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鼻腔へ届け!
9月3日。
俺はわざわざ今日に非番日を合わせ、その時を待っていたのだ。
今日はアイドルグループ「匂い玉」のニューシングルのフラゲ日だった。
フラゲというのは、フライングゲットの略。業界では、定められた発売日の前日にシングルを発売する。俺の所へは200枚のシングルCDがさっき宅配便で届いたばかりなのだった。
ぶすん。
俺は鼻を噛むと、段ボールの中のCDのセロファンをはがし始めた。シングルのタイトルは「鼻腔へ届け!」。笑ってこちらを指さすドレス姿の20名のメンバー。かわいい。
俺がこんなに同じCDを買うのには訳があった。
そもそも、CDには、A、B、C、Dと4パターンがあり、表題曲「鼻腔へ届け!」はどれにも収録されているものの、いわゆるB面にあたるカップリング曲が4枚で全部違う。つまり4パターン買わないと全部そろわない。だからこの4枚は通常ワンセットとしてセロファンで包装されている。
さらにはこのワンセットを同時に買わないと特典が付かない。その特典の一つが「フレグランスカード」だった。「フレグランスカード」は、一セットに一枚、メンバーの誰かのものがランダムに封入されている。
俺が200枚ものCDを買う目的は、この「フレグランスカード」を得るためだった。200枚買えば、得られる50枚の「フレグランスカード」。
勿論、一番の目当ては俺の推し、村川優実ちゃんのものだ。
35年間、女の人と付き合ったことのない俺だけど、優実ちゃんがいるなら彼女なんかいらない。もう、生涯優実ちゃんだけでいい。
あ、優実ちゃん。
次々にセロファンをはがしていった俺は、遂に残り3セットになったところで村川優実ちゃんのまん丸い顔と出会うことができた。よかった。うれしい。
もう待てない。早く嗅ぎたい。
「匂い玉」は、フレグランスアイドルグループだ。
視覚、聴覚以外にも、ファンの嗅覚を刺激する。CDの中には「リアスメ」の応募券が封入されており、応募し当選したら、メンバーの匂いを直に嗅げる権利を得られるのだった。「リアスメ」はリアルスメリングの略だ。
それとは別に、CD四枚に一枚封入されている「フレグランスカード」には科学的に調合されたメンバーの匂いが塗布されている。ファンは小さな円形のその部分を掌で温め、シールをはがし揮発したメンバーの匂いをほんの数秒楽しむことができるのだった。
俺は鼻を噛み、「フレグランスカード」のその部分を手の指で温めた。そして鼻先をカードに近づけると、一気にシールを剝がしたのだが。
匂いがしない。まったく。
やっぱり無理か。
俺は鼻づまりだった。
元々花粉症で、春はまったく鼻が利かなかったのだけれど、一年前から、ブタクサアレルギー、ダニアレルギー、黄砂アレルギー、寒暖差アレルギーと次々に発症し、ほぼ一年中、鼻詰まりの状態になってしまったのだった。それでも一縷の望みを持って俺はこうしてフレグランスカードを楽しもうとしたのだが、やっぱり。はじめからわかってたけど、やっぱり。
万年鼻づまりになってしまったのに、フレグランスアイドルを推しているこの状態が、俺のジレンマ。俺の悩みだったのだ。
無駄にしてしまった村川優実ちゃんのフレグランスカードをじっと眺めているうちに、涙がとめどもなく出てきた。言うまでもなく鼻水もとめどなく。
こんな体では、「匂い玉」を推すことなんてできやしないのだ。
俺は顔を上げ、六畳の部屋を見回した。
部屋の中は、アイドルグループ「匂い玉」のグッズでいっぱいだった。
ポスター、うちわ、タオル、フィギュア、Tシャツ、大量のCD、DVD、ファイルに収めた生写真。おそらく数百万はかけた俺のコレクション。
「何やってんだ俺」
そうつぶやいた俺の手の中の村川優実ちゃんのフレグランスカードが、いつの間にかぐしゃぐしゃに握りつぶされていた。
それを見た時、俺の中で何かが静かに沸点を越えたのだった。
俺は立ち上がると、貼ってあるポスターを力任せに引き裂いた。ファイルから生写真をぶちまけ、手当たり次第に破り散らした。タオルもTシャツもハサミで裁断した。ぶちまけたCDの中身に片っ端からハサミの先で傷をつけてやった。
知らぬ間に窓の外に夕闇が訪れている。
俺は何時間この作業に没頭していたんだろう。
でも、すべては終わった。
俺は、自分が一つ更新されたのを感じていた。
もうこんなことはよそう。推し活なんてもうよそう。
俺は立ち上がった。立ち上がったついでにびりびりの生写真の下に落ちていたリモコンを踏んでしまったらしく、突然、テレビが光った。眩しい。
テレビ画面にはあろうことか、「匂い玉」のメンバーが並んでいた。
「村川優実さんは「匂い玉」を離れて、そちらの「あめ玉」に移られるんですね」
司会者は、そう言って優実ちゃんにマイクを向けた。
「あめ玉」?なんのことだ?
俺は、優実ちゃんの言葉に耳を澄ませた。
「はい。「あめ玉」は新人ばかりですので、私がリーダーとしてみんなを引っ張ることになります。「あめ玉」に移ってからの私もよろしくお願いします」
「ところで優実さん、「あめ玉」ってどんなグループなんですか?」
「「あめ玉」は「匂い玉」の妹分です。コンセプトは、なめて味わうアイドル。リッピングアイドルです」
俺の目からまた涙があふれた。鼻水だって落ちた。
35年間女の人と付き合ったことない俺だけど、これからもずっと村川優実ちゃんについていける。
「ごめんね。優実ちゃん」
俺は床に座り込むと、びりびりになった写真から優実ちゃんの写真を選んでは、ひとつひとつセロテープでそれを修復し始めたのだった。
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