら「リストラされたクズ」そのものでも、キャリアは在任中、マンションなど住居の世話はもちろん、専属運転手、箔付人事、海外視察旅行などのご褒美を与えられ、上げ膳据え膳でもてなされ在任中、至れり尽くせりのサービスを受ける。霞が関で以前、問題になった官官接待であり、彼らは上級国民と呼ばれる。市役所などの木っ端役人は日頃から、「キャリア様の言うことは正しい、逆らわない」と頭に叩き込まれているので、市民のためよりもキャリアの手柄づくりに奔走することになる。  耕平は交通政策課で、パークアンドライドシステムという交通渋滞緩和の政策を担当することになった。百万石市には既にパークアンドライド用の駐車場が四ヶ所あった。課では毎年、パーク拡大調査のため毎年、予算が組まれる。ところが、蓋を開けてみれば実際は行政特有のパフォーマンスの域を出ず、パークアンドライドシステムは実際は上手く機能していなかった。耕平はそれでも誠心誠意、仕事をすることにした。  交通政策課には、耕平の上司に川口という四十代半ばの陰険な係長がいた。  ある日、聴覚に障害がある女性からパークアンドライドシステムを利用したいという申し出があった。当時はメールはそれほど一般的ではなかったので、やり取りは当然ファックスだった。  この時、女性は耕平にシステムの利用方法について様々なことを質問してきた。耕平は担当者として女性にできる限りの情報と説明をした。ある朝、出社すると私の机に何気なくファックス用紙が置いてある。ファックスの送信者はその女性からだった。文面には、私の丁寧な説明に関する感謝の念が記されていた。地域住民(他の自治体だから市民ではない)のために当然のことをしたまでだが、その時は市職員として役に立てたことが素直に嬉しかった。  その文面の最後には課長宛てに、「郡上さんの迅速な対応と丁寧な説明について褒めてあげてください」みたいなことが延々と書かれてあった。ところが、川口はこれを平気で握りつぶしてしまった。耕平がポイントを上げることを嫌って、上司の目に触れる前に直接、耕平に持ってきたのである川口には耕平が保管している協議会の印鑑を隠されたり、散々な目に遭わされることになるのだが、末端の公務員の生態や本性を垣間見るようだった。  キャリアと言われる人間も例外ではない。キャリアは百万石市在任中に、どうしても手柄が欲しいから強引に拡大路線一辺倒で進めてくるが、耕平は強引なやり方にずっと疑問を抱いていた。  ある日、耕平は思い切って会議で持論を述べてみた。 「今年は拡大調査よりもまず、一年間掛けてじっくり、パークアンドライドの実態調査をしてみたらいかがでしょうか?」 「いまさら、何でそんなことする必要があるんだ?」 「私が調査したところ、登録者は約百五十名もいますが実際の利用者は数十名しかいません。もっと利用者サイドに沿ったマーケティング志向の調査をしてみたらどうでしょうか?」  課の他の連中は目を付けられるのが怖くてキャリアのいいなりだが、耕平はキャリアの課長に盾を突いてみた。しかしキャリアはどんな形であれ、自分の手柄だけは絶対に失いたくなかった。 「お前、いったい誰に向かって口をきいているんだ?」 「私は担当者として述べさせているだけで、間違ったことは言ってないつもりですが」  それ以上は会議にならなかった。耕平の提案は茶坊主や取り巻きのイエスマンたちに一笑に付され、逆に耕平ひとりが無能扱いされた。  それから、まもなく事件が起きた。  熊本で、パークアンドライドに取り組む自治体が事例を発表する研究会が開催されることになった。本来は主担当である耕平が行くべき会議である。それを何と、新人に振り替えられてしまったのだ。耕平の面子は丸潰れだった。先般の会議での一件の報復のように感じた。耕平は一応、どういう理由で自分が外されたのか腰巾着の課長補佐に聞きだそうとしたら、せんだみつおそっくりの課長補佐はニヤニヤ笑っているだけで、明確な回答は得られなかった。  耕平は市役所二年目も、仕事に対して限界を感じつつあった。  耕平はそんな折、労働組合の存在を知った。  