第4話 川べりの耕作地

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第4話 川べりの耕作地

 へヌトへの聞き取りのあと、チェティは、街の中心部に近い場所にある実家を訪れていた。  三年前に独り立ちして役人の宿舎に移ってからは、一月に一度かニ度だけ顔を出している。理由は、苦手な兄が両親とともに同居しているからで、兄と顔を合わせると、無意識に萎縮してしまうからだった。  七つ年上で、神殿の筆頭書記。――何事につけても完璧で隙がなく、チェティの些細な失敗さえすぐに気がつく。おまけに、こちらが気づいていない失敗まで、先回りして気づいた挙げ句に修正なり対処なりしてくれている。  それも、何の嫌味もなく。  お陰でチェティは、自尊心というものを全く抱けずに成長した。書記学校で師匠に褒められても、幼馴染のネフェルカプタハに感心されても、大したことはないと思ってしまう。  あまりに優秀過ぎる身内を持つというのも、考えものなのだった。  その兄は、今日は仕事が忙しいというので、まだ戻ってきていなかった。  家には母と、まだ成人していない幼い妹だけがいる。  「ただいま、母上。メリト。」  「わあ、チェティお兄ちゃんだ! おかえり!」 妹が足元にまとわりついてくる。  「はいはい。…今日は、父上もまだ戻ってきてないの?」  「そろそろ上がりのはずよ。ジェフティは今日は戻れないかもって言ってたけど、 夕飯、一緒に食べていく?」  「うん」 幼い妹を抱きかかえたまま、チェティは、台所の椅子に腰を下ろした。  父はチェティと同じ州役人で、上級書記だが担当は州議会付きの書記官だ。財務担当で、しかも土地の測量を含む農作物が専門の部署に属しているチェティとは、ほとんど接点がない。  「最近、ジェフティには会った?」  「いや。前に戻ってきた時に話をしてからは特に」  「そう」  「何かあった?」  「うーん、あのね。ジェフティったら、お見合いの話を断ったの」  「……。」 と、いうことは、お見合い話が持ち込まれたのだ、とチェティは理解した。  兄は大神殿の筆頭書記で評判もよく、しかも長男だ。財産はさほど無いにせよ、街中の一等地に先祖代々の家を構え、将来安泰な職業に就いている。婿の候補にしたい家は、いくらでもある。  「話を聞くだけ聞いて、実際に会いもせずにお断りします、だって。まったく、何が気に入らないのやら。あの子、特にお付き合いしている女性もいないんでしょう?」 成人して随分経つというのに、母は今でも兄のことを「あの子」と呼ぶ。あの兄を子供扱いできるのは、母とイトネブ師匠くらいのものだ。  チェティは、苦笑しながら言葉を返す。  「いないと思うけど、まだ妻は娶りたくないのかも。それに、兄上は頭が良いから、きっと、ぼくらには判らないようなところで、何か引っかかるところがあったんじゃないかな。」  「そうお? せめて、こういう人が良いっていう条件だけでも出してくれれば探しようもあるんだけれど…。あっ、あなたはどうなの? チェティ。そろそろ、あなたも年頃で――」  「あーっと。そうだメリト、お母さんのお手伝いをしてほうがいいんじゃないか? よしよし。ぼくは、今日はたくさん歩いてちょっと疲れたから、奥で休ませてもらうよ」 自分に話が移りそうになったのに気づいて、チェティは大慌てで妹を床におろして隣の部屋に逃げ出した。  後ろから、母の笑い声が追いかけてくる。  「まったく。都合が悪くなった時の誤魔化し方は、ちっとも上達しないわねぇ」  (そんなこと言われても…。) 内心、溜息をつく。  こういう時、ネフェルカプタハならあっという間に、とんでもない言い訳を思いつくだろう。そして、いけしゃあしゃあと自信たっぷりに言い訳をする。あれにはいつも感心しているのだが、真似しようとして出来るものではない。  とっさに巧く誤魔化す機転の才能は、チェティには無いのだった。  それからしばらくして、ちょうど食事の準備が整った頃に父のセジェムが家に戻ってきた。  「ただいま。何だ、今日はチェティもいるのか」  「はい、仕事で街の外に出ていたついでに寄りました」  「お父さん、おかえりなさーい」 メリトが、はしゃぎながら父の腕にじゃれついている。末っ子に甘い父は自然と目尻を垂れ、笑顔になった。  