三 後宮 <2> すくうもの

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 その晩。朱亜はこっそりと自分の持ち場を抜け出して、女官の宿舎へ向かった。宦官と女官のあいびきは固く禁じられているため、誰にも見つからないように慎重に。その手には文が一通握られていた。外に出ようとしたとき、燈実に押し付けられたのだ。 「どっか行くのか? ついでに、これを魅璃ちゃんに届けてくれ」 「なんですか、コレ」 「恋文だ」 「どうしてウ……わ、私が」 「だって、直接渡すなんて恥ずかしいじゃないか。それに女官の寝所に行ったのがバレたら罰せられる。そんなのは嫌だ。下っ端のお前ならきっと大した処分にもならないはずだ。それに、雑用はお前の仕事だろう」  先輩の私用をこなすのは雑用の仕事なのか、と朱亜は呆れる。でもこれは良い機会では、と朱亜は思った。後宮に入ってから魅音と会えたのはほんのわずか、しばらく話もできていない。もしかしたら彼女も何か新しい情報を手に入れているかもしれない、やり取りをする絶好の機会だ。  魅音のいる宿舎の戸を、小さく叩くと中から聞こえていた女官たちの声が一気に小さくなった。警戒しているのかもしれない。朱亜は少しだけ戸を開けた。 「きゃー! 宦官様よ!」 「しっ! 声が大きい! バレたらどうするの!」  ほんの少ししか開けていないのに黄色い悲鳴が外に向かって飛び出していく。朱亜はその扉を閉めたかった。あいびきは禁じられているのだから、せめてもう少し声を潜めて欲しい。朱亜が人差し指を立て唇に当てると、はしゃいでいた女官たちはうるさかったその口を手で塞いだ。 「なんか、キレイな宦官様ね」 「うん! 男性っていうより、男装の麗人って感じ?」  女官たちが外を覗きながら話している言葉が、部屋の奥にいた魅音の耳まで届く。 「それで、誰にご用事なの?」 「私、私よね?」 「いや、えっと、み……じゃなくて、魅璃さんっています」 「ぎゃー! またあの新人よ!」  やっぱり、と魅音は立ち上がる。戸の近くまで行くと、先輩女官の嫌味が飛んできた。 「アンタ、これで何人目?」 「そうよ、私たちを差し置いて! どうせ断るならいいじゃない!」 「いい気になるんじゃないわよ」  魅音はそれらの妬みの声を無視して外に出た。 「ここじゃうるさくて話にならない。あっち、人がいない場所があるんですって。行きましょう」  睨むような女官たちの視線が朱亜の背中に突き刺さる。同じものが刺さっているはずなのに、魅音は平気な顔をしていた。 「花街にいた時の事、思い出すね。あの時も、魅音ってば周りから色々言われて……」 「そうね。私ってば女に嫌われやすい女みたい」  魅音はわざとらしくため息をつく。二人は顔を見合わせて笑った。互いに気を張り詰めた生活を送っていたのか、久しぶりに会うと気が緩んでしまう。 「そうだ、一応コレ」 「何? 汚い字ね」  朱亜は燈実の恋文を魅音に渡す。彼女はそれをちらっと見て、すぐに破いてしまった。 「こんな遊びに付き合うほど暇じゃないのよ、私は」 「そう言っておくよ。ところで魅音、聞きたいことがあるんだけど……」  朱亜は昼間の話をする。春依にその正体を暴かれそうになったと話すと、魅音は絶句していた。間一髪のところに明豪が来てくれたから良かったものの、彼だって正体が知れない。朱亜はもっと気を引き締めるべきだと魅音は𠮟りつける。しかし、朱亜はそれも気にせず話を続ける。 「香玲皇后が命を狙われているって……」 「皇后陛下が? それは本当なの?」 「そっちでは聞かないの? 噂。でも、どうして皇后さまが……?」 「きっと孟一族の仕業に違いないわ」  魅音は親指の爪を噛む。