労働組合への相談は勇気がいることで気が引けたが、背に腹は代えられなかった。労働組合の係長は、時を変えて人事課の課長補佐と面談の日程を組んでくれた。面談の際、温厚そうな人事課長補佐が親身になって話を聞いてくれたので、「話せばわかってくれる人もいる」と入庁以来、塞ぎがちだった気持ちが少しだけ軽くなった気がした。  しかし、これはとんだ見当違いだった。耕平が相談した一件が人事課に筒抜けになっていたのだ。耕平が労働組合に相談しにいった後、「郡上さん、人事課に嫌われてるよ」「郡上さん、もう役所にいられなくなっちゃったね」とか、さまざまな人間から言われるようになった。  労働組合が御用組合で、本当の意味で職員の味方でないことがよくわかった。それこそ、とんだ「市役所一家」があったものである。  市役所の結束が固いと言えば間違いないかもしれない。市役所の人間はとにかく、ボランティアが好きだ。何よりも大好きなのがゴミ拾いだ。耕平のいた市役所では毎年一回、「海のクリーン作戦」と「川のクリーン作戦」というのがあった。あえて作戦と言うのも笑える。これは、市民の有志で率先して海辺や川辺でゴミ拾いをしようという運動だ。  その日は、市を挙げての「海のクリーン作戦」の日だった。耕平は元々、この種の取り組みが大嫌いだったが、朝五時に起きて愛車のマウンテンバイクに乗って、十キロ先の河口まで出発した。早朝のサイクリングは爽快だが、これからゴミ拾いをやると思うと気が滅入る。  マウンテンバイクを三十分程度漕いで、耕平はゴミ拾いをする場所に到着した。耕平は駐車場に自転車を置いて集合場所に向かうと、課長はすでに到着していた。耕平は「おはようございます」と挨拶した。  市役所三年目の課長はノンキャリだったが、公務員を絵に描いたような小心で真面目な人だった。耕平は「課長も朝早くからたいへんだな。本音ではきっとやりたくないんだろうな」と思いながらも口には出せなかった。  たしかにゴミ拾いの志は間違っていないが、これが結構辛い。各々トングのようなものを当てがわれ、一心不乱にゴミを拾い回収していく。耕平はその頃、脊柱管狭窄症の診断を受けていて、三十分も屈んでゴミ拾いをしているとすっかり腰が痛くなってしまった。しかしこれが十時まで、延々三時間も続くと思うと耕平の気分はさらに沈んだ。 (ゴミ拾いなんぞ所詮、ボランティアなんだから、やりたい奴だけがやりゃ、いいんだよ!)  しかし、公務員ともなるとよほどの理由がない限り、不参加は認められない。オレは嫌だから行きたくないは通用しない。耕平はこの時、自分が公務員に向いていないことをはっきり認識した。考えると市役所の職員は集団で何かをするのが大好きで、ゴミ拾いなどでも皆黙々と仕事をしている。こんな従順で健気な市役所職員の姿を見ると耕平は頭が下がる思いだった。  ただし、市役所の職員の中には親切な人もいたが、何か事を構えたり対立したりすると一瞬で寝返るのも彼らの持つ特徴だった。それは、まるでゲームのオセロのようだった。耕平はそんな時、彼らを信用できないと思い、長く付き合いたくないと考えるようなった。  交通政策課にいる時、耕平は同じ課の茶髪女から突然、声を掛けられた。頭のレベルはゾウの脳みそ程度だが、茶髪はたまに人を小ばかにするようなことも言う、性格のいい女だ。 「郡上さん、今週の日曜日、空いています?」  入庁以来、忘年会や歓迎会以外、ロクに誘いなどロクに受けたことがない耕平は怪訝に思った。 「えっ? いつも暇ですけど」 「それじゃ、頼みたいことがあるんですけど~」  茶髪は語尾を上げるよう独特なイントネーションを交え、媚びたように話し始めた。 「何でしょうか? ボクにできることでしたら何でもしますけど」 「今度の日曜日に講演会があるんですよ~。それで、それに出席してもらいたいんですが~」 「お安い御用です。で、どこに行ったらいいんですか?」  要約すると、日曜日に市の教育長の講演会があるが、思うように人が集まらなくて困っている。だから、サクラで耕平に出席してもらいたいということらしい。