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3.もうずっと
クレハのために絵を描くことはもうしない。
そう心に決めたものの、やつれきったクレハを無下に追い払うことはユキトにはできない。だから、彼女が深夜に忍んでくることを止めることはできなかった。
苦しそうな彼女を救いたいとも思っていた。けれど。
「神様ってなに?」
そう問われた瞬間、ユキトは飛びかかるようにして彼女の口を掌で覆っていた。
「駄目だよ、クレハ! 神様を疑うようなことを言ってはいけない! そんなことを口にしたら神の囁きがなくなって……」
「神の囁きなんて……もう、聴こえないわ」
ユキトの手を退けて彼女が呟いたのはそのときだった。
クレハはユキトの手を取り、そっとその手を胸元へと当てさせる。わずかな膨らみを感じ、即座に手を引こうとするユキトの手を、しかしクレハは離さなかった。
「ちゃんと聴いて!」
叱咤され、ユキトは息を止める。
神の囁きは……感じられなかった。
とっさにクレハの胸から手を離し、ユキトは自身の胸に掌を当てる。
ことり、とり。とり、ことり。
神の囁きを、確かに感じる。ほっと息を吐いた後、ユキトは青くなった。頬を染めたことを忘れ、遮二無二、クレハの胸に頬を押し当てる。
こ、と……り、り……り……こ。
切れ切れに音が聴こえた。しかしそれは、いつ途切れてもおかしくないほど、脆い音に思えた。
「もう、聴こえないでしょ」
泣き笑いで言うクレハの胸から顔を上げ、ユキトは激しく首を振ってみせた。
「聴こえるよ! 大丈夫、まだ、聴こえてる! 消えてなんてない! 大丈夫だ!」
目にはしていない。しかし……凍り付いて死んだユズリハの死に顔がなぜか脳裏に浮かび上がってきた。幻影を必死になって頭の中から追い払いながら、ユキトはクレハの両腕を掴んで揺さぶった。
「なんでこんなことに……?! だって、クレハは神様のために歌ってたじゃないか。神様だって喜んでいた。豊作だって長老だって言って……」
「私ね、もうずっとわからなくなっていたの。神様のために歌うってことの意味が」
ユキトの言葉をふいにクレハが遮る。自身の腕にかかるユキトの手をそうっとクレハの手が外す。
触れたクレハの手は……冷たかった。
「ねえ。私たちはずっとこの丘に閉じ込められて、佳を生むように言われてきたわよね。誰とも繋がることを許されず、ただ己の体の中から響いてくる音だけを頼りに佳を生み出すよう言われてきた。
でも……私、ね、見たのよ。ユズリハの死に顔を」
「見たって……そんな、参列は禁じられていたよね。見られるわけ……」
「忍び込んだのよ。神の囁きがなくなった人がどんな顔で死んでしまうのか、私は知らなければならないと思ったから……」
消えそうな鼓動を抱きしめるように両手を胸に押し当て、クレハは言う。うなだれた彼女の肩にそっと手を置こうとしたユキトの前でぱっと彼女は顔を上げた。
「ユズリハね、笑っていたの」
「……え……」
「笑って、いたのよ」
繰り返し、クレハはまっすぐにユキトを見つめた。
「とても幸せそうに微笑んでいた。ユズリハは恐れていなかったの。それどころか……喜んでいるような顔だった」
「そんなわけない! 死んでしまうんだよ? 神の囁きがなくなったら僕らは……」
「私には、ユズリハの気持ちが、わかる」
言い切り、クレハは唐突に腕を伸ばす。細い腕がするりとユキトの肩を包み、柔らかい体がユキトの胸に飛び込んで来た。
「ユズリハは……幸せだったのよ。佳もすべて、神様じゃない、シンヤにあげられて、満足だった。だから笑っていたの」
ねえ、とクレハがユキトの胸の中で囁いた。
「知ってた? 私ずっと、ね、もうずっと、神様のためになんて歌ってなかった。私の中にあったのはずっとずっとユキトのあの絵。真っ白でどこまでも広がっていける……あなたの世界。縛られてどこにも行けない私を自由にしてくれる……。私はその世界を見せてくれるあなたのためにだけ、歌ってた」
彼女の掠れ声がユキトの胸の奥の奥のほうへとすうっと落ちていく。ユキトでさえ知らないはずの最奥へとたどり着いた彼女の声が心の奥の扉を撫でる。
けれど……それは初めての感覚ではなかった。
ユキトは知っていた。
彼女の歌声はもう何度も何度もユキトの心の扉を叩き続けていた。
彼女の声によってユキトは何度も揺さぶられ、一所にじっとしていられなくなった。
絵筆を取りたくて……たまらなくなった。
彼女の歌声に共鳴するように……ユキトは描いていた。
何枚も何枚も。
描いている間の恍惚を、ユキトの指ははっきりと覚えている。
でも、それは、神に捧げる佳などではない。
罪とされる、行為の果てに生み出された……穢れたもの。
ユキトの背筋に寒気がぞっと走った。
「クレハ……ごめん」
震える声で言い、ユキトはクレハの体を押しのける。クレハの顔にはっきりと絶望が走った。
「神に見放されて生きていくなんて僕には……」
ごめんなさい。ごめんなさい。
ユズリハの死により、心が壊れてしまったというシンヤ。彼は今も時折、そう叫びながら泣いている。
このままいけば……自分は彼と同じようになる。それは……恐ろしすぎた。
こちらに伸ばそうとした腕を、クレハがそっと下ろす。
そうね、と微笑んだ彼女の宵闇色の瞳がゆうらり、とたゆたった。
「平気。ごめんね。変なことを言ったね」
じゃあね、と手を振り去っていくクレハの背中は、どうしようもないほど小さく見えた。
その日から……ユキトは絵が描けなくなった。
描こうと思っても絵筆がぴくりとも動かない。佳を捧げることは責務だ。期日が定められているわけではないが、佳を生み出す努力を怠ることは許されない。
神の囁きは、かすかではあるが聴こえている。でも、描けない。
いや、描きたくない。
自身の中に生まれた描くことへの拒絶にユキトは動揺しつつ、動けないまま日々は過ぎた。
クレハの歌声もまた……聴こえなかった。
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