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二 花街 <2> 怪しい客人
***
前途多難のように思われた、朱亜の花街での暮らし。しかし、それは杞憂で終わった。
「白粉、橙の頬紅、桃色の口紅、あと酒、白粉、桃色の頬紅……あっ、違う!」
朱亜はぶつぶつと繰り返しながら、花街にある雑貨屋を目指す。こんな暴力的でダサくて何もできない人間を妓女としてお客の前に出そうものなら店の評判がダダ下がりになる、と判断した楼主。しかし、何やらただならぬ関係先から紹介された娘をそう簡単に首にすることもできず。朱亜は妓女ではなく雑用として働くことになった。男の機嫌を取ったり舞を踊ったりしなくてもいい分、朱亜も気が楽になって伸び伸びとできる。
下働きをするようになってから、一つ良いことが増えた。それは外出の機会が増えたこと。楼主や先輩妓女からおつかいを頼まれて、花街中を歩き回ることができる。朱亜にとってそれは面倒ごとではなく好都合。おつかいのついでに明豪の聞き込みをして回る。
今日訪れた雑貨屋の主人は、懐かしそうに明豪のことを教えてくれた。
「嬢ちゃん、若いのにあの人のこと知ってるなんて、やっぱり有名人なんだねぇ」
雑貨屋の主人は朱亜の事まだ幼い娘だと思っているらしい。まあ、教えてもらえるならそんなことはどうでもいい。
「今から5,6年くらい前かなぁ? この近くに薬屋があってさ、明豪はそこによく出入りしていたんだよ」
薬屋に客がやってくると、どこが悪いのか明豪がピタリと言い当てる。まるで不思議な目が付いているようだった。そこですかさず薬屋が、症状に合う薬を勧めては通常よりも高い料金で売りつけていた。二人の商売はとてもうまく噛みあっていて、薬屋はとても儲けていたし、明豪もその利益を分けてもらっていたそうだ。癒着、という言葉がぴったりと当てはまる。
「その薬屋は? どこにあるの?」
「あー、もうないんだよ。店主の爺さんが死んじゃってさ、明豪もそれと同じくらいに出て行って……今は宮仕えしているっていう噂を聞いたけど、どうなんだろうねぇ」
朱亜はがっくりと肩を落とす。しかし、彼はここでは有名人だったようだ。彼の過去について知る人は他にもいそうで安心する。朱亜はその雑貨屋で言われた通り、白粉と橙の頬紅、桃色の口紅を買って次は酒屋へ向かった。そこでも明豪について聞いてみようか……そんなことを考えながら歩いていると、その先からヨロヨロとふらつきながら歩く男がやってきた。
「危ないな」
男は前を見ておらず、すれ違う人々は迷惑そうに彼を避けていた。朱亜も避けながらチラリと横顔を見る。
「……飛嵐じゃん」
飛嵐が男に抱かれない妓女・魅蘭に襲いかかり、彼女を助けようとした新人の妓女に昏倒させられた話は、一晩のうちに花街中の噂になった。「魅蘭になんてひどいことを」と他の男から怒りを買ったり、「女に殴られて気絶するなんて」と馬鹿にする者もいたらしい。主人である孟秀敏からも「恥をかかせるな」と怒られて、それ以来あちこちで酒浸りの日々を送っているようだ。すれ違うだけでも酒の匂いがぷんと漂ってくる。今晩、潜入している妓楼に来ませんように……と祈ったとき、小さな悲鳴が聞こえた。朱亜は振り返る。
「お、お役人様……! 大変申し訳ございません!」
まだ幼い少女がぶつかってしまったみたいだった。尻餅をついたようにひっくり返る飛嵐、先に起き上がった少女は必死に頭を下げている。飛嵐はゆらりと立ち上がった。
「なんだよ! どいつもこいつも、馬鹿にしてるんだろ、俺のことをよぉ!」
「申し訳ございません!」
溜まりに溜まった怒りを、か弱い少女にぶつけようとしているようだった。周囲にいる人々は皆知らん顔を決め込み、足早に去ろうとしている。飛嵐はそのこぶしを振るいあげた! 朱亜はとっさに、二人の間を割くように飛び込んだ。髪に刺さっていたかんざしを引き抜いて、振り下ろされるこぶしをそれで弾くようにいなした。かんざしはぐにゃりと曲がってしまう。
