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第2話 相続権争いのあらまし
大神殿に言付けをしてから、チェティは、いつものように大通りの途中にあるトト神の小神殿へと来ていた。ネフェルカプタハとの待ち合わせは、一緒に書記学校に通っていた子供の頃からずっとここだ。
トト神は、朱鷺の姿をした神で、書記の守護神でもある。
その長い三日月の嘴は筆記具にも、月そのものにも喩えられる。書記学校の礼拝堂にも朱鷺の像はあり、生徒たちは毎朝、字がうまくなりますように、文章がうまく書けるようにと拝礼していたものだ。
一部屋だけの小さな神殿の中に入ると、微かな蜜蝋の香りがした。
チェティは綺麗に掃き清められた床に膝をつくと、額をつけるように頭を床まで提げてお祈りした。
特にお願いごとなど無いが、ここまで来たのだからご挨拶、というわけだ。書記の仕事をしているのだから、機会があれば、守護神にお参りしておくのが悪いことのはずはない。
それが済んで外に出ると、ちょうど、待ち合わせの相手が通りを横切ってくるところだった。
「おーい、チェティ」
手を上げて、明るく名を呼ぶ幼馴染は、相変わらず適当な格好をしている。辛うじて、きれいに剃った頭のお陰で神官と分かる程度。知らない人が見れば、せいぜい下級神官くらいにしか見えないだろう。
「元気そうだな、カプタハ。調子はどうだ?」
「いやー。毎日退屈だよ。たまに外に出られるかと終えば葬式ばっかりだ。お経唱えるのも飽きたよ。たまには結婚式とか出たいんだがなぁ」
「無茶言うなよ。この街の大神殿の主神は、冥界神だろ。冥界に旅立つ街の住民が加護を願うのは当然じゃないか」
「いやあ、それは分かるんだけどさ。俺も別に手は抜いてねぇよ。まあ…うん。ちょっと飽きたってだけだ。墓を閉じる前に宴会で振る舞われるメシは美味いんだがなぁ。なーんで葬式って、あんなに時間がかかるんだろうな…。」
ネフェルカプタハと来たら、会うといつも仕事の愚痴だ。くだらない内容ばかりで、本気で嫌がっているわけではないのは分かる。
だが、彼の場合、職業は父親の跡を継ぐべく生まれた時から決められていた。自分に適正があるとか無いとかは抜きにして、やらなければならない。そしてチェティのように、嫌になったからといって転職できるわけでもない。
こうして、形だけでも不満を零していないと不満なのだろうと、最近では薄っすら分かってきた。
愚痴を自分が聞くことで少しでも気が晴れるなら、それでいい。
「それで…」
「ああ、そうだった。お前が気にしてた、例の遺産相続人絡みの訴訟だよな」
ひとしきり愚痴ったあとで、ネフェルカプタハは話題を切り替えた。
二人は、人に話を聞かれない小神殿の裏手に移動する。
「確か内容は、相続人が判らない神殿所領内の農耕地について、だったよね。小作人に貸し出してたの?」
「ああ。今年の春までアンヘルレクってじいさんに貸し出してたんだが、ちょうど収穫が終った頃にじいさんがおっ死んじまってな。だいぶ前に家を出たじいさんの息子はもう死んでて、その娘が生きているってんで連絡を取ったら、なんと孫娘の候補が二人出てきちまったんだよ。」
「本当に二人いたってことじゃないんだよな?」
「ああ。息子の子供は一人だけだった。そこまでは調べがついているんだが…問題は、二人のうちどっちが本物か、っつぅことだな」
神殿所領とは、文字通り、神殿が所有する土地だ。一般的には、王や貴族から寄進された土地になる。
そこで採れたものや生産されたものは、国庫ではなく神殿の倉庫に入る。つまり豊かな土地を多く持つ神殿ほど財産も大きい。
中でもメンフィス大神殿は、この国が創建された時から存在する、古く格式のある聖域の一つだ。歴代の王たちが寄進した土地は多く、州の耕作地の半分近くが大神殿の所有物となっている。
この州で、州知事と大神官に権威が二分されている、と言われる所以だ。
「神殿所領の畑なら、貸した人が死亡した場合は返却されるんじゃないの?」
「家族が居ない場合は、そうなんだが、家族が生きているなら契約を書き換えて継続ってのが慣例なんだ。」
「ふうん…。で、訴えは、孫娘の候補の一人から?」
「ああ。どうも、アンヘルレクの孫娘は、父親を早くに亡くしたあと養子に出されていたらしくてな。その養家族のところに、同じ年頃の実の娘がもう一人いた。で、その二人のうちどちらが相続人か分からん、という話なんだが。」
「…養子と実子だろう? 争いになる意味がよくわからないな。誰だって、どっちが養子なのかくらい分かるだろうに。なんでそれが裁判になるんだ」
