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三 後宮 <1> 皇后妃の懐妊
鈴麗宮の住民がまた増えた。
花街の妓女・魅蘭こと、万家の総領娘・魅音。彼女が鈴麗宮で過ごすようになって、早数週間。昼間の鈴麗宮、皆は思い思いに自分の時間を過ごしている。剣の稽古をする朱亜と劉秀、調べてきたことをまとめている皓宇。魅音は彼らを見て、小さく息を漏らした。
魅音が花街から逃げ出した後、城下町はその噂で持ち切り! 有名な妓女が若い男と逃げたということと、その妓女が飛嵐に請け出される直前だったという話もあっという間に広まった。飛嵐の妾になるのが嫌で、本命の男と逃げたに違いないというあながち間違いでもない噂と共に飛嵐の醜聞も飛び交い、飛嵐は孟秀敏と自分の妻からこっぴどく怒られたらしい。孟氏の名を汚すだけではなく、男としてもだらしないと市中で言われたら、奥方も恥ずかしくて表に出られないだろう。今は家の中では酒浸りの生活で、孟秀敏も彼を見限って沈泰然を重用していると聞く。その噂を聞いた魅音は「ざまあみろ」と笑っていた。
しかし、その話も最近ではなりを潜めていて、今はある話で城下町は大いに盛り上がっていた。
「めでたいなぁ、香玲様がご懐妊とは!」
王宮の中で噂程度にとどまっていた皇后・香玲の妊娠。それが王宮から正式に発表され、まだ御子は生まれてもいないのに国民はお祭り騒ぎだった。
「全く、どこに行っても皇后さまのご懐妊の話ばかり! 国宝のことになんて興味のない、頭のめでたい国民ばかりね!」
妓女の華やかな服装から一転、下女のような身なりをしている魅音がそう嘆いた。無理もない、とその愚痴をすぐ近くで聞いていた皓宇は思う。今の皇帝・颯龍に子が生まれるのは雨龍以来となる。無事に生まれたら、の話だが。今まで公にされてこなかったが、妃たちはいくたびも妊娠してきた。しかし、産み月に入るよりも前に流産や死産を繰り返し、無事に生まれて育ってきたのは春依と雨龍だけ。きっと後宮の中はピリピリとした緊張感が漂っているに違いない。
朱亜は一人で出歩くとする魅音を諫める。
「また一人で出かけたの? 魅音が花街から逃げた妓女だってバレたらどうするつもり? いつも言ってるじゃん、出かけたい時はウチが付き添うって……」
「いや、お前が一緒の方が危ない」
一緒に剣の稽古をしていた劉秀がたまらず口を挟む。
「沈家は大丈夫なわけ? そっちも結構ひどい噂が流れているじゃない」
魅音の言葉に劉秀は唇を噛む。運悪く、静が「また泰然様がお見えですよ」と劉秀を呼びに来る。彼は盛大なため息をついて木刀をおき、その場を離れていった。
「沈家の噂って?」
「朱亜って、本当にそういう話に興味ないわよねぇ。沈家だって、飛嵐のせいで相当悪く言われているわよ。沈泰然が孟家に重用されているのは、孟秀敏に裏金を払ったからだ~とか」
本当に相当な言われようである。さすがの朱亜でも可哀そうになってきた。泰然との話を切り上げてきたのか、劉秀はすぐ戻ってくる。彼はとてもイライラしているようで、木刀を再び手に取ると力任せに振り下ろした。まるでそこに憎い相手でもいるかのような鬼気迫る勢いで、何度も振り下ろす。
「お兄ちゃん、なんだって?」
しかし、朱亜にはそんなことはお構いなしだった。いつもの調子で話しかけられると、劉秀の怒りだって腑抜けたようにしぼんでいってしまった。
「いつも通りだよ。家を再興するのに協力しろってさ。なんだか計画しているけれど、話しているだけ時間の無駄だし早々に切り上げてきたよ。俺にとってはどうでもいいことだからな」
劉秀は喉が渇いたのか、水を飲みに炊事場に行ってしまう。朱亜は木刀をおいた。
「噂、で思い出したが……どうやら御子は公主様らしい」
王宮の占術士たちは皆そう占ったと、王宮に赴いたときに耳にしたと皓宇。しかし、その言葉に静が首を横に振った。
「いいえ、あれは間違いなく皇子様でございます!」
「静は何を根拠にそう思うんだ?」
「私は今まで何人もの妊婦を見てきましたからね! お腹の子の性別なんて、妊婦の顔や様子を見ただけで分かります。数日前に私も後宮に呼ばれ、その時に皇后陛下をお見掛けいたしましたが、あのお腹の出方、あのキリッとしたお顔つき。あれは間違いなく、お腹の子が男の子である証でございますよ。私は鈴麗様がご懐妊されたときも、御子が皇子であると当てたのですから間違いありません!」
人生の大先輩である静がそういうと、何だか説得力がある。魅音はまだ疑っているのか首を傾げる。皓宇は口を開いた。
「占術士の中で、明豪だけは御子は皇子であると言っているらしい。静の感だって当たっているかもしれないな」
「明豪、適当なこと言ってるんじゃない?」
皓宇は木刀を手に取り、そのうち一本を朱亜に向けて投げた。朱亜は投げられたそれを難なく掴む。
「朱亜、稽古をつけてくれ」
「もちろん!」
皓宇は朱亜が花街に潜入している間も、劉秀と共に稽古を重ねてきた。そのおかげか、彼の剣筋は以前よりも鋭くなっていて、朱亜と鍔迫り合いをするときだってある。それでも朱亜にはまだ一度も勝てていない。強くなった皓宇の剣筋だが、どれだけ工夫しても朱亜はすぐに読み切ってしまって、赤子の手を捻るかのように叩きのめされてしまうことの方が多い。
嬉しそうに刀を振るう朱亜、それに付いていこうとする懸命な皓宇。魅音は「ついていけないわ」と言わんばかりにその場を離れた。そして、城下町で耳にしたもう一つの噂について思い出していた。
「そういえば、後宮では女官の募集をするらしいぞ!」
後宮――それは王宮の中に設けられた、皇帝とその女たちの住まい。皇帝はそこで子を残すために女たちと交わりを持つ。先帝の時代はたくさんの側室がいたため、世話をする女官たちも多くいたらしい。けれど今の皇帝・颯龍には皇后・香玲と貴妃・美花しか妃がいない。世話係も少なくて済んだが、今回の香玲皇后の出産準備のために多くの人手が必要になったらしい。数年ぶりの女官の募集。魅音はそれを、藁にもすがる思いで聞いていた。
鈴麗宮での暮らしは花街にいたころと比べるとずっといいけれど、ここにいるだけでは彼女の目的は達成できない。朱亜も天龍の首飾りを探すのを協力してくれると言っているけれど、それは彼女が邪王を倒した後。今ではない。早く父との約束を果たすためにも、魅音は鈴麗宮を離れる決意をしようとしていた。
炊事場にいる劉秀を見つける。ようやっと巡り合えたのに……魅音はぎゅっと拳に力を込める。
「ねえ、劉秀」
魅音はそっと声をかけた。彼は驚くことなく、穏やかな表情で振り返る。
「決めたわ。私……後宮に行くわ」
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