「イッテェ!」
飛嵐は痛みを払うように手を振った。朱亜はその間に少女を逃がそうとするが、彼女は恐怖で震えあがって身動きが取れずにいる。どうしようかと案じている内に、飛嵐は再び拳を、今度は朱亜に向かって振るいあげようとしている。武器になるようなものはなく、朱亜はとっさに少女を守るように抱きかかえ、飛嵐に背を向けた。もう、一発殴られるのは覚悟した、あとで思いっきりやり返してやる! ……そんなことを考えながら待ち構えていたのに、衝撃は来ない。朱亜は恐る恐る顔を上げた。
「……え?」
真っ黒な装束に、さらに真っ黒な頭巾を被った男が飛嵐の手首を掴んでいた。飛嵐も振り返り、そして力なくペタリと座り込む。そして怯えるように震え始める。何があったのか、朱亜にも庇われていた少女にも分からない。
「あの……」
ともかく礼を言わなければ。朱亜はその真っ黒な男に声をかけようとするが、彼はすぐさま踵を返していなくなってしまった。
「何だったんだろう……?」
けれど深く考えている時間はない。怖がっていた少女には「もう大丈夫」と言って落ち着かせ、飛嵐のことは放置して、朱亜は酒屋へ急ぐ。そこでも明豪の話を聞きたかったけれど、これ以上戻るのが遅くなったら怒られてしまうかもしれない。急ぎ足で妓楼に戻ることにした。息が切れるくらい急いだけれど、妓楼はもう明かりが付き始めていた。
「遅いよ、朱亜!」
「ごめんなさい! これ、買ってきたやつで……」
「そんなものはどうでもいいから、早く支度しな。化粧して着替えるんだよ」
「支度?」
はて? と首を傾げる。雑用係の朱亜は客席にはつかないはずでは? 何かの間違いだと思い楼主に問いただすが、彼女は困ったように息をはいた。
「どうしてもアンタが良いっていう変わった客がお見えになっているんだよ」
「で、でも! お客さんの前に出るなって……」
「金の払いが良かったんだよ、まるで魅蘭を贔屓している客人みたいに。だから仕方ない、頑張っておいで。誰か、朱亜の支度手伝ってやって! 急ぎだよ!」
暇だし、と先輩妓女が朱亜の身支度を整えてくれる。目元は華やかな赤色に、唇は艶やかな桃色に塗られた。持っていたかんざしが曲がっていて使い物にならないので、付け毛で長くなった髪は簡単に結われるだけ。そして、滑らかで真っ白な上衣に深紅の下裳も借りる。花柄の帯を巻いてもらった。服は香が焚かれていたのか、甘い匂いがする。
「怖いな……どんな人なんだろう?」
怯えながら客人が待つ座敷に向かう。引き戸をほんの少しだけ開けて中の様子を見る。
「あ!」
そこにいたのは、先ほど朱亜のことを助けてくれたあの真っ黒な男だった。朱亜は勢いよく引き戸を開け、ズカズカと座敷に入っていく。
「さっきはありがとうございました! 助かりました!」
頭を下げる。……しかし、男はうんともすんとも言わない。こんな変な格好をしている人間は他にいないだろうから、彼がさっきの恩人で間違いないと思うのだが。何も話そうとしない彼を見て、朱亜は少しだけ身を引いた。何を考えているのかもさっぱり分からない。せめてその頭巾だけでも脱いでくれないだろうか……。
彼が頼んでいたのか、座敷に酒や軽食が届けられる。朱亜がそれを受け取り、彼の杯に酒を注ごうとしたとき――ようやっと息が漏れ聞こえてきた。
「全く、ヒヤヒヤしたよ」
頭巾の中から聞こえてきたのは耳になじみのある声。朱亜の表情はパッと明るくなる。彼は頭巾を取り払った。
「皓宇!」
「しっ! 朱亜、声を潜めて」
皓宇がそこにいた。朱亜は両手で口を押えながら、けれどひそかに胸を撫でおろしていた。変な客じゃなくて良かった! と心の底から安堵する。皓宇は場所に慣れないのか居心地が悪いのか、それとも恥ずかしいのかキョロキョロと視線をあちこちに向けている。
「私がこのような場所に出入りしているバレたら、どんなことを言われるか……」
「皓宇、何しに来たの?」
「何しにって……」
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