二 花街 <2> 怪しい客人

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   朱亜のことが心配だった、と口に出すのはなんだか恥ずかしい。皓宇は背筋を伸ばす。 「状況を聞きに来ただけだ」 「なんだ。そういうのはてっきり劉秀が来るものだと思ってたよ」 「まぁ……劉秀は忙しいんだ。私がいろいろ頼んでいるからな」  皓宇は劉秀のことをぼかす。朱亜は劉秀が今何をしているのか、あまり気になっていない様子だった。 「しかし、朱亜。私はあれだけ言っただろう? くれぐれも無茶なことだけはするな、と!」  朱亜は先ほどの飛嵐との一件を思い出した。もし皓宇が助けてくれなくてもやり返すことができたから、朱亜は全く「無茶なこと」とは思っていない。きょとんと首を傾げている。これ以上怒っても無駄なようだ、と皓宇は察した。深いため息をつく。どれだけ心配をしても、朱亜の明るさには敵わないような気がする。 「万家の生き残りだっていう妓女は見つかってないよ。だって名前を出さないで探せっていう方が難題なんだもん。あと、明豪のことは少しだけ」  薬屋と結託して薬を売りさばいていたらしい、と今日雑貨屋の店主から聞いた話をする。その薬屋がもうないことを、皓宇も残念がっていた。 「皓宇の方は?」 「私は王宮で。太子殿下がいろいろと話をしてくれた」 「太子……?」  あの青白い顔をした少年のことを思い出す。皓宇は、雨龍とのやり取りについて聞かせてくれた。それは、先日王宮の書庫で調べごとをしていた時のことだ。 「皓宇叔父上」  その書庫に、雨龍がひょっこりと顔を覗かせたのだ。皓宇は驚きのあまり持っていた書物を落としてしまった。体の弱い雨龍がこんなところをうろついているなんて本当に珍しい。 「こんなところにお出ましとは。お体の具合は良いのですか? 太子様」 「今日は調子がいいんです、薬が効いているから。叔父上、太子様なんて呼び方はおやめください。僕はあなたの甥ですよ」  皓宇は伏せた顔を上げない。雨龍は慣れているのか、それ以上強いることはしない。 「最近、叔父上がよく王宮にいらっしゃると聞いて。久しぶりにお話したくなったんです」  雨龍にとって皓宇の存在は「叔父」というよりは「兄」に近い。まるで本当の弟のように甘えるように接してくる彼に、皓宇も頬が緩む。7つ年下の彼は、皓宇にとっても可愛い存在だ。書物を拾い上げると、雨龍はこんなことを口走った。 「つかぬことを伺いますが……叔父上は新しい妻でも娶ったのですか? それとも側室でも?」  突然こんなとんでもないことを言われ、皓宇は再び書物を落とす。そして雨龍に迫りその肩を強く掴んだ。 「太子様! なんでそのような話を!?」 「後宮はそんな噂で持ちきりで……叔父上付の侍女が女性の服や化粧道具を集めていて、叔父上が表に出せない女性を囲んだのでは、と」  全くの事実無根である、と真っ青になった皓宇は必死に否定する。その形相が面白かったのか、雨龍は年相応の表情で笑っていた。 「もしかして、この前王宮に見えていた、あの妖獣を倒す者のために用意させたのですか?」 「まあ、そんなところです……」 「はじめに彼女を見た時は、僕も驚きました。叔父上の女性の趣味が変わったのかと思いました、わざわざ男装なんてさせて」  朱亜のことを女だと気づいていなかったのは自分だけのようだ。皓宇はがっくりと肩を落とす。 「それで、叔父上。妖獣について何か新しいことは分かりましたか?」 「いえ、今日は妖獣ではなく他のことを……」  心臓が持ち去られる事件については、皇帝からの密命であると心得ている。たとえ皇帝の息子と言えど、漏らすわけにはいかない。皓宇は話を逸らした。 「そういえば、春依公主様があの者を殿下の護衛にしようとした、という話を聞きました」 「……あぁ、姉様は心配症だから。少しでも強い者がそばにいると安心するのでしょう。でも、僕の周りは人が多くて参ってます。母様だって、毎朝僕のことを明豪に占わせて……」  ちょうどいい、彼にも明豪のことを聞いてみよう。皓宇は身を乗り出す。 「貴妃様は明豪のことをとても信頼していらっしゃるのですね」 「父様も皇后陛下も彼に信頼を寄せていますが、母様はそれ以上ですね。まるで天龍様を崇拝するかのようです。明豪が、母様の生まれた家からの紹介だったというのもあると思いますが」  明豪が孟秀敏に連れられてこの王宮に来たのは、今から5年ほど前。まだ幼かった雨龍が重い病に伏し、生死を彷徨っていたときだ。凄腕の占術士だと言っていたが、その時は皆がっかりしたに違いない。王宮にいる祈祷師は全員雨龍の回復を祈り、医官たちは匙を投げていた。そんな中で占いが役に立つわけない、と。 「明豪は私のおでこに手を置いて、すぐさま心臓が弱っていると占いました。そして、翌日の夕方にはよくなっているはずだ、とも。本当にその通りで、父様も母様も、皇后陛下まで喜んでくださいました」  彼が回復する時間まで言い当てた彼は皇帝や妃たちの信頼も勝ち取り、今ではよき相談役として後宮を歩き回っている。