「いや、それが面倒なことに、養家族のところでは娘二人を実子として育てていたらしいんだ。で、近所の人たちも、どっちが養子かとか気にしたことがなく、本人も、養子だったということは、今回、相続人の確認をしていた神殿書記が訪問して気がついたらしい。」
「気がついた…つまり、覚えていない、ってことなのか?」
「正確に言えば、薄っすらとしか覚えていなかった、ってところだな。かなり幼い頃に養子に来たらしくて、別の人がお父さんだった気がする、とか何とか言っていたらしい。で、その証言をしたほうが養子なんだと普通は思うじゃないか。」
「うん」
「ところが、養家族が神殿に届け出を出してきた相続人は、もう一人の、実子と思われていたほうの娘だったのさ」
「…ん?」
「あー、よく分からんか。まぁそうだよな。俺も、話しててこんがらがってきた…何か、書くもん持ってるか」
チェティは、いつも肩から提げている仕事道具の入ったかばんから筆記具と、覚書きに使う素焼きの陶片を取り出した。
受け取ったネフェルカプタハは、さらさらと人物名を書いていく。
「今回の関係者は、こうなってる。」
■神殿所領の小作人
アンヘルレク老人(故人)―息子バイ(故人)―孫娘
■養家族
夫 アンクイ(故人)
妻 タァムシャト
娘 セシェメト ―実子? 相続人としてタァムシャトが申告
娘 ヘヌト ―養子? 自分が相続人として訴えを起こした人物
息子 ホリ
名前の一覧をじっと見つめていたチェティは、顎に手をやりながら首を傾げた。
「…この、娘二人の年齢は?」
「十五、六ってとこだな。ほぼ同い年だ。ちなみに、訴えを起こしたヘヌトには婚約者がいるらしい。今回の訴えも、ヘヌトが困って、その婚約者に相談したのが切っ掛けで出されたものらしいぞ」
「成る程。いくら相続の件で揉めたにしても、今まで良くしてくれていた養母を相手に若い娘がいきなり訴訟だなんて、考えにくいと思ったんだ。」
「確かにな。まあ、婚約者からしてみれば、ヘヌトと結婚すれば自分も相続権を得られる土地が、みすみす奪われるのを黙って見逃せるはずもない。関係を持ったのは相続について知る前だったにしても、知ってからじゃあ欲も出るよな」
ネフェルカプタハは相変わらず、神官らしからぬ下衆な想像が得意だ。
「そんなに良い土地なのか?」
「うーんまあ、広さはそれほどでもないが、川べりの実りの良い土地ではある。家財は、畑と住宅、牛が一頭。それと…あー、庭の端に、結構立派なタマリスクの木が植わっているんだ。あれは、木材として売れば良い値段になるかもな」
「もし相続人が確定しなかったら、土地はどうなる?」
「神殿所領だからな、別の小作人が割り当てられる。希望者は大勢いる。州知事のところより、税率は――」
と、言いかけた彼は、チェティの顔を見て、はたと口をつぐんだ。
「――言わなくても知ってるよ。州の税収のほうが、神殿より厳しいから。徴収時期も一週間ほど早いし」
「あー。うん。いや別にお前の職場の悪口を言いたいわけじゃないんだがな?」
「悪口とは思っていないよ。それにぼくは、決められたとおりに仕事をやるだけだから。」
チェティは平然とした顔で言って、話を続けた。
「まあ、状況は大体、分かったよ。ということは、まず関係者に話を聞いてみたほうが良さそうだな。内容的にはばかばかしいものに思えるけど、家族の間で対立するなんて良くない」
「そうだな。なんか誤解してるだけなら、そいつを解いてやれば訴えなんて出さなくてもいい話だし。けど、俺は夕方のお勤めがあるから…。」
ネフェルカプタハは、うらめしそうに空を見上げた。
日はまだ空の高い場所にあるが、今から出かけていては、夕方の日課の祈祷に間に合いそうにない。
見習いだった頃ならいざ知らず、高位神官となってからの彼は、自ら儀式の中心を務めることも多くなった。
香炉持ちが一人欠けたくらいでは大した影響はないが、さすがに、祝詞を唱える主担当が不在では、仕える神に不義理というものだ。
「まずはヘヌトに話を聞きたい。居場所を教えてくれないか」
「おう。じゃ、さっきの名前のところに住所を書いておく。明日また、ここで落ち合えるか?」
「明日は役所で仕事だ。昼までに終わらせければ、午後はなんとか」
「んじゃ、明日の午後にまたここで。」
「うん」
こうして、二人は別れた。
チェティのほうは、ネフェルカプタハが書いてくれた住所を目指して通りを歩いていく。
(西門の近く、籠屋通り…ああ、籠づくりの職人が集まってる通りか。ふうん、ヘヌトは今、街に住む婚約者の家にいる…養家族の家は追い出されたのかな。それとも、自分から出てきたのか…。)
まずは、彼女から詳細な状況を聞きたかった。
彼の勘は、この一件が、見た目通りの単純な相続争いではないことを告げていた。
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