自身の憎い仇を思い出して腹を立てているのかもしれない。 「孟家が? どうして?」 「少し考えればわかる事じゃない。今の太子殿下は、孟家の血筋の美花貴妃の御子。殿下がそのまま皇帝になれば、孟一族の力はもっと強くなる。でも……それには不安事項があるわ」  朱亜は雨龍のことを思い出した。元々病弱で、今も調子を崩しているらしい。春依の只ならぬ様子が頭をよぎる。 「太子様には、健康不安があるから?」 「そう。また5年前のように倒れてしまったら? その隙に、他の妃が皇子を産んだらどうなると思う? それも、貴妃よりも力を持つ皇后陛下がお産みになったら? その赤子がとても健康な男児だったら?」 「その皇子が、今の太子様を差し置いて皇帝の後継者になるかもしれない……」  魅音は「よくわかったじゃない」と言わんばかりに頷く。 「まあ、皇后陛下のお住まいが厳重に警備されている理由もこれで分かったわ。そうやすやすと近づけそうにないもの」  朱亜も入口のあたりで兵に止められたことを思い出す。でも、その兵たちだって孟家の息がかかった者かもしれない。きっとこの後宮の中は、どこにいっても皇后香玲にとって危険な場所なのだろう。 「劉秀なら沈家伝いで孟家の企みを調べること、できないかな?」 「そうね。今度アイツに会う機会があったら頼んでおいてくれる?」  二人が後宮に潜入してから、劉秀は【出入りの業者】に扮して皓宇との連絡係をしている。女官の魅音とは違い、宦官のふりをしている朱亜はまだ外部との接触がしやすい。今度会ったら聞いてみる、と朱亜は頷いた。 「魅音の方は? どう? 首飾りの手がかりはあった?」 「全然ダメね」  彼女は深くため息をついた。 「女官たちに聞き込みはしているけれど……天龍様のことをおとぎ話だって思って相手にしてくれなかったり、そもそも天龍様のことを知らない子だっているのよ! この国の成り立ちすら知らない子がいるなんて思わなかったわ!」  いらだちを見せる魅音。朱亜は背中に手を添えて落ち着かせる。 「まずは後宮の宝物庫を調べたいのだけど……あそこも例の盗難事件以降警備が厳しいらしいの」  魅音の父が疑いをかけられた5年前の盗難事件。盗難を免れたり、闇市で発見された芸術品たちは今そこで管理されているらしい。もちろん、反省を踏まえ警備は厳重。うかつに近寄ればあらぬ疑いをかけられてしまう。 「ウチがどこで首飾りを見つけたのか思い出せたらいいんだけど……」 「本当にね」 「あの時は必死だったから、どこを走っていたのかも分かんないだよね」  朱亜は邪王城での出来事を思い出す。ようやっとたどり着いた宝物庫。そこで発見したのは―― 「……ッ!」  背中が凍え、体が震える。  朱亜は思い出していた。あの時見つけた――自分自身の死体を。 「朱亜、どうしたの?」 「う、ううん! 何でもないっ!」  震える手をぎゅっと握り合わせる。【あれ】は一体何だったんだろう、生活に少し余裕が出たせいかようやっと【あれ】のことを考える隙が生まれてしまった。本当に朱亜自身だったのか、精巧に人形だったかもしれない。考えればきりがない。けれど……どうして邪王の城の中に、自分そっくりの【何か】があったのか。その理由が分からないことが一番恐ろしかった。 「私、そろそろ行くわ。ここにいたら変な勘違いされそうだし」 「ウチと恋仲だって?」 「ふふっ! そんなことになったら、私たち二人とも処分されるわよ。じゃあね」  魅音はヒラヒラと手を振る。彼女も彼女で危険なことをしないか、朱亜にはとても心配だった。劉秀に魅音のことも話しておいた方がいいかもしれない。
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