毎朝、雨龍のことを占っているなんてことは知らなかった。 「明豪は朝、どのようなことを占うのですか?」 「行ってはいけない方角や、食べてはいけない物とかです。実にたわいのないことばかり」  日によっては好物も食べることができないそうだ。雨龍はそう愚痴を漏らす。他には、と皓宇がさらに話を聞きだそうとしたとき、また見慣れぬ人物が書庫に立ち入ってきた。春依だ。 「雨龍、こんなところにいたのね」 「姉様……」 「勝手に出歩いてはいけないと言っているでしょう? 叔父上にも迷惑をかけて……」 「迷惑だとは思っていないですよ、公主様」  春依は雨龍の肩を抱き、皓宇に向かって小さく頭を下げる。彼女は一刻も早くここから雨龍を連れ出したいみたいだった。雨龍は皓宇に手を振り、春依と共に書庫を後にする。 「またお話ししましょうね、叔父上」  そう朗らかに笑う雨龍のことを思い出しながら、皓宇は朱亜に彼との話を語った。しかし、やはり引っかかる。 「明豪が来たのも、妖獣が現れたのも、心臓のない死体が現れるようになったのも5年前、か……」  考え込むように俯く皓宇。しかし、その視線はなぜかせわしなく動き回っている。いつもの皓宇らしくない。 「皓宇、具合でも悪いの?」  朱亜は近づき、皓宇の体温を測るようにおでこに手を当てた。その瞬間、皓宇の体温が一気に高くなっていく。 「ほら、やっぱり熱が……」 「いい! 気にするな!」  皓宇は少し下がるが、朱亜はすぐに近づいてくる。彼女から立ち込める甘い香りが鼻腔をくすぐる。見慣れぬ化粧をして、鮮やかな衣装に身を包む女性らしい朱亜は皓宇にとっても新鮮な存在だった。意識しないようにと心掛けていたのに、月夜に彼女に助けてもらった晩に見てしまった【光景】を思い出してしまう。よき相棒として接したいのに……。ふっと顔をあげると、彼女の髪型が目に飛び込んでいた。まるで刈り上げたような短い髪ではなく、年相応の女性のような可憐な姿。しかし、そこにはある物がない。皓宇は胸に手を当てた。 「朱亜、これを!」  皓宇がとっさに胸元から取り出したかんざし、朱亜の視線はそっちに向く。天龍の首飾りほどではないけれど、とても立派な翡翠がついている銀色のかんざし。朱亜はぽかんと口を開けた。 「すごい! キレイだけど……どうしたの?」 「元は妻に贈ろうとしていたものなのだが、朱亜にどうだろうかと思って。ほら、今かんざしをしていないだろう?」 「え? でも、それって皓宇にとってとても大切なものじゃないの?」  皓宇の妻が亡くなったのも5年前。その間、きっと彼はこうやって持ち歩いていたのでは? と朱亜はすぐに勘付く。 「……いや、いいんだ」  朱亜は皓宇からそれを受け取る。ずっしりと重たいのはかんざし自体の重さなのか、彼の気持ちなのか分からない。朱亜は結った髪にそれを飾った。皓宇は、初めは嬉しそうな朱亜の横顔も目を細めていたけれど、すぐに違和感に気付いた。これは、朱亜には似合わないのだ。当たり前だ。妻・翠蘭のことを思い浮かべて用意したものなのだから。  そよ風のように穏やかだった翠蘭。それとは対照的な、太陽のような強い明るさを持つ朱亜。彼女はかんざしを付けた自分を手鏡で確認している。嬉しそうな表情は皓宇にとっては目が眩むくらいの輝きがあった。それに、妻に渡すはずだったそれを朱亜にあげるのは彼女に対して失礼な気がしてきた。 「朱亜、やっぱり……それを返してもらえないか?」  一度渡した物をやっぱり返せなんて男らしくない。朱亜も明らかにがっかりしている。 「えー、せっかく貰ったのに。それに、かんざし壊しちゃって今持ってないし……」 「ならば、朱亜のために新しいかんざしを用意し、それを贈るのはどうだろうか? それではダメか?」 「じゃあ、それまではコレ、借りててもいいかな? 新しいやつをくれるの待ってるからさ」  朱亜は楽しみにしてるね、にっこりと微笑む。思いがけない約束事に、皓宇も釣られるように微笑んだ。さっきの朱亜の喜んだ表情も、今の笑顔も、見ていると心の中が暖かくなり自分まで嬉しいと思ってしまう。 (……翠蘭の時は、こんなこと気持ちは感じたことはなかったな)  一緒にいて心地よいのは朱亜も翠蘭も同じなのに。これは、彼女に対する信頼感とも違う。それは、朱亜と同じ時を過ごすほどに膨れ上がっていく。皓宇は初めて、こんな時が長く続けばいいのに、と思った。ニコニコと笑う朱亜が隣にいて、自分も笑っている。……けれど、自分たちの関係には終わりがある。邪王を倒したその先――それを考えると、背筋が少しだけ冷たくなった。皓宇は話題を変えようと口を開く。 「万家の生き残りについてだが、劉秀が言うには……」  そう切り出した瞬間、座敷の外が賑やかになり始めた。戸が開きそうになり、朱亜はとっさにそれを抑える。皓宇は慌てて頭巾を被り始めた。  戸を開けようとしていたのは、朱亜の先輩妓女たちだった。
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