「ジェフティは、まだ戻っていないな。…よっこらしょっと」  「神殿は、これからお祭りの季節でしょ。役所が暇になったら、逆に神殿のほうが大忙し。毎年のことね」  「そうだなぁ」 母がビールの入った器を差し出している。食事の前に喉を潤すように、ということだ。  チェティは、父と向かい合って食卓についた。パンとビール、煮込んだ豆。この季節は生のナツメヤシもある。  「父上のほうの仕事は? 議会はそろそろ休会ですよね」  「まあな。来年に向けての準備は大体終わったし、臨時で協議の必要な内容も特に無し。あとは年明けだ。」 州議会は、国から任命される州知事の他、議員は地元の有力者が世襲で就いている。  と、言えば聞こえは良いが、要するに村長や町長の寄り合いなのだ。州内のあちこちの地域の代表者が、自分たちの管轄の情報を持ち寄って話し合う。あるいは、国から降りてきたお達しを共有する。  「王様が何か布告を出したら忙しくなるだろうが、最近は、そういうこともない」  「逆に何もお達しがなさすぎて不安だって言ってたわよねぇ」 と、母。  「王様が何度も変わっとるからな、中央は混乱しとるんだろう。まあ、年月の計算さえ間違わなきゃそれでいい。即位年が今年で何年目か、そこを書き間違うと書類の前後がわからなくなるからな」 食事の時まで仕事の話だ。チェティは、笑顔で相槌を打ちながら、変わらない父の顔を眺めていた。  子供の頃からずっと、この顔を眺めて育ってきた。仕事熱心で、家庭のことを気にかけながら、いつも頭の片隅に職務のことがあるような人だ。兄ほどではないにせよ、頭の回転が早く、書記学校に通っていた時代には、課題の書き間違いを一瞬で見つけて指摘されることもあった。  書くことが、本当に好きなのだ。  息子たちが一人前になり、もう引退してもいい年頃なのにまだ仕事を続けているのは、必要な人材として求められているのもあるが、何より自分自身が仕事を続けていたいからなのだ。  それが分かっているから、家族の誰も、「もう引退したら」とは言わない。  食事の時間は、いつもどおり和やかに過ぎていった。  結局、ジェフティは戻って来なかったが、もう日も暮れる時間だ。そろそろ宿舎に戻らなければ、門限に引っかかって入れてもらえなくなる。  「それじゃ、父上、母上。また来ます。メリトもね」  「うん、ばいばーい」  「しっかりね」 両親と妹に別れを告げて、実家を出る。  日が暮れると、数時間ほどで辺りは闇に沈む。職人の工房や書記の仕事なら、燭台や蝋燭を使って夜も仕事をしていることはあるが、それ意外の家庭でわざわざ高価な燃料を使うことは滅多にない。大抵の家は、日暮れとともに寝てしまう。  祭りの期間でもない街は、夕暮れ時には閑散として、人通りも途切れている。  (そうだ。戻りがてら、耕作地を見ていこう)  ふと、そう思いついた。  神殿所領の農地は、運河の繋がる先にある。役人宿舎に戻る途中の道だ。川べりの土地で、タマリスクの木が生えているとネフェルカプタハは言っていたから、遠くからでも見えるかもしれない。  今は、小麦と大麦の収穫が終わり、川が増水を始めるのを待つ季節だ。  農民たちは今年の税を収め終わり、役人も税収の計算を終えれば暇になる。  まだ本格的に暑くはなっておらず、川の水位は一年で最も低い。あと一月もすればも水位は再び上昇に転ずる。祭りの季節はもうすぐだ。  (ええっと、確か…問題の耕作地は、川沿いだったな) 運河は、川からまっすぐに内陸に引き込まれたあと、川とほとんど並行になるように折れている。  その折れ目のあたりから道を逸れてしばらく歩いていくと、やがて行く手に、大きな木の生えている畑が見えてきた。  タマリスクの木だ。この季節は、生い茂る枝葉の影が心地よい日陰になっている。  (多分、あそこだ) 小屋には、人の住んでいる気配がない。  (ここは…。) 家の近くまで来て、彼は足を止めた。  この場所には、見覚えがある。確か今日、帰りに通った道だ。  誰も居ない家見つめながら、女が泣いていた――。  奇妙な縁だと思った。  無関係なように思われた光景が、急に意味を帯びて記憶の中から浮かび上がってくる。  あの女は一体、何者だったのだろう。
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