二 花街 <2> 怪しい客人

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「つまらない話をするために呼んだんじゃないよ。昼間にあの方が見えたんだよ、飛嵐様」  忌々しい名前だ。魅蘭は舌打ちをするが、楼主はそれを諫めた。 「アンタを妾として請け出したいってさ」  楼主は飛嵐の言葉を思い出す。この妓楼の中でいつも生意気な事ばかり言っている小娘だが、妾として囲ってしまえばもう歯向かうこともしないだろう、と。酒に酔っていたが、魅蘭を力でねじ伏せたいと思っているのは見るだけで楼主にも伝わってきた。魅蘭はため息をつく。 「くだらない。それに、やり方が気に入らないわ」 「もう十分すぎるほどの前金をもらってるよ。この先のアンタでも到底稼げない額さ」 「どうして受け取るのよ!」 「商売だよ。私は主、お前は商品。主が商品を売って何が悪い?」  魅蘭は楼主を睨む。 「大体、闇市の奴隷市場でアンタを買うのにいくらかけたか。それなのに、ちっとも元が取れやしない」 「私のことを安く売りすぎなのよ」  魅蘭は踵を返す。 「この話は、アンタがなんて言おうと受けるからね! 覚悟するんだよ!」  楼主の声が無情に響いていった。魅蘭は唇を噛む。こんなところにずっといるつもりはない、でも……この身を簡単に差し出すこともできなかった。悔しい、けれど絶対に涙は見せないと幼いころに自分自身に誓った。 「飛嵐の妾、ね……」  魅蘭の頭にはある考えが芽生えていた。  *** 「……うぅ、皓宇、おはよう……」  鋭いくらい眩しい朝日に目が眩み、朱亜は目をこする。結局一晩中皓宇のことが気になってしまって、ちゃんと眠ることが出来なかった。寝不足で頭が痛い。皓宇もゆっくりと起き上がる。 「朱亜……うっ、すまない、水をもらっていいか?」 「はーい」  皓宇は二日酔いの様子。ずきずきと痛む頭を抑えながら、朱亜がくれた水を飲む。 「私はひとまず鈴麗宮に戻る」 「うん、気を付けてね」  きっと帰ってこなくて静はとても心配しているに違いない。早く帰った方がいいと朱亜は皓宇を急かす。皓宇は頭巾を被る前に朱亜を見つめた。朱亜は不思議そうに首を傾げる。 「え? 何かついてる? 寝ぐせ変?」 「いや、なんでもない。くれぐれも気を付けて、また来るから」  皓宇がまた来てくれる、と思うと心が軽くなった。その日がもう待ち遠しいし、彼の背中を見送るのが寂しくなってしまう。朱亜は皓宇が見えなくなるまで手を振る。さてもう一度寝なおそうかなと自室に下がろうとしたとき、ばったりと魅蘭に出くわした。 「朱亜、アンタ、さっきの客に指名されたんだって」 「うん、そうだけど……」 「それで? どうだったの?」 「どうって?」 「初めての感想ってやつよ」  朱亜はまるで頭を振り回すように首を横に振る。 「何もない! 何もないから! お酒飲んで普通に寝ただけ!」  必死すぎる朱亜の形相を見て、魅蘭は指さして笑う。 「なんだ、良さそうな客だったって聞いたのに。つまんないわね」 「失礼だな! 魅蘭だって客取らないくせに!」 「私はそんなことをしなくても芸で稼げるのよ」  自信たっぷりに胸を張る魅蘭。確かに、芸事では魅蘭には敵わない。それに女としての色気でも。きっと長くこの花街にいるから身についたのかも、と朱亜は思う。ん? 長く? 「そうだ! 魅蘭は明豪っていう占術士知ってる? 昔花街にいたんだけど……」 「昔っていつ頃?」 「5,6年前?」 「それじゃあ知らないわね。私、ここに来たのは大体4年くらい前だから。でも、話は聞いたことある。結構いい腕前の占術士だったらしいじゃない」  なんだ、残念と朱亜は肩を落とした。 「魅蘭は来たの、結構最近なんだね。魅蘭は元貴族って聞いたけれど、本当?」  魅蘭はげんなりとため息をつく。 「それ聞かれるの、もう何回目だと思ってるのよ。客にも他の妓女にも聞かれて……みんな詮索好きよね」 「魅蘭だってそうだったじゃん」 「あら。そうかしら?」 「でも、魅蘭はいつまでここにいるの? 魅蘭くらい踊るのが上手かったら、他の場所でもやっていけるんじゃ……」 「……お金のためよ」  魅蘭は朱亜に背中を見せる。表情が見えず、それが本音なのかもわからない。 「やるべきことがあるから、そのためにお金を貯めているの。……まあ、もうそんなことをしなくても達成できそうだけどね」  小さく漏らした言葉は、朱亜の耳には断片的にしか聞こえなかった。聞き返そうとすると、魅蘭はくるりと振り返る。 「明豪って占術士のことを知りたいなら、私なんかじゃなくてもっと昔からいる姐さんを紹介してあげようか?」 「え? いいの! ありがとう、魅蘭!」  先ほどの話を忘れたのか、朱亜は嬉しそうにその名前を聞いていく。その様子を見て、なんて単純な子なんだろうと魅蘭は思った。単純で、特に秀でたものもない娘はここでは長く生きていけないだろう。生き残るために、少しでも彼女の味方となってくれる人が見つかればいい。そんな祈りが込められていることに、朱亜は全く気付いていない。
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