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第3話 籠屋通りの娘
メンフィスの街の西の方は、職人街になっている。通りごとに特定の職人が固まっているため、通りの名前は、職人の種類別でわかりやすくつけられている。
織物に関わる職人の多い通りは「織機通り」。
機織りの音が響く通りでもあり、染色した糸や裁断された布を売る店、仕立て屋などもある。
香辛料の商いが多い通りは「香辛料通り」。
食卓に並ぶ料理のためのものから、魔除けや医療のための品もある。特別に高価な舶来物を買うのは神殿か貴族くらいのもので、一般売りはなく、問屋だけがある。
そして、今からチェティが向かうのは、籠作りの職人が多い「籠屋通り」。
籠と言っても、家庭内や農業など日常で使うものから、葬儀の際に墓に納めるものまで様々だ。
通りの入り口には、ろばの肩にくくりつけて荷運びをさせるための、二つで一組の大型で頑丈な籠を編んでいる店がある。籠屋通りにある職人の店は十数件で、どこも工房と住宅が一体化している。
目的地は、このあたりのはずだった。
目指す通りまで辿り着いたチェティは、あたりを見回した。
「さて、と…。」
忙しそうにしている職人に声をかけては邪魔になる。休憩中らしい、談笑している中年の職人たちのほうに近づいた。
「すいません。お尋ねしますが、この辺りに、アンクイとタァムシャトの娘、ヘヌトさんがお世話になっているお宅はありませんか」
役人らしい口調で、丁寧に尋ねる。
振り返った男たちは、チェティの書記官らしい出で立ちをざっと見やると、訳知り顔になった。
「三件隣の、女物の上着を干してある二階の部屋がそうだよ」
「ありがとうございます。」
「例の訴訟の件かい」
「…まあ、そんなところです」
どうやら、事件は知れ渡っているらしかった。
ヘヌトの婚約者が、彼女を家に住まわせる際に同僚たちに何か説明したせいかもしれないが、この調子だと、「籠屋通り」の住民は皆、彼女の事情を聞き知っているのかもしれなかった。
階段を上がると、建物の上は小さな居住空間になっていた。いくつかの部屋が並んでいて、それぞれが、狭い独身房のようになっているらしい。
(役所の宿舎と同じだな)
自分の住まいと比べて、チェティはそう思った。
結婚すれば自分の家を構えるのが普通だから、ここは本来、独身の若い職人のための貸部屋なのだろう。
さっき外から見て女物が窓辺に干してあった部屋に当たりをつけて、その入り口に立つ。
入り口に、高価な木製の扉などはない。分厚い織物を扉代わりに垂らしてあるだけだ。
「ヘヌトさん。いらっしゃいますか」
声をかけると、中で人の動く気配があった。
「――はい? 私に何か、ご用でしょうか…」
緊張した面持ちの、若い娘が、布をめくって顔を出す。
警戒の色を浮かべた大きな瞳。農家の娘らしく日に焼けた、健康そうな体。
長い髪はいくつかの束に分けて、邪魔にならないように結んでいる。なかなかに可愛らしい顔立ちの娘だ。それに、隊一印象も悪くはない。
「書記のチェティと申します。あなたの出された訴えの件で、少しお話を伺いたいのですが」
「あ…。はい、では、ちょっとお待ちください。中は散らかっているので…その」
「姉さん、お客さんなら気にしないで。オレもう帰るから」
驚いたことに、中から少年の声がした。
布の下から、ひょっこりと、真っ黒に日焼けした元気そうな少年の顔が現れる。
「こんにちは」
「こんにちは。…ええと、君は?」
「お、弟のホリです」
後ろから、慌てたようなヘヌトの声がする。
「その…私を心配して様子を見に来てくれたんです」
(確か、ネフェルカプタハが書いてくれた家族の名前の中にもあったな)
チェティは、頭の中で素早く記憶を呼び起こす。
見たとところ、年は姉よりはずいぶん下だ。まだ、十歳かそこらだろうか。ヘヌトが養子だったとしたら血縁関係はないはずなのに、どことなく顔立ちが似ている気がするのは不思議だった。
「じゃ、ヘヌト姉さん。また来るから」
「あ、うん…。」
ホリはチェティに軽く会釈だけして、足取りも軽く帰ってゆく。その間、ヘヌトは部屋の中で、何やらばたばたと準備している。
ややあって、上着を手に再び部屋を出てきた。
「お待たせしました。外でお話させてください」
チェティは、頷いた。
確かに、こんなところで話をしていたら、話した内容は、あっという間に噂になって広まってしまうに違いない。
職人たちの好奇の視線を受けながら、チェティと娘は、籠屋通りを離れた。
チェティは、行き先をヘヌトに任せておいた。