いかにも市役所が考えそうなことだったが、耕平は二つ返事で快諾した。ちなみに役所にいると勤務時間中、こういうことはよく頼まれる。耕平は今回は休日を犠牲にする行為なのでバイトだと認識していた。たまたま金がなかったから、内心「いいバイトだ」とほくそ笑んだ。  気だるい日曜日の午後、耕平は愛車のマウンテンバイクで郊外の会場まで出かけた。講演会は超つまらないものだった。そもそも、自分の意志で聴きにきたわけではない。よっぽど署名だけしてフケてしまおうかと思ったが、役所の誰が見ているかわからない。壁に耳あり障子に目ありが、この市のモットーだ。最後まで神妙にメモを取る振りをして、苦痛の講演会は終了した。せっかくの休日が台無しだった。  そして、問題は翌日に起きた。 「講演会、行ってきましたよ」 「ありがとうござました」  茶髪は柄にもなく、慇懃に耕平にお礼を言った。 「昨日の講演会、もちろん休日手当って付くんですよね?」  すると茶髪女がこう宣った。 「あれはボランティアでお願いしてるんですよ。ですから、手当は付かないんですよ~」 (えー、またボランティアかよ? それをまず、先に言ってよ~。ボランティアなら、いの一番で断ったのに~)  茶髪は耕平を見下すようにニヤニヤ薄笑いを浮かべている。 (あーあ。また、一杯食わされちまったよ。こっちは休日返上して嫌々出席してんだから、手当を要求するのは当然の権利だろうがー)    私生活でも災難続きだった。  耕平のマンションから徒歩十五分程度の場所に昭和を感じさせるレトロな銭湯があった。そこは昭和にタイムスリップできるような感覚が好きで、耕平は好んで通っていた。  ところが、冬のある日、耕平がその銭湯に行こうと思って歩いていたら路地裏から十人くらいの女が耕平の後をゾロゾロと付いてきたのだ。これは東南アジアのタイのバンコクやフィリピンのマニラの話ではない。平成時代の日本で実際にあった話である。  そのうち、女の一人から耕平に声が掛かった。 「ねえ。これから、あたしたちとヤリにいかない?」 「はあ? 誰とするの?」 「この中から、適当に選んでくれればいいよ」  色街の近所にある、いかがわしいホテルが売春スポットになっているようだ。耕平は知らず知らずのうちに、終戦直後の赤線地帯のような地帯に足を踏み入れてしまっていた。耕平は逃げるようにして自宅マンションに帰った。  百万石市生活三年目の冬、耕平のマンションの隣に新たな入浴施設ができることになった。  耕平はこのSPAがいたく気に入り、毎日のように通うようになった。ところが、時間帯によって反社会的な人間が出没することがあった。  目が点になるとは、こういうことを言うのだろう。暖簾をくぐると脱衣所は全身に刺青をした人間で溢れていた。十人中七、八人が刺青である。近所に暴力団事務所があることも後々わかった。笑ったのは日常生活圏内に、普通に自転車泥棒、売春婦、ヤクザが存在していることだ。こんな魑魅魍魎が跋扈する世界を耕平はこの街に来る前は想像していなかった。  耕平は不慣れな環境と生活で、次第に精神的に追い詰められていった。そんな時、耕平にとってスイミングクラブは唯一の救いの場だった。耕平はこの頃、クロールで連続して1キロメートル泳ぐことができるようになっていた。泳いでいる時と三宅さんと立ち話している間だけは職場の悩みだけでなく、劣悪な生活環境をも忘れることができた。  百万石市に来て三年目、決定的な出来事が起きた。  耕平はその年、係長昇任試験を受けることになっていた。前年も手応え十分だったが昇任試験に落とされた。年齢的には今年が最後のチャレンジだった。もし今年、昇任できないと定年まで平職員で終えることなる。耕平は受験票を待ったが、何と耕平に受験票が来なかったのだ。 「私には昇任試験を受ける資格がないのですか?」と尋ねると、例の課長補佐が人事課に電話して「なんだか、一人だけ受験票が来てないみたいなんだけど」とミエミエの猿芝居を打っている。同じ課に何人も試験受ける者がいるのに、一人だけ忘れるわけないだろう。  耕平は組合への相談の一件でそれ以降すっかり、人事課に目を付けられるようになっていた。