第1話 謎とはじまり

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第1話 謎とはじまり

 大地の中心を流れる大河、ナイル(イテルゥ)のほとりで、女がひとり、泣いていた。  もう若くはない。というよりもほとんど老人と言っていい年齢で、髪は真っ白になっている。  もしかしたら、近くの農家か何かの主婦なのだろうか。年相応に荒れた指を口元に組み合わせ、皺の寄った口元に、何かぶつぶつと唱えているように見えた。  その真剣な眼差しの先には、空き家らしい一軒の家がある。家の脇には黒々と葉を生い茂らせた大きな木があり、周囲には、刈り入れが終ったあとの畑が広がっている。畑にも畦にも草が伸び放題なところから見て、今は無人らしい。  女は、怪訝そうに見つめているチェティの視線に気づいて、はっと振り返ったかと思うと、慌てて涙を拭って急ぎ足に去ってゆく。  それ自体は、取り立てて奇妙な光景というわけでもなかった。  生きていれば、泣きたいような気分になる日もあるだろう。家族に見られない場所で感情を吐露するために、敢えて人の居ないところに出てきただけかもしれない。  ただ、理由が気になったのだ。  女の横顔に浮かんでいたのは、単純な哀しみというよりは、愛憎入り交じるような複雑な表情だったから。  (――いけないな。詮索好きなのは、ぼくの悪い癖だ) 小さく首を振り、チェティは、止めていた歩みを進め始めた。  今日は、土地の測量の仕事で少し遠くに在る農地まで出かけていたのだ。何人かの新人書記も連れていったが、彼らとは現地で別れ、一人で歩いて役人の宿舎まで帰る途中だ。  チェティの仕事は、この「下の国 第一州」の州役人だ。  下の国、とは、国を半分に分けた大河の下流地域を指している。国土は上下ともに州に分かれ、それぞれに州知事と役人が存在する。  役人にも色々ある。チェティは、主に税収を担当する部署の所属だ。穀物の収穫量は土地の面積によって変わるから、年々変動する耕作地の測量も、大事な仕事の一つである。  まだ十六歳になったばかりだが、書記の卒業試験に合格したのが早かったため、今では数年の勤務経験を持ち、上級書記にも昇進している。  ただ、仕事内容は同じことの繰り返しばかりだし、彼にとっては、それほど難しいものではない。それで、合間を縫って、別のことをしているのだった。  別のこと――とは、未解決になりそうな事件や、冤罪が疑われる訴訟を独自に調査して、真実を突き止める、という、ほとんど趣味のような活動だ。  とはいえ、税収管理をしている彼が、職務外の州の裁判所に首を突っ込むのは波風が立つ。今のところ、関わるのは大神殿に持ち込まれる訴訟のほうだけだ。  この第一州では大神殿の権限が大きく、州の裁判所と大神殿の裁判所の二つが存在する。神殿直轄地で起きた事件は、神殿の法廷に持ち込まれる。そちらには、州知事の権限も及ばない。  二つの権威が並び立つこの州では、州知事と、大神官との対立という問題もあるのだが、…三年前の、あの事件以来、州知事が大神殿にあからさまな嫌がらせをすることは、無くなっている。  相棒である大神官の息子ネフェルカプタハ曰く、「今だけ大人しくしてるんだろう」とのことだったが、くだらない権力の意地に巻き込まれずに済むのは、チェティとしても有り難かった。  (そういえば、カプタハに調べて貰っていた事件…そろそろ、資料の準備が出来たかな?) 歩きながらチェティは、はるか彼方に見えている石の白い壁を見やった。  白き城壁(イネブ・ヘジュ)、州都メンフィスの別名の由来となっている、古い時代からある白い石で作られた高い壁。  街は壁の外側にも広がっていて、彼の実家も、その街の一角にある。  どうせなら、まっすぐに役人の宿舎に戻るよりは、大神殿に寄って久しぶりに幼馴染に会って、ついでに実家にも顔を出しておこう。  そう思いついた彼は、白い城壁へ通じる道へと向きを変えた。 * * * * * *  法廷から書記たちが引き上げてくるのを、ネフェルカプタハは、書庫の入り口で待っていた。  大神殿の法廷は、別名「神前法廷」とも呼ばれる。  神像の安置された至聖所に近い場所に作られていて、「神の眼の前で、神官が神の代理として裁きを下す」という体裁を取っているからだ。  この裁判所で裁かれるのは、神域の中で成された犯罪や、神殿の直轄地である神殿所領で起きた事件だ。神殿所領に暮らす住民からの訴えも、ここで処理される。  今日は、比較的軽微な何件かの訴えの審理があったはずだ。  戻ってきた書記の中に、チェティの兄ジェフティの姿を見つけたネフェルカプタハは、手にしていた巻物を置いてそちらに近づいた。  「よう、ジェフティさん。今日の結果、見せてもらってもいい?」  「うん? ネフェルカプタハ様、また来られていたんですか。構いませんが…」 本来なら、裁判記録は関係者以外は閲覧禁止――となるところだが、ネフェルカプタハは大神官の息子で、将来は父の職権を継ぐ予定の身だ。