彼女が足を止めたのは、人通りの途切れる街外れ、川から水を引き込む運河沿い。出産の女神ヘケトとメスケネトの小さな祠堂が立っている。女性たちが、妊娠や出産にまつわるお祈りをするためにやってくる場所だ。
「あの。ここでなら話が出来ます。…何の話、でしょうか」
警戒していることが、表情からありありと読み取れる。こんな時に出来ることといったら、誠実に相手の話を聞くことと、敵意はないことを会話の中から汲み取ってもらうことくらいだ。
チェティは、堅苦しい役人口調は止め、出来るだけ柔らかい口調でゆっくりと話しかける。
「今回の訴えについて腑に落ちないところがあったので、直接、お話を伺いたいと思っていました。私は裁判に直接関わる身分ではありません。何をお話されても、裁判に不利になることはありませんから、その点はご安心下さい」
嘘でもないが、本当でもない曖昧な説明だった。
本来なら、チェティは州役人で、大神殿が管轄の揉め事に係る権利はない。ただ、彼が聞き取りをした内容は、ネフェルカプタハの知る処となる。
「直接関わる身分ではない」のは事実だが、裁判結果を左右しないわけではないのだ。
「まず、あなたがこの街にいる理由についてです。実家を出られたのは、ヘヌトさん自身のご意思でしょうか。それとも、訴状を出したことと関連して家族に出ていけと言われたのですか?」
「え? えっと…。それは、…私が耐えられなかったから、です。」
これは、彼女にとって意外な質問だったらしかった。
「どうして、そんなことを?」
「あなたは、今回の件があるまで、ご自分が養女だとはご存じなかったようです。お母様のことは、実の母だと思っていたのでは? それなのに突然、訴えを起こして、同時に家を出た…となると、何か仲違いのような事情があったのではないかと察するところがあります。」
「ああ――。それは、ありました」
ヘヌトは、唇を噛んで俯いた。
「耕作地の話が来たので家を出る相談をしようとした時、母が急に怒り出したんです。まるで別人のようになってしまったように見えて恐ろしくて、それで、衝動的に家を出てしまいました。…母とは今まで、ほとんど口論をしたことがなかったんです。わがままを言ったり、家事に失敗したりした時に口答えして叱られるのは、いつも姉のセシェメトのほうでした。ひとつ違いなんです。私たち」
「お姉様とも、仲が良かったんですね」
「はい。それなりに喧嘩もしましたが、基本的には。」
「貴女は、――」
ここからが本題だ。
「お祖父様の土地の借用件を、継ぎたいと思っているんですか」
「え?」
「訴えを起こされたということは、そういうことかと思いました。仲の良かったご家族と争ってでも、借用件を得て、小作人としてお祖父様の土地に入りたいんですよね」
「それは、……」
ヘヌトは、微かなためらいの表情を見せた。
「……ニアンクセネブのためなんです。今、一緒に住んでいる」
「籠職人の?」
「はい。彼、腕は悪くないんですが、体の弱い兄弟のために借金を抱えてしまっていて、蓄えがないんです。結婚して二人で暮らす家がなくて、それで。」
「ああ。成る程、あの耕作地には家がついていましたね」
耕作地の借用件を手に入れれば、畑を耕して神殿への納税が発生する代わり、家は手に入る。農閑期には籠職人も続けられるだろうし、二人にとっては願ったりの話だったのだ。
それを、何故か養母のタァムシャトが許さなかった。
「お母様は、どうして結婚に反対されたんですか。婚約していたんでしょう?」
「いえ…実は、その。婚約の話も、その時に初めて、したんです。姉には以前から相談していたんですが、母には、言い出す勇気がありませんでした。で、神殿の書記の方が私のところへ来た時に、祖父がいたことを初めて知って、これで家を出られるって喜んで話をしたら、ものすごい剣幕で叱られたんです。『そんなの、絶対に許さない』って。」
「許さない? 結婚を、ですか?」
「多分…。彼が借金をしていることを嫌ったのかもしれません。母は、そういうことに厳しい方ですから」
ヘヌトの口調はかすかに震えてはいたが、受け答えもしっかりしていた。それに、言葉の端々から、家族への思いのようなものが伝わってくる。
彼女は本当は、家族とは争いたくないのだ。
血の繋がりがないかもしれないとしても、育ててくれた母のことは今も思いやっているし、姉妹とも、さっき訪ねてきていた弟とも、関係は良好なようだ。
なのに母親は、娘の相続を認めずに、もう一人の娘、セシェメトのほうを相続人にしようとした。
――だが、話を聞く限り、タァムシャト意地悪な継母ではなさそうだ。
単純に、自分の実の娘のほうを優先したかっただけ、ではなさそうだ。
ならば何故、相続人の名前をすり替えようとしたのか。
娘の結婚を破談にするため?
