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ピンク・ソレノイド
「いまので、すべてだよ。だからさ、撮影をやめてこの手錠を外してくれないかな?」
暗がりで、平森雄馬は力なく呟いた。チェアに後ろ向きに座らされ、胸は背もたれにつき、両手は後ろ手にジョーク玩具なのかスチール製の手錠で拘束されていた。
雄馬の正面には、スマホが横向きに据えられていた三脚式のカメラスタンドがあった。撮影者は、そのすぐ後ろに立っている。他に、人の気配はない。
撮影者から暴力などの危害を加えられておらず、雄馬の体に痛むところは無かった。「嫌だよ。つか、おめーキモいとかで返すんじゃねえよ。こっちは、独白するスタイルでドキュメンタリー作品を撮ってんだよ」
遮光性の高いカーテンで窓を閉ざされたマンションの洋室に、雄馬と相手はいた。不条理にも相手は自分が呟いたことに反応して、それが映像に納められたことに憤慨していた。完璧な姿の作品を崩されたので、その張本人に怒りの矛先は向けられていた。
カーテンの端から漏れる陽の光で、室内はぼんやりとだが見ることはできた。陽光に照らされ微かに輝くのは、よく手入れされた綺麗な赤い髪。浮かび上がったシルエットからも、女性であることが分かった。
「岡本さん、作品ってなんですか。もう勘弁してくださいよ」
疲弊した雄馬が口にした名前は、こともあろうに勤務先の同僚である岡本真実だった。
彼は、その女性が動画作品を作る趣味があるということは、一度も耳にしたことがなかった。雄馬から何かやりたいことを訊ねられた際に、彼女は曖昧に返答したことがあった。そのため雄馬は、動画こそがこの先輩がやりたいことだったのではないかと思うに至った。とは言うものの、この状況を納得している訳ではなかった。
その彼女は、険しい顔でカメラスタンド越しに仁王立ちしていた。その表情は阿形なのか吽形なのか、判別は難しい。だが雄馬には、どちらでも大差は無かった。ただ幸いと思うことがあるとしたならば、相手は一人だけだということだった。
精彩に欠ける雄馬には、アクション映画のように実力行使で反撃に出る元気も無かった。そもそも文化系の彼は、運動や武道の類はからっきしだったので、その案すら思い浮かばない。むしろ、ヒーローが突然助けに現れるのを夢想するタイプだった。
職場以外で初めて、狸小路商店街で真実と顔を合わせてから数日後、雄馬は再び狸小路一丁目で作品を展示していた。その間は出勤日があったり、退勤後は新作を作ったりしていた。
相棒のロングスケートボードのデッキ裏面には、新作が一つ追加されていた。それは干支でも星座でもなく、タロットカードをモチーフにしたものではなかった。それまでとは毛色がちがう、カートゥーンのような猿が四頭身でコミカルに描かれていた。
この日は天気も良く、肌を撫でるそよ風が気持ちいいぐらいだった。通りを歩く、絵に関心のある高齢の女性に声を掛けられていたり、観光客と思われる外国人カップルにスマホで写真を撮られていたりした。日本のゴム版画が、珍しかったのかも知れない。その男女の背中には、紅白二色の大きなリュックが背負われていた。ファスナーチャームには、控え目なメイプルリーフがあしらわれていたので、おそらくはカナダからの観光目的の来日だろう。雄馬は終始にこにこしながら身振り手振りで、ラバーでスタンプしたプリントである旨を伝えていた。カップルのサムズアップに彼も親指を立てて答えていたが、当然フランス語も英語も話すことはできなかった。
しばし鑑賞すると、カップルはその場を後にした。雄馬は大きく手を振って二人を見送ると、その場で深々とお辞儀をした。
「あれ、ユウマ何やってんの?」
雄馬がお辞儀を続けていたほんの何秒かの間に、背後から誰かが声を掛けてきた。聞き覚えのある声に、頭を下げたまま彼は上半身を左に捻り視線を後ろに投げかけると、黒い革のミニスカートと白黒ストライプのレギンスの足が目に入った。誰かすぐに察し、上体を起こすと相手に向き直った。
「岡本さん、お疲れ様です」
「お疲れ。てか、おまえ誰に頭下げてんの? 何か変なのが見えるようになったとか?」
同僚の奇妙な行動に、真実は超自然的な存在が目の前にいるのか訊ねた。