まだ、世の中にパワハラなどという言葉がなかった時代だが、嫌がらせもここまでくるとほとんど暴力と変わりなかった。  三宅さんとはスイミングクラブでの立ち話がほとんどだったがその日、耕平から三宅さんを飲みに誘った。以前、三宅さんに連れて行ってもらった居酒屋だ。カウンターに座ると三宅さんにビールを注ぐ。ビールはまだ瓶だった。  その後、耕平は本題を切り出した。 「三月で市役所を辞めて、実家に帰ろうと思います。上司にはもう退職願も提出しました」 「仕事を辞めてどうするつもりなんだ? 今は不況だから再就職先なんか探しても、そう簡単に見つからないぞ」 「地元でコンサルタントとして独立するつもりです。一年ほど前から考えていたんですが、やっと気持ちが固まりました」  耕平はコンサルタント会社に入る前、中小企業診断士を目指していた。しかし、仕事をしながら資格取得の勉強は捗らず三度目の挑戦の末、やっと試験に合格することができた。  耕平はさらに話を続けた。 「三宅さんだけにお話しますが、百万石市に来た理由はもう一つ目的があったんです。一言で言えば、前にいた会社に対するリベンジです。それがやっと達成できたので、百万石市にいる理由はもうないんです。元々自分はよそ者ですし、初めからここに骨を埋める気はありませんでした。そろそろ潮時だと思いました」  耕平は理不尽な言い掛かりを付けられ、百万石市に入庁する前、政府系コンサルタント会社を辞めていた。 「話せば長くなるのですが、私の前にいた会社は最悪でした。政府系の会社のため資本金だけは潤沢にありました。そのためか、天下りの役員連中は湯水のごとく金を使い、海外視察、ゴルフ、宴会などに明け暮れ、ロクに仕事をしませんでした。悪質な粉飾決算をしていることも私は知っていました。私はプロパーで採用されましたが、会社のやり方に限界に感じていました。思い切って一度、会議で抗議したことがありました。ところが、それが暴言を吐いたと言われ、責任を取って辞めろと言われたのです。会社を馘首された私は途方に暮れました。しかし、ある日偶然、新聞で百万石市が職務経験者を中途採用していることを知ったのです。私はその試験に運よく合格することができました。私は百万石市に私のいた会社を管理監督する経産省の課に出向の席が一つあることを以前から知っていました。私は当然、商業振興課に配属されました。私はそれを盾に、前にいた会社を揺さぶることを思いついたのです。向こうには元々脛に傷があるので、私が百万石市に入ったことを非常に恐れていました。会社の人間が様子を探るために何度もしかも、不意に市役所の私の前に現れました。しかし、私は大人しくその機会をずっと待っていました。そして先進商業施設の仕事で上京した時、不意にその会社に現れました。社長が色を失って怖気づいていることが私にはすぐわかりました。私にバラされるのを恐れその後、会社は清算の手続きを取り、来年には消滅する手筈になっています。ですから、ここにいて思い残すことはもうないのです」  耕平は胸の内にあるものを一気に喋ったが、自分の気持ちを整理する意味もあった。  三宅さんは耕平の話を黙って聞いていたが、静かに語り出した。 「以前、僕が名古屋でホームレスをしていた話をしたことがあったね。君は僕がホームレスになった本当の理由を知りたくなかったのかい?」 「いえ、それはさすがに失礼だと思いまして、訊くことができませんでした」 「僕も君から尋ねられなかったし、あえて人に言うことでもないから言わなかったけど」 「何か、特別な理由でもあったんですか?」 「大ありだよ。僕は戦後、三宮で米軍から流れてきた物資を闇市で売りさばいていたんだ。恥ずかしい話だけど、当時は生きるためには何でもしなければならない時代だったんだ」 「闇市のことは書物で多少読んだことがありますが、そんなに悪いことなんですか?」 「僕も最初はほんの出来心だったさ。ところが、だんだんエスカレートしてね。いつの間にか相当悪いことにも手を出すようになったんだよ」 「具体的には、どんなことなんですか?」 「僕は当時、GHQ(連合国最高司令官総司令部)に顔が効いていたからね。パンや缶詰、衣類などの物資は簡単に手に入ったんだ。それを闇市に流せば飛ぶように売れた。それこそぼろ儲けで毎日が呑む、打つ、買うの世界さ。特攻服を着てたから『特攻崩れのさんちゃん』なんて綽名で呼ばれていい気になって、さらに調子に乗ってね。最後は米軍の将校相手にパンパン(売春婦)の世話までするようになったんだ」  パンパンは米軍による占領統治下にあった敗戦後の日本において、米兵を主な相手として売春を行った街娼を意味する言葉だ。 ―――意外だった。   耕平はしばらく声を挙げられなかった。  三宅さんが売春の斡旋をしていたなんて。耕平は三宅さんを今の今まで、聖人君子だとばかり信じ切っていた。いつも明るくて冗談ばっかり言っている三宅さんが、まさかそんなことに手を染めていたなんて。 「ところがある時、どこからか手入れが回って検挙され、警察に身柄を拘束されちゃったんだよ。恥ずかしい話だよね。逮捕されて、それから厳しい取り調べを受けたんだ」 「それはかなり、ヤバそうな展開ですね」 「若い警官は僕にこう言ったよ。『私は本当に失望しました。私は戦争中、あなたたちに軍人に憧れて志願しようとしたけれど、あなたたちがこんな風に成り下がるなんて思わなかったです。今まで持っていた尊敬の念が一瞬にして軽蔑の感情になってしまいました』と言われてね。その言葉に大きな衝撃を受けた。それから三宮を離れ一人で名古屋に出てきたけど、仕事のあてもなく駅でホームレスになったというわけさ。毎日、駅のベンチで海老のように体を折り曲げて寝ててね。どれだけ頑張っても抜け出せない、まるで蟻地獄のようだったよ」  耕平には初めて聞く話ばかりだった。 「その後、小牧にある飛行場で働くことになるんですよね」 「うん。その親方は金さんという朝鮮半島出身の人でね。とても面倒見のいい人だった。僕みたいに戦争で障害を持った人間にも分け隔てなく接してくれた気のいい親方だったよ」 「たしか、その親方に付いて行ったんですよね」 「うん。その親方がある時、福井にある九頭竜川の土木工事の仕事を請け負うことになったんだよ。僕は戦時中、海軍にいたから土木工事の技術をたくさん持っていたから重宝され、親方にも随分可愛がられていたんだ。ところがある日、仕事を終えて飯場に帰ろうとしたら、途中で待ち伏せしていていきなり、鉄パイプで僕に殴り掛かってきた奴がいてね。危うく殺されそうになった。土砂降りの中、そいつと取っ組み合いになったよ」 「それで、どうなったんですか?」 「そいつは特殊な技術を持っていた僕が妬ましかったんだろうね。誰に命令されたんだと言ったら『お前のような障害者がのさばるんじゃねえ』とかほざいてたけど。当時は誰しも生き延びるのに必死で、何処から来たかわからない流れ者も多かったからね。きっと僕が目障りだったんだろうね。次の日に行くと、そいつはいつの間にか飯場から姿を消していたよ」  三宅さんが耕平の行く末を案じ、路頭に迷わせないため、あえて思い出したくない過去を話してくれた気持ちは痛いほどわかった。  しかし耕平の意志が固いことを知ると、三宅さんはそれ以上は何も言わなかった。  キャリアの後、課長は役所生え抜きの出川一郎になった。出川は保身第一主義で危ない橋は絶対に渡らない、事なかれ主義の代表のような男だった。  耕平が辞表を提出した時、慰留されるどころか「君は地方の生活には馴染まないと思っていた。でも、自分で決めたことなら仕方ない」と素っ気なく言われたことを考えると、たまたまスイミングクラブで知り合った三宅さんが耕平の行く末を案じてくれたことはありがたく感じた。三宅さんは親子ほども年齢が違うが大好きな親友だった。  耕平が百万石市で唯一、心を開いて信じられたのは三宅さんだけだった。    耕平は実家に戻りコンサルタント事務所を開いた。  百万石市を去る時、耕平は三宅さんとある約束をした。 「自分はコンサルタントになって、本を書くつもりです。いつか、三宅さんのことも書いて、必ず本にしますから」と言うと、三宅さんは笑顔で頷いてくれた。耕平は独立した翌年、ビジネス書を上梓したが、仕事は思い通りにはいかなかった。瞬く間に五年の歳月が流れた。  その頃は、三宅さんとは年に一度、年賀状を交わすだけの間柄になっていた。年賀状には「最近は講演会で全国各地を飛び回っています」と書かれていた。耕平は元気な三宅さんの姿を想像しながら、遥か遠くで三宅さんの活躍を喜んだ。  ある日、耕平は明け方に不思議な夢を見た。  それは、耕平が三宅さんとスイミングクラブのロッカールームで立ち話をしている夢だった。いつものように、三宅さんが耕平に笑い掛けながら何かを喋っている。  胸騒ぎを覚えた耕平は朝、一心不乱にパソコンで三宅さんの名前を検索した。すると偶然、数日後に能登で三宅さんの講演会が開催されることを知った。居てもたまらず、耕平は講演会に申し込んでいた。横浜から夜行バスに乗り、駅から急いで高速バスに乗り換え能登に急いだ。講演会の開催時刻にはギリギリで間に合った。  耕平は幾度となく聞いた話だったが、臨場感溢れる戦争体験談に引き込まれ、最後まで聴き入っていた。  講演会終了後、耕平は三宅さんに近寄り声を掛けた。 「三宅さん、ご無沙汰しています。ボクのこと憶えていますか?」 「うん。よく憶えているよ」  三宅さんはもう八十代後半で、車いすの生活になっていたが記憶は確かだった。講演終了後、三宅さんが運転する障害者専用車で自宅に向かった。ぶっちゃけ、ディズニーランドのどんなアトラクションよりもスリル満点な運転だった。 「郡上君に会うの、何年ぶりだっけ?」 「かれこれ六、七年ぶりになりますかね」  カーステレオからは軽快なジャズのメロディーが流れている。  三宅さんは昔と変わらず、気さくで洒落気のある人だった。三宅さんの自宅は質素な平屋だった。自宅には奥さんがいて、蕎麦をごちそうになった。耕平は初めて、三宅さんの亡くなった両親の写真を見せてもらった。三宅さんの話によると神戸の空襲から唯一残った、たった一枚の写真だそうだ。丁重に断ったが、三宅さんは耕平を車で駅まで送ってくれた。  耕平は三宅さんにお礼を言って別れた。  講演会から半年たった頃、三宅さんから突然、耕平の自宅に電話があった。聞けば入院先の病院からだという。耕平が降りる際、慌てて渡した名刺を見て電話を掛けてきたらしい。 「今度、横浜に行きたいんだけど、郡上君に会える時間あるかな?」 「いきなり、どうしたんですか?」 「郡上君に会いたいんだよ。でも、自分で車を運転して行かれるから大丈夫だよ」 「三宅さん、今、入院しているんですよね。いったい、自分がいくつだと思っているんですか? 片目の上、病気、障害だってあるんですよ。無謀すぎます。万が一事故でも起こしても責任取れませんよ。頼むからもう、二度と車なんか運転しないでくれ!」  耕平が思わず声を荒げると、三宅さんは最後に「うん。わかった」と言って渋々、横浜行を諦めてくれた。三宅さんへの不躾な言葉は、耕平の三宅さんを心配する気持ちから出たものだ。  その後はまた、年賀状のやり取りだけの関係が続いた。  2014年の年賀状には、来年はいよいよ北陸新幹線が開通します。今度、一緒に花見でもしましょう」と書かれてあった。  その年の秋、耕平は奥鬼怒に一人旅に出かけた。  奥鬼怒は三回目の資格試験が終わった後、初めて行った場所で、標高二千メートルを超える湿原もあれば秘湯もある知る人ぞ知る、リフレッシュには最高のスポットだった。  旅から戻って自宅で郵便受けを見ると、無造作に一枚の葉書が放りこまれていた。それは、三宅さんが亡くなった知らせだった。  訃報はいつも突然だ。享年九十歳。  家族の話では、三宅さんは数日前まで普段と変わらず、亡くなる半年前までは元気にスイミングクラブにも通い続けていたという。また、本人から直接、聞いたことはなかったが、三宅さんには病気が原因で亡くなった息子さんがいたことがわかった。奥さんの話では、横浜に行きたかったのも、耕平を息子のように感じていたからではないかと話した。耕平も三十三歳の時、父親を亡くしている。奇遇だが、生きていれば三宅さんとほぼ同年代である。耕平も無意識のうちに、どこかで三宅さんに亡き父の姿を重ね合わせていたのかもしれなかった。耕平の父は戦争こそ行かなかったが、横浜の空襲の凄まじさを生前、耕平によく語っていた。  新年が明け、北陸新幹線は無事に開通した。耕平は今日、早春の北陸に向けて旅立った。  奇しくも試験に合格して百万石市に来たのも、ちょうどこの季節だった。  新幹線を使った旅はあっという間で、想像以上に近く感じた。装いを新たにした駅は耕平が知る昔の殺風景な駅ではなかった。駅を出て、西に向かって二十分ほど歩くと大橋が見えてきた。橋の上から霞掛かった白山連峰が見える。ここから見える景色は何一つ変わっていなかった。橋の下には、川がごうごうと音を立てて流れている。この下の遊歩道をどれだけ歩いたり、自転車で走ったことだろう。懐かしさが込み上げ、耕平は橋の上でしばらく立ち止まった。この橋を渡ると、じきに耕平が住んでいたマンションが現れるはずだ。  耕平は自宅のあったマンションを左目に通り過ぎ、そのままスイミングクラブに向かうことにした。当時、自転車なら十分程度で行くことができたスイミングクラブも、徒歩だとやけに長い距離に感じた。  スイミングクラブに着くと耕平は受付けの女性スタッフに話し掛けた。 「すみません、この施設、見学させていただくことってできませんか?」 「構いませんが、見学されるならまず、こちらの用紙に記入していただけませんか?」  百万石市に住所がない耕平は入会する意思など毛頭ない。  返答に詰まった耕平は、正直に話すことにした。 「かれこれ十五年以上前の話ですが、このスイミングクラブに毎日のように通っていました。僕にとってここは思い出の場所です。連続して1キロ泳げるようになったのも、大切な人に出会ったのも、このスイミングクラブなんです。今日久々にこの街に来て自然と足が昔、通っていたこのスイミングの方に向いてしまい、気付くといつの間に、ここに来てしまいました」 「うちのスイミングクラブで、そんな素敵な出来事や出会いがあったんですか。それなら是非、見学して行ってください」  女性スタッフは耕平の申し出を快諾してくれた。  耕平は駆け足で、ロッカールームのある二階に上がってみた。施設はあの頃とまったく変わっていなかった。ロッカールームで無意識に今日、三宅さんが来ていないか真剣に探している自分が笑える。  スイミングクラブにはプールが二つあるのが特徴だが、右手にサウナと二つジャグジーがあるのも昔と変わらない。二階から一階のプールを眺めていると、プール中央に、クロールで気持ちよさそうに泳いでいる人が目に入った。その動きに見入っていると、あたかも自分が泳いでいるような奇妙な錯覚に陥る。それは快感に近い感覚だった。  耕平は仕事で悩み、人間関係で辛い思いをした時、このプールで泳ぐことでストレスを発散したり解消してきた。不慣れな北陸での単身生活も折れそうな心も、泳いでいる時だけは頭の中が空で無の境地になれた。耕平は結局、百万石市という地に溶け込むことはできなかった。しかし、そのことを後悔はしていない。ただ、この場所にいると無性に心が安らぎや懐かしさを感じてしまう。三宅さんは亡くなったが、耕平は不思議と涙は出てこなかった。  ここでいくら待っていても、三宅さんが現れることはない。おそらく、このスイミングクラブでも三宅さんがかつて、会員だったことを憶えている人すらほとんどいないだろう。  しかし、耕平は三宅さんがスイミングクラブにいたことを今も鮮明に憶えている。  三宅さんが耕平の隣で笑顔で話し掛ける。 「郡上君、これから?」 「はい。ひと泳ぎしていきます。三宅さんはもう上がりですか?」 「うん。じゃ、またね」  笑いながら手を振る三宅さんの姿が脳裏に蘇る。  耕平はロッカー室から続く階段を降り、受付の女性に「ありがとうございました」と言って軽く会釈した。スイミングクラブを出ると、耕平は駅に向かってゆっくり歩き出した。
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