それなら、単純に結婚を認めないと突っぱねるか、娘の恋人が借金を返し終わるのを結婚の条件にすれば良いだけだ。そもそもタァムシャトは、養子に迎える時、その子が将来相続するべき財産のことを、どう認識していたのだろう。
(これは、母親のほうにも話を聞いてみる必要がありそうだな)
頭の中に覚書きを書き留めながら、チェティは、そう思った。
確かネフェルカプタハに書いてもらった覚書きには、争点となっている耕作地の場所が書かれていたはずだ。ヘヌトの家族の住んでいる村も、その近く、神殿所領の農地の広がるあたりにあるのだろう。
(明日、様子を見に行ってみよう)
チェティは笑顔を作って、ヘヌトのほうに向き直った。
「お話、ありがとうございました。お手間を取らせて申し訳ございません」
「あ、いえ…。では、失礼します。そろそろ、彼が追いかけて来そうだし…。」
そそくさと去ってゆく少女の姿。
送っていこうとした時、ちょうど、向かいのほうから青年が勢いよく駆けてくるのが見えた。
「ヘヌト!」
少女の名を呼びながら駆け寄って、肩に手を回す。
「大丈夫だったのか? 書記が会いに来た、とかなんとか…」
「なんでも無い。ちょっと話を聞かれただけ」
足早に去ってゆく二人とともに、話し声が遠ざかってゆく。
(あれが、婚約者のニアンクセネブか)
ヘヌトよりはやや年上。痩せてはいるが、不健康そうではない。
見たところ、よほどヘヌトに入れあげているらしかった。その仕草や口調からは、片時も離れていなくない。というような熱愛ぶりと、やや過保護な雰囲気が読み取れた。それに、通りの向こうに見えなくなるまでの間、青年は、チェティのほうを振り返りもせず、ただ少女だけを見つめていた。
多分、より強く惚れているのは青年のほうなのだ。
だからこそ、将来を考えている相手のために何かしてやりたいと思っているのかもしれなかった。
チェティは、運河の先を見やった。
運河の先は、耕作地に続いている。この運河自体が、畑に水を引き込むために作られているのだ。ここから郊外の神殿所領は、すぐ、目と鼻の先にある。
目の前にある小さな祠堂が郊外の運河沿いに作られているのは、ヘケト女神が蛙の姿を取る女神ということもあるが、街の住民も、近くの村落の住民も、気兼ねなくお参りできるように、という意図からなのだろう。
(ヘヌトが、この場所を選んだのは何故なのだろう)
ふと、そんな疑問が湧いた。
彼女はまだ年若く、妊娠も、出産も願う必要はない。この祠堂は確かに女性の守り神を祀る場所だが、日頃からお祈りしに来るような場所ではないはずだった。
(単に、村と街の間だから? …それとも、身内の誰かのお産で、願掛けをしにきてたことがある、とかかな?)
その時は、特に深く考えもせず、チェティは、自分の想像に納得して忘れてしまった。
祠堂に込められた意味を知るのは、もっと後のことなのだった。
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