「いやですね。そんなのではなくで、国際交流ですよ」
雄馬は、午前の中に展示を始め、足を止めて鑑賞してくれた何組かのことを説明した。
「で、ついさっきまで外国人がいたってことなんだ」
「はい。僕のこれを見て、オウサムとか言ってました」
「大寒? おまえがめっちゃ寒いってことなんじゃね?」
彼女は、いじわるそうな顔でそう言った。
「やめてくださいよ。そんなんじゃないと思いますよ」
アメリカやカナダでも使われるスラングで、おおよそ素晴らしいと褒める際に使われることが多い。
「分かってるよ、私だってネットで使うし、冗談だよ。きゃはっ」
下唇の端のピアスを光らせながら、真実は声を出して笑った。それには、雄馬も自分が馬鹿にされたことは察した。
ただ勤務先が一緒で、たまたま少し先に入社しているだけの大して親しくもない間柄なのに、ここまで横暴な振る舞いをされて面白いはずがない。ただここで言い争って、次に出勤したときに気まずくなるのは避けたいと考えていた。これまでも無駄な争いは避けて生きて彼は、人間関係のトラブルとは一切無縁だった。
「今日も、これから出勤ですか?」
雄馬は一刻も早く厄介払いをしたく、相手に用事を思い出させるように言った。
「なんだよ、そう邪険にするなよ」
どの口が言うのか、真実は悪びれる様子もなかった。
「今日は、おまえに会いに来たんだ」
「えっ?」
予想もしなかった一言に、雄馬はドキッとした。
「いやな、ここに来たら会えるんじゃないかと思って」
「い、いなかったらどうしてたんですか」
不意打ちの連続に、彼は狼狽える。と同時に、何の用なのかとも警戒した。
「おまえさ、今日も狸小路に来るってソーシャルメディアで自分で上げていただろ。それ見て来たから。それにいなくてもどうにでもなるよ、服でも見に行くし」
調べてまで会いに来るなんて、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。もしかすると、モテ期の到来なんじゃないかと妙な期待が彼の頭をよぎった。それにしても、こういうファッションなら自分ではなくても、相応しいカテゴリーの人はたくさんいるじゃないかと雄馬は思った。何しろ、狸小路商店街や近隣にはライブハウスが何軒もあり、ヘヴィメタルのバンドTシャツを来た者や、それこそ鋲の打たれた革ジャンに身を包んだ、ロンドンパンクを体現している者も見かけることが多かった。
「そういう服って、どこで買うんですか?」
特に興味があった訳ではなかったのだが、知識欲と相手への関心で、そう訊ねていた。
「あぁ、専門店があるんだ」
どこか適当なところを肩越しに親指で差し、真実はそう言った。一条通りに面したファッションビルの地下にあるショップに彼女は通うことがほとんどだったが、そこまでの説明は割愛した。
「それより、これ新作か? 猿っぽいの、前は無かったよな」
真実は、デッキ裏に貼られた作品を指差した。
「はい、そうです」
やけに自分に興味を示す先輩ではあったが、雄馬はまんざらでもなかった。
「猿なの?」
「いえ、雪男です」
「ぷっ。雪男って、マジウケる。なんで、雪男なんだ。スノボなら、まだ分かるけどさ」
スノーボードは雪の積もったゲレンデでやるので、連想しやすいということを言いたいのだろう。
「なぜかって言いますと、トレードマークというか、自画像っぽいのを作りたくて」
「でもおまえ、そんな猿顔じゃないじゃないか」
雄馬の顔をまじまじと覗き込み、照れる素振りもなくそう告げたのだから、彼はなおいっそう彼女を意識した。
「いえ、名前がユウマなものですから、未確認生物のUMAから代表的な雪男を選んでみました」
「あぁ、なんか動画で観たことあるかも。へー、そうなんだ。いいかも」
そこは良いと言い切って欲しかった彼だったが、褒められるのに悪い気はしないだろう。
「でさ、ユウマこれから時間ある?」
「はい、今日は休みなんで」
先日もここで言っていた、遊びの誘いなんだろう。正午も近いことから、雄馬はランチの誘いなのかもと考えていた。
「そっか、なら良かった」
真実は、約束していなかった相手のスケジュールが確保できて、安堵の表情を浮かべていた。
「僕はいいとして、岡本さんは出勤じゃないんですか?」
「あ、うん。今日は休み」
真実は無意識にショルダーバッグからタバコを取り出そうとしたが、禁煙と書かれた注意書きが彼女の目にも入り、雄馬が「あっ」と声を出す前に無言でそれをバッグに戻した。
「そうなんですね。それで、これからどうするんですか? 僕はカラオケは苦手なんで、ボーリングとかでしたら大丈夫です」
雄馬は先手を打って、苦手なことを伝えておいた。一般的に、社会人になるとどんな遊びをするのか疎い彼は、カラオケかボーリングぐらいしか知らなかった。大学は出ていないが、学生のノリと同じだった。
「あ、オッケ。私もカラオケは飲み会の流れで付き合うことはあるけど、基本スマホいじってばっかなんで歌わないよ。そこは行かないんで大丈夫」
彼女は、あっけらかんとしてそう告げた。
「では、ランチですか?」
「ユウマ、腹減ったの?」
「あ、いえ。そんなでもないです」
経済事情で一日の食事を二回に減らすことはあったが、このときの彼は本当に空腹ではなかった。
「じゃ、いいところ行こうか。甘いものは好きか?」
「え、スイーツですか?」
食事を飛ばしてデザートだなんていう展開は、デート慣れしていない雄馬にとっては些か不思議ではあるが、同時にそういうものなんだなと思った。
「そう。エクレアのクリームをさ、こう吸い出してやろうか?」
真実は左手のひらを上に向け、目に見えない空想のエクレアを五本の指で優しく包む仕草をし、先端に優しく口付けをした。その弾けそうな唇には鮮やかなほどの紅が差され、透明感のあるグロスがよりぐっと艶やかさを醸し出していた。
雄馬の鼓動が、急に早鐘を打ち始めた。淫靡なゼスチャーと真実が口に出した表現は、男性への愛撫のことであると容易に想像できたからだ。女性との交遊もそれほどない彼は、この状況はすぐに理解できずに混乱していたが、理性より本能の方が激しく反応していた。
「甘いもの……、ですか?」
「そう、とびっきりな」
そう言うと真実は、舌を出してエクレアの先端をぺろりと舐める真似をした。その舌には雄馬が想像したピアスこそなかったが、先端から三センチほど蛇の舌のように二つに分かれていた。人体改造マニアの中には愛好者もいる、スプリットタンである。コールセンターで勤務するぐらいだがら、滑舌には影響しないようだ。
雄馬はドキッとしたが、あの舌が絶妙な箇所を這うと考えると、なんとも言えない快感が得られるのではないかと思った。恐くもあったが、淫靡な誘惑には勝てなかった。狩られる側ではなく支配する側の心境に至った雄馬のズボンの中では、彼自身の衝動が固く拳を突き上げていた。
思わず息をごくりと呑んだが、それが相手に気が付かれていないか不安になった。
「なんだよ、DTみたいなリアクションして。冗談だよ、冗談。きゃははっ」
真実は、戸惑いを隠せない雄馬を見て、またもや声を出して笑った。しかも雄馬の方もその隠語は知っていて、強いショックを受けていた。経験数は多くないとはいえ、童貞扱いされるのは心外だった。かといって少ない人数を披露しても、つまらない自慢だと更に馬鹿にされるだけだろうと思い、胸の奥にしまい込んだ。
「なんだよ、怒んなよ。シャレじゃんかよ。それよりおまえさ、イラストとか詳しいんだよな。私もちょっと絵のことに興味があるからさ、教えて欲しいんだよね」
そう言いながら真実は、ショルダーバッグからロリポップキャンディを取り出すと、ビニールを剥がして口に放り込んだ。
「なんだ、そうなんですね。それだったら、初めから言ってくださいよぉ」
本当の目的を聞けた雄馬は、ほっと胸を撫で下ろした。それにしても、この冗談が過ぎる先輩がアートに興味があるなんていうことを、雄馬は意外に思っていた。
「でしたら、どこに行くんですか?」
「あぁ、ウチ」
そう言いながらキャンディの棒を上下させ弄んでいる真実には、躊躇している様子はなかった。鼻歌すら歌うほど余裕のようだ。
「ウチって、いいんですか?」
「いいよ。一人暮らしだし、気を使う奴もいないよ。それにオマミさんの部屋が拝めるなんて、ラッキーじゃん」
自由奔放な彼女は、自分の趣味でコーディネイトされた部屋を見ることができるのは、幸運なのだと言う。
「どんな、部屋なんです?」
「まぁ、それは見てからのお楽しみということで」
「そうなんですね」
雄馬は真実のルックスから、インテリアの方向性もきっと同じなんだろうと勝手に予想していた。
「そう。じゃあ、行くぞ」
真実に促されると雄馬はスケートボードをバッグに納め、背中に担いだ。
この意地悪そうな人はいつもどこか悪い冗談を口にするが、絵の相談を後輩にしたいだなんて真摯な姿勢を示しているので、根っからの悪者という訳ではなさそうだった。
無邪気そうにロリポップキャンディを口の中で弄ぶ横顔を見ていると、雄馬はまだどこかで何かを期待していた。
そういった経緯で、雄馬はまんまと彼女の住むマンションにのこのこと付いて行ったのであった。
暗がりの中ではあったが、真実は下着姿であることが確認できた。部屋に着くなり、灯りを消して彼女は服を脱いだのだ。雄馬の方も、やはりそういうことなのだと理解して、服は着たままだったが彼女が指示する格好でチェアに座り、後ろ手に手錠をかけられた。彼はこれから、ソフトなSM趣味に付き合わせられるのだと期待していた。だが、違っていた。スマホで撮影が始まった途端に、激しく後悔した。悔やんでも、悔やみきれない。ヒーローも、助けになんか現れない。
「ヤミーとかぶるとヤベーって、なんだよ。きゃはっ、大爆笑だわ。クソかよ。愛称なんて、勝手だろうが。私の方が先に入社してんだから、かぶり気にする訳ねえじゃん」
雄馬は聞いたことがなかったが、彼女は勤務先でもこれぐらい下品な口調だった。当然だが、業務ではクライアントが求めるレベルの、とても上品な話し方をしている。
アートに関する興味を示していたので仲良くなれるのかと期待していたが、まんまと裏切られたのだ。あっちの意味でも、だ。
「それに、テディがなんだって? 逢い引きとか、する訳ねえだろう。ふざけるなよ、誰があんな奴と付き合うかよ」
見当違いの詮索に、真実は憤慨していた。
「だって……」
「だってもクソもあるか。メシおごるからって、ついて行っただけだよ。昔はやんちゃしてたかも知れないけど、あんなにニヤついた親バカなんて、ちっとも惚れねえんだよ。そんな奴に、ヤらせるかよ。おまえもアレか? オマミさんのオマメさんでもつまめると思ったか? きゃはっ、残念だったな」
多田慎也に下心があったかは分からないが、妻子持ちが職場の独身女性をランチといえど何度も食事に誘うということは、何かしらの意図があったと考えて間違いないだろう。それは、雄馬に対しておまえもと言っている辺りからも想像に難くない。
「でも、テディとおまえの一人二役のやりとりは雰囲気出てたぞ。ユウマ、動画慣れしてんのか?」
「いえ、頑張りました」
この拘束から解放されるためらなら、真実が要求する以上のことをしなければと彼なりに必死の演技だった。
「そっか」
雄馬の説明には無理がなく言い訳じみたこともなかったため彼女は満足そうだったが、まだ他にも鬱憤は溜まっていたようだ。
「っつーか、あいつよ、手彫り最高とか言いやがって、機械彫りを見下しているから気に食わねえんだ」
真実は、タトゥーの技術の話をしている。おおまかではあるが、日本では機械彫りをタトゥーと呼び、手彫りを刺青と呼ぶことが多い。ちなみに和彫りも洋彫りも図柄や意匠の違いだけで、技法の違いを述べている訳ではない。職人や愛好家たちからは手彫りも機械彫りも尊重され、そのタトゥーのジャンルも世界的には十数以上が存在するとされる。
つまり多田は自分の主観だけで、その価値観を二極化して決めつけている。彼女には、それが気に食わないのだ。
「分かったよ。テディさんの件は、僕の思い込みだったと分かったから謝るよ。ごめんなさい」
雄馬は真実を傷つけたことを謝ったが、真実は上司とのタトゥーの見解の相違に憤怒しているのか、彼は一向に現状を打破できないでいた。
「あぁ。謎の敗北感ってことは、私に気があるってことだよな。それは、嬉しくないこともないよ」
雄馬の心の機微を察したのか、少しは落ち着きを取り戻したようだ。だが素直に嬉しいとは言えないのが、この真実の突っ張った性格ゆえだろう。
「絵に興味があるというのは、本当だ。だから、おまえをここに誘ったんだ」
狸小路で会った際も、同じことを言っていた。ここでも念を押すのだから、偽りはないのだろう。だが彼には見抜けなかったが、真実の目は純真さに満ちた輝きはなく、狂気が宿っていた。
「そうなんだね。僕の作風で役に立つなら、喜んでお話できたらいいな。スケボーだって、すぐに出すから」
雄馬は、遠回しに拘束を解くように懇願していた。彼はなんとか、この場から逃げ出す方法を見つけようとしていた。さもないと、このあとは何をされるのか分からない。ただ、いますぐ刺し殺すというような鬼気迫るテンションが彼女には無かったので、刺激することだけは避けようと心掛けた。
「それはいいよ、自分で出せるから」
それは、その通りだった。雄馬のバッグは部屋の入り口横の壁に立て掛けられたままだったので、誰にでもすぐに触ることができた。
続け様にお願いばかりしていると、逃げ出したい気持ちが相手に察せられると思い、雄馬は二の句は続けないようにした。
「だからさ、お気に入りを一つ教えてくれない?」
猟奇性を押し殺して優しく語りかける様は、さながら児童に迫る変質者といった具合だ。
「お気に入りって?」
「そう。ユウマの自分自身の作品の一番のお気に入りをさ」
そう言いながらカメラスタンドに近づいた真実の腹部は、スマホ画面の光に当てられて暗闇の中でぼうっと浮かび上がっていた。そのヘソには、雄馬の予想通り球状の小さい銀色のピアスが光っていた。
「お気に入りはたくさんあるんで、どれがって言われても困るよ。スマホにも作品があるんで、まずはそれを一緒に観ようよ」
ウェブサイトは開設していなかったが、画像として書き出した作品がいくつもあった。それは、スケボーに貼り付けた数よりも多い。
幸いにも雄馬のスマホのロック解除は顔認証ではなく指紋認証だったため、手錠を外してもらう絶好のチャンスだと考えた。
「ユウマさ、人生の代表作とか、この時代を生きた証みたいな作品ってあるか?」
急に映画やヒットソングのテーマのようなことを、真実は言い出した。それを耳にした雄馬は遺作のことを言っているのかと、再び恐怖した。暗闇の中で、その顔はいやが上にも蒼白していた。
「もしかして、僕って死ぬの?」
「きゃはっ、何バカなこと言ってるの。お気に入りだって、さっきから言ってんじゃん。それとも、雪男か?」
真実は壁に近づくと、部屋の照明のスイッチを入れた。シーリングライトが全灯すると、雄馬はその眩しさに一瞬目を閉じた。
再び目を開くと、目の前には上下黒いランジェリーに身を包んだ真実が立っていた。下着姿に雄馬はドキッとしたが、それよりも彼の目を引いたのは、彼女の左右の太腿の内側にあるタトゥーだった。向かって右側には、薔薇が巻きついた剣。そして左には、荊の冠を戴く頭蓋骨があった。
「それって?」
「あぁ、これ? 練習彫りぃ」
自らの太腿に施した練習彫りは、彫り師の勲章だともいう。つまりは真実は、タトゥーの彫り師を目指しているのだ。
そのまま彼女は無言で、下着の上から黒いエプロンを身に付けた。そして車輪の付いたキャビネットを部屋の端から移動すると、両手には薄いゴム製の手袋をはめ、口をマスクで覆った。
「やりたいことがあったら応援するって、言ったじゃん。それだよ。こんな素敵な彫り師にタトゥーを彫ってもらって、僕は幸せですって映像にするんだから、余計な編集させんなよ」
真の目的を告げた真実の手には、ペン型のタトゥーマシンが握られていた。それは無骨にもソレノイドが剥き出しになっていたが、持ち手だけがピンク色のプラスチックで僅かにポップさを演出していた。
二度と消すことのできない、この時代を生きた証としての作品。つまりは、そういうことなのだろう。
自分はタトゥーの練習台にされるのだろうと戦慄した雄馬は、ふと狸小路商店街で警察官が口にしたことを思い出した。
「最近、若い子に声を掛けて、安い料金でタトゥーを入れられるという勧誘被害が増えているんで、君も気を付けるように」
もしかすると、それは真実のことなんじゃないのか。そんな疑念が、彼のなかで沸々と湧き上がってきていた。追い詰められた雄馬は恐怖で声を発することもできずにいたが、そんな彼をものともせずに、針を上下させる電磁弁の振動が、知らない虫のようにジジジと鳴きながら、ゆっくりと近づいてきた。
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