将来は裁判も担当することになるから、興味を持つこと自体は止められていない。  受け取った判決の一覧をざっと読んで、ネフェルカプタハは何故か、にやにやしていた。  「最近、ずいぶんと裁判にご執心ですね。そんなに面白いですか?」  「いや…うん。チェティが言ったとおりの結果だなあと思って」  「ほう?」  「ほら、これ。税金未払いの件だよ。税の目方が足りなかった件。」 神殿に収める税収の対象は、穀物だけとは限らない。儀式に使われる香油や香水の製造、亜麻布、蜜蝋の蝋燭、干し魚などの食料――様々な品が対象となる。  今回、訴えを起こしていた未亡人は織布の職人で、納税対象は自分で織った亜麻布だった。  必要な税は布の長さで十メフ。彼女の主張では間違いなく十分な長さを納めたということだったが、神殿に納められた時点の検品で、長さが足りないことが発覚した。未亡人は、足りないなら税収側が一部切り取って盗んだんだと言い張って、裁判所に訴え出たのだ。  なんとも些細な争いに思えるが、こうした細々とした訴えが日々集まってくるのが、民衆のための裁判所なのだった。  それに、税の目方を意図的に誤魔化すことは重罪になる。未亡人側も、疑われた以上は自分の正当性を主張するほかに無かったのだろう。  「チェティは、どうせメフ尺の間違いだろうって言ってたんだ。最近また変わったからさ。そのとおりだったみたいだな」  「そう。旧メフ尺では確かに十メフありましたが、新しいメフ尺のほうが長いので、結果として足りなくなっていたという単純な話でしたね。」 メフ尺、とは、公式に使われる長さの単位で、「腕尺」とも呼ばれる。文字通り腕の長さが基準になっていて、王の指先から肘までの長さを単位にしたものだ。  「最近また王様が変わったからなあ。役所側だけ新しい長さの尺に変えちゃ、計算が合わなくなる。小作農たちには再周知が必要だな。」  「そうですね」 頷いたあと、ジェフティは、意味深な眼差しをネフェルカプタハに向けた。  「…で、どうして、うちの弟がこの訴えを知っているんです?」  「う、それは。えーと…」 ジェフティは愛想の良さそうな笑みを浮かべているが、目だけは笑っていない。  「また、何かに首を突っ込むおつもりなんですね」  「い、いやあ~別に何も? というか、あいつの推理が当たるのが楽しくてさあ。ちょっと意見を聞いてみたり…なーんて…」 筆頭書記の青年は、ため息をついた。  「あなたには神殿内の裁判記録を見る権限がありますが、弟は部外者です。仲良くしてくださるのは有り難いのですが、あまり情報を漏らされぬようお願いしますね。」  「あー…うん。はい…。」 公明正大を魂に刻みつけたようなジェフティは、優秀なだけではなく職務や規律には忠実で、仕事で知った内容は家族にも口外しない。私的な温情はかけないし、決して賄賂を受け取らず、買収も出来ない。頼りがいはあるが、融通の効かないところもある。  しかもこれで、並の人間よりはるかに頭が回る。こちらの隠し事など全てお見通しだ。  チェティが、この年の離れた兄を苦手だと言う理由も、よくわかる。  裁判記録の紙を元通り巻いてジェフティの手元に戻すと、ネフェルカプタハは、廊下へ出た。  このメンフィス大神殿の主神は、冥界神だ。  闇を統べる神は昼間は眠っているとされ、神事は夕方から深夜に集中している。神官としての仕事が始まるまでは、まだ時間がある。  (さて、と。少し昼寝でも…) いつもどおり、夕方まではサボりを決め込もうと考えていた。  と、そこへ、廊下の向こうから、剃りたての青い頭をした新人らしい下級神官の少年が、いそいそと近づいてくる。  「あ、いたいた。ネフェルカプタハ様」  「…ん?」  「州役人のチェティ様という方から言伝です。今日は街にいらっしゃるそうで、お時間があれば、少し話をしたいとのことでした」  「おっ。丁度良かった」 退屈そうだった表情が、一瞬にして明るくなる。  「んじゃ、ちょいと出かけてくるわ。これ頼む」 言いながら、首に掛けていた神官の標章と、肩に羽織っていた上着を若い神官の手に渡す。  「いってらっしゃいませ」 まだ神殿に上がったばかりらしい十代前半の初々しい少年は、緊張した面持ちで上級神官に向かって頭を下げる。  だが、ネフェルカプタハ自身も、ほんの数年前までは大して立場の変わらない新米の見習い神官だったのだ。将来は高位神官にならねばならないから、みっちり修行させられて、肩書だけ立派になったに過ぎない。今でもまだ、自分は神官向きではないという気持ちがある。  もっとも、だからといって逃げ出したいとか、別の職業になりたいとかまでは思っていない。  ここは間違いなく彼の大事な家で、果たすべき役割も、責任も、理解はしているのだった。…一応は。
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