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白い記憶
第1章
私の幼少時代を過ごした場所は都内ではあったが、まだ山を崩し、河川を埋め立てたりして拡充した新興住宅地であった。
その外れには東京都の林間学校の敷地があったり、野犬を捕えて殺傷処分をする施設があった。林間学校の敷地には大きな池があった。緑の藻が水面を覆い、その隙間から覗く水の色は深い緑色をしていた。もしそこに近寄って足を滑らせ、その中に落ちたなら藻に自由を奪われて二度と陸地へは上がって来られないように思えた。
又、野犬処理場からは毎朝白い煙が立ち上がり、今朝は何頭焼かれて死んで行ったのだろうかと思わされた。私はその頃、その二つの場所が忌まわしきものとして強く脳裏に刻まれていた。
しかし大人達が決して近寄ってはいけないという場所が他にあった。それは住宅街の外れに強固な金網で囲われた場所だった。私が住んでいた家はその禁断の場所から遠かったので、大人達から注意を受けるまでその存在を全く知らなかった。それでその存在を知らされると、私は興味を引かれて、そこに行ってみたくなった。しかし、私はそこへ誰も誘わなかった。それで一人で行動することになった。人目につかないように日が暮れる頃にその場所に向かった。同じ住宅街なのに、そこへ至る道は初めて通るところだった。
(こんなところに神社があるんだ)
当時の私はお寺も神社も区別がつかない年頃だった。しかし神様がいる場所に建てられた木製の赤い門は神聖な場所であることは知っていた。私の目指す場所はその鳥居を右手にもう少し進んだ先を右折したところだった。その入口は両側をブロック塀に囲まれたとても狭い通路だった。よく見ると右側はあの神社の敷地で左側は用水とも川とも区別がつかない大きさの水の流れがあった。
(ここだ!)
その通路はずっと先まで続いていた。今思うと20から30メートル位だろうか。しかしその時は日が暮れていたこともあってもっと遠くの深い闇に続いているように見えた。
(怖いな)
私の心が震えた。しかし同時にいつも遊んでいた友達の顔が浮かんだ。ここを一人で制覇したら、きっと彼らに自慢できると思った。それに走って行けば怖くないとも思った。私はそれ以上考えることを止めて、その狭い通路を闇に向かって走り出した。すると風が冷たかった。その冷たい風が頬に鋭くぶつかった。やがて涙が出て来た。するとどうして友達を誘わなかったのかと後悔した。彼らと一緒だったらこんな辛い思いをする必要がなかったのにと思った。
やがて向かう先に何かが見えた。それは森のように見えた。たくさんの木が無秩序に生えて私の行く先に立ち塞がっているように思えた。しかし、それはすぐに金網の目からはみ出したたくさんの笹の葉だとわかった。
(この奥に何かがいる)
その時私は大人が口にした言葉を思い出した。
(何かって何だろう?)
その時私はそう思ってそれが何かを確かめたくて今日そこにやって来たのだった。金網は思ったより頑丈で高かった。それでそこから先へ進むことが出来なかった。どこかに入口がないかと思ったが、それは見当たらなかった。金網に顔を近づけてその奥を見ようとしても、笹の葉が複雑に絡み合って10センチ先も見えなかった。
そこで次に耳を近づけてみた。しかし風が笹の葉を揺する以外、何も聞こえなかった。そこには外灯が一つもなく、真っ暗だった。闇の中で白いブロック塀だけがぼんやり光って見えた。私はそれ以上どうすることも出来ずに今日はそれで帰ることにした。それで180度方向転換して通路の出口に向かって少し歩み出した時だった。いきなり後ろの笹薮からごそっという大きな音がした。その瞬間私は駆け出していた。そこに何かがいると思ったからだ。後ろなどとても見られなかった。もし振り返ってそこに異形の物を見てしまったら、私は一歩も動けなくなってしまうと思ったからだ。
私は全速力で走った。何かが追い掛けて来ているかもしれないと思った。そしてあと少しで私を捕まえるところまで来ているかもしれないと思った。しかし振り返らなかった。振り返ったらその瞬間に私は捕まってしまうと思ったからだ。
足が絡んでつんのめりそうになった。しかし通路の出口がすぐそこに見えたので、そのまま雪崩れ込むようにそこから先の住宅街へ飛び込んだ。身体が宙を舞い、堅いアスファルトを2、3回転がった。むきだしの腕と足に痛みが走った。気がつくと道路の真ん中に座り込んでいた。
(あ)
その時私は通路の方に目をやった。何かがそこから自分を追い掛けて来ていないかと確認するためだ。しかしそこには何もいなかった。先ほどと違ってその闇は数メートル先から続いていた。
このことがあって、私は二度とそこには近づかないようにした。友達にもそこへ行ったことは黙っていた。
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