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《このあいだの夜は、先に帰ってごめん》
「あ、う、ううん…」
《今から会えるか? 話したい事があるんだ》
「うんっ! 私も皐に話がある」
《俺に? じゃ、1時間後でいいか? 迎えに行く》
「うんっ、分かった」
電話を切って、杏子はコーヒーを一気に飲み干し、出かける準備を始めた。
もう一度、歯を磨いて顔を洗い、メイクをして髪をセットする。お気に入りのワンピースを着て、少し暑くなって来たからサンダル風の靴を出し、鞄も涼し気なものにした。
約1時間後、携帯が鳴って桐原が到着の電話をして来た。杏子は電話に出るとすぐに鞄を持ち、玄関で靴を履いて家を出た。エレベーターに乗って1階に下り、少し駆け足でエントランスを抜けて出入り口を出る。
マンション前に停まっている桐原の車に駆け寄り、運転席の窓をコンコンとノックした。窓が開いて桐原が真剣な顔のまま言った。
「おぅ、乗れよ」
「う、うん…」
(あれ? やっぱりまだ怒ってる…?)
杏子は車の前方を通って助手席側に回り、ドアを開けて助手席に乗り込んだ。桐原は前を向いたまま、杏子の方を見ない。杏子は助手席のシートにもたれて鞄の中から桐原にもらった一万円を出し、桐原に差し出した。
「これ、ありがとう。大丈夫、ちゃんとタクシーで帰ったよ。でも皐からもらう訳にはいかないよ。だから返す…」
「……いいのに。俺が誘っておいて、夜に女を1人で帰らせたんだ。悪い…」
「ううん…」
杏子は首を横に振って、もう一度一万円を桐原へ差し出す。
「じゃ…」
桐原は差し出した一万円を受け取り、財布を取り出して、しまった。
「ちょっと移動する」
「うん…」
杏子はシートベルトをして前を向くと、桐原は車を出した。真っ直ぐ前を向いたまま、桐原は黙って運転している。
(皐からはもう連絡がこないと思ってたのに……碧くんもそう言ってたし。それなのに皐から電話してきて話って……なんだろ?)
あれこれ考えるが桐原の心が読めない杏子。いつもの桐原とは違うのは分かる。杏子はチラッと桐原の横顔を見るが、声をかけられずにいた。
(でも皐に本当の事を話すって決めたんだ……また喧嘩になるかも知れない。もう友人関係にも戻れないかも知れない。だけど嘘をついたままはもう嫌…)
「あのさ…」
「へ…」
突然、桐原が沈黙を破って杏子に話しかけて来た。杏子は驚いて、声を裏返して返事をする。いつもなら笑いが起きる。だけど今日の桐原は真剣な顔で前を向いたまま話し始めた。
「火曜の夜、杏子に言った事は謝る。言い過ぎた……ごめん」
「あ、私もムキになってごめん…」
「でも碧の事は諦めろ。アイツは今すげぇ幸せそうで、それを潰したくねぇんだ」
「そ、それはもう…いいの……」
杏子はそう言ってうつむいた。
「そっか。実は杏子に言った事は、俺の事でもあるんだ。俺も恋愛対象に見られていない相手に惹かれてる。ずっと片想いしてる…」
「えっ!」
杏子は顔を上げ桐原の横顔を見つめる。
(皐に……好きな人………いたんだ…)
「そ、そうなんだ…」
杏子はゆっくり下